十勝毎日新聞社発行 井浦徹人著 の中から
坂本家に関連のある箇所と今回の絵葉書に関連する箇所を抜粋しておく。
P26
「金物」金物商の元祖は三井徳宝氏、山梨県北巨摩郡清春村(函館の曲ヨ進藤金物店に丁稚奉公、明治三十年に大津に入る。
P27(下段)
大正四年には小沢保貞(西二の八)同十年に曲ヨ佐藤(西二の九)同十二年藤森魯一(西二の六)昭和九年中山清文(西二の七)の諸氏がそれぞれ店舗を開いたが、おもしろいことにいずれも甲州人、なぜ金物商に山梨県人が多いのかと一寸首をかしげたくなるが、これは郷党の先輩が明治の中葉ごろから北海道に進出、揃いも揃つて盛業を誇つたのに刺げきされこの先輩を頼つてきたのが理由となつている。たとえば三井氏が奉公した函館の進藤英太郎氏のごとき、その後札幌。小樽、旭川から道東にわたつて曲ヨの支店、分店を設けており、佐藤喜代丸氏も三井氏と同じ年代に函館の進藤で商法を見習つている。佐藤氏は三井氏とともに大津に上陸、はじめ利別に開業していたが、鉄道開通のあと池田に転じ、大正十年帯広にでた人で金物商としては三井氏と並ぶ老舗である。いま広小路(西一の九)に先代のあとを享けて佐藤登氏が曲ヨの看板をまもりつづけている。
P46(下段)
「見本市に力入れた有田重太郎氏」(高橋至誠堂)(絵葉書発行か?)
明治三十二年、それまで日本銀行帯広出張所長の椅子にあった高橋又治氏が、日銀を辞めて大通七丁目に紙文房具店を出し、同時に十勝で初めての国定教科書取次販売所の看板をかかげた。これが高橋至誠堂で、爾来昭和の中頃まで四十余年にわたる老舗として親しまれた。
大通七丁目の(いまの明和石炭商会)の高橋至誠堂が、その年から帯広及び十勝一円の教科書販売を指定されたが、至誠堂も当時は和洋紙、文房具、薬種類のほか流行の赤本を少しばかり店頭に並べていたに過ぎない。
P110(下段)「家具」「伊藤英太郎氏と林長次郎氏)
大通り七丁目“北大商会”(後に丸井林商店)の名で店舗を張った林長次郎(林勝毎社長祖父)氏は伊藤英太郎氏のあとを継いで監獄の作業場に出入りしたが、当時十勝の至るところで発見された十勝石を囚人に加工させ、これを坂本勝玉堂(その頃西二条四丁目に印判店を開いていた)に卸したのが、後年十勝石の名を高めるようになったわけで、いわば十勝石を世に出した人でもある。林氏がアイヌ研究家で知られたジョン・バチェラー博士に、十勝石を加工した置物、顎飾りを贈り、これを博士が北海道みやげとして英国に持ち帰った話は有名である。
P119(下段)「看板」
帯広ではじめて看板業を営んだ人は秀佐市氏、明治三十七年西二条四丁目二十番地東仲通(いまの本村商事)に“日の出堂”として店舗を構えたがそのころ背中合わせの西二条通りには坂本氏が勝玉堂印房を開業、朝晩親しい交わりをつづけていた。日の出堂はその後いまの西一条四丁目に移ったが、大正の初めごろ田村三蔵氏が西一条七丁目に提灯と代書の店を開き・・・
P63「鉄道敷設にからむ秘話一つ」
P64(上段)諏訪鹿三と帯広駅舎敷地
(明治三十年頃)当時帯広駅は東一条の突き当りに設置されるという見通しが強く、この方面に店舗を構え、駅前通りの繁盛を夢みるものが多かった。ところが明治三十一年から同三十五年まで、第三代の河西支庁長をつとめて退官した諏訪鹿三氏は、西二条九、十丁目の一角を牧場として貸下を受けた。そのころ西二七、八丁目から西四条に至る一帯は司法省用地で、区裁判所がいまの藤丸附近にあったころ、周囲は一面のかしわ樹林、公民館附近は昼でも追剥ぎが出るといわれていた。
そんな淋しいところだから、当時の人達は誰もこの通りが将来の目抜通りになるとは夢想だにしていなかつた。諏訪牧場が出来た当時も、町の人達は「支庁長も物好きなマネをする」くらいに軽く考えていたらしい。それが当たったのである。駅舎敷地が今の場所に決定するや、裁判所は西三条九丁目に移り、諏訪牧場は市街地に開放されて一躍地価が吊り上げられた。これは諏訪氏が前支庁長の権勢をもって、極秘にされた駅舎敷地を嗅ぎつけ逸早くこの一帯に手を廻したのが図星となったわけで、遠く過ぎ去ってしまえば一片の秘話とか伝説となるが、当時の官界裏面史をうかがうものとして興味の話題たるを失わないであろう。