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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-03-12-Saturday 年代の謎とき!

帯広の歴史を書いた本に書かれている年代がかなりいい加減なのは書いたが・・・。

我が家の今回の件でも調べれば調べるほど訳が分からなくなってきた。

3月21日(月)の十勝毎日新聞の「論壇」欄に掲載される私の文章の年代に誤りを載せたくない。締切日の16日までにもっと詳しく調べてみようと考えた。

父の坂本圭司(1927生〜1992没)から私和昭への口伝では

①坂本勝が十勝で初めて坂本勝玉堂印舗を中川郡凋寒村大字凋寒村字利別太大通六丁目十九番地に開店したのが明治37年。

②帯広町西2条南4丁目20番地に移転したのは明治38年。

③帯広町西2条南9丁目16番地(河西庁長諏訪鹿三の土地三戸分を購入して)に移転したのは大正13〜14年頃。

と聞いており私はメモを残してあった。

祖父の勝は、初来道した明治36年に同郷の山梨県人(北巨摩郡小渕沢村出身)で利別太西六番通一丁目の角の「カネヨ佐藤喜代丸商店」(金物屋)の佐藤喜代丸宅に寄宿した恩返しとして、勝が購入した西2南9の三戸分の土地の内の一戸分を佐藤に提供したことが分かっている。

「おびひろ・今と昔」(昭和33年3月 十勝毎日新聞社発行、井浦徹人著)によると

④坂本勝が来道した明治36年に寄宿した利別の同郷の「カネヨ佐藤喜代丸商店」が池田から帯広に進出したのが大正10年との記述がある。

⑤カネヨ佐藤喜代丸の子孫の佐藤篁(たかし)氏(1935年昭和10年生)の2010年3月24日の十勝毎日新聞の閉店の記事によると「昭和2年ごろ、帯広に移転」と掲載されている。

⑥帯広市史編纂委員会編集の「帯広の生い立ち」(昭和27年9月発行)によると,河西庁長諏訪鹿三の宅地(西二条南8〜10丁目東側街区)が開放されたのは昭和5年の藤丸百貨店の開店に伴ってとある。

⑦大正14年1月発行の「十勝寶盟鑑 十勝三興社編集」の広告にはカネヨ佐藤の広告が掲載されているが住所は「帯広町西二の九」とあるから、大正14年には西2南9に店舗が存在しているので昭和10年生まれの佐藤篁氏の記憶の⑤は誤りで遅くても大正14年以前である。

⑧昭和4年頃に父の圭司が2歳頃と思しき西2南9の勝玉堂前で写した集合写真があるから⑥の年代の昭和5年に開放は誤り。

この中で、明らかに誤りと断定出来ない年代で一番早い年代が「大正10年」で一番遅いのが「大正14年(以前)」となるが、広告の載っている冊子から推測して『大正10年』説を採用したのだが・・・。

今日、古い戸籍謄本などを引っ張り出してきて調べた結果、父の兄の「正男」(四男)が大正11年に西2条南4丁目で誕生したとの記録が、「圭司(貞夫)」(五男)が昭和2年に西2条南9丁目で誕生したとの記録が残っていた。

また、祖母(坂本ハナ)の書いた書類を調べたところ以下の記述を発見した。

『大正13年 西二条九丁目十六番地に店と住宅を新築。(当初)土地は諏訪様より借りた。(その後)昭和3年に諏訪様より土地を購入した。』とある。

いったいどれが正しいのだろうか?

ここはやはり「大正13年」説を採用するべきであろうと考える。