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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-01-27-Friday 最強寒波?

日本列島を過去最高クラスの寒波が襲っているという

ニュースを見ると、三重県の四日市市の高速道路では、雪の為に大渋滞が起きていたり、九州でも積雪があったり、関東では水道管が破裂したりしている。

しかし、帯広だけのことを言えば、過去最高クラスの寒波と聞いても、あまりピンとは来ないのである。

私が小学生の頃には帯広中心街で気温が−33℃にもなって、当時通っていた帯広中心部(現在の中央公園)にあった帯広小学校が休校になったことがあった。

気温が−18℃以下になると空気が凍るダイヤモンドダスト現象が見られるが、自分の吐き出す息が凍って前髪の毛がバリバリになる。鼻の穴は引っ付くし、涙が凍るから眼も大きく開けることは出来ない。耳は毛糸の耳掛けをしても毛糸の隙間から温度が逃げる。今みたいな密度の高い素材のモノは無かったから、どんなに重ね着していても外を出歩くのは命懸けであったのだ。

家から外に出る出入口の引き戸などは、粉雪が吹き付けて吹き溜まりになって開かなくなってしまう。

当時の帯広小学校は、古~い校舎で、窓は隙間だらけの木製で薄いガラス1枚だけだし、その窓枠の隙間から粉雪がビュービューと吹き込んでいた。暖房装置も教室にはルンペンストーブが1個だけしかなかった。朝、用務員さんが各教室を回って着火していく。用務員室の近くにあった石炭倉庫にバケツを持って石炭を取りにいくのは日直の生徒の役割りであった。

石炭ストーブは教室の前列の黒板に向かって左側に設置されていたのであるが、そのすぐ前に座っている生徒は熱くて顔を真っ赤にしていたが、ストーブから離れた後方の廊下側の生徒は寒くてブルブルと震えていたものだ。

給食の牛乳も当時は瓶であったが、寒くて凍ってしまって飲めないからストーブの上の水の入ったブリキ桶のお湯に入れて溶かしたり、温めたりして飲んだものである。

今と違って、ヒートテックなんて素材の下着も無かったから、つなぎ(オールインワン)の股引(ももひき:おしりの部分に割れ目があってトイレの大便の際にもいちいち脱がずに済ませることが出来たのだが、冬に帯広小学校で大便をすることは私にはとても出来なかった)を着たり、更にその上に毛糸で編んだレッグウォーマー(こんな洒落た呼び方ではなかったが)を重ね履いたりしていたが・・・。

親が編んでくれた毛糸のぼっこ手袋(親指と他の4指が一緒の形態)を片方だけ紛失しないように紐で繋いでいて肩にかけて使っていたが授業中は鉛筆が持てないからすることも出来ない。

当時の我が家は大正末期に建てた家であったから、本州方面の家の作り方を踏襲していたので、縁側から床下に冷気が入って来て畳の隙間から粉雪が吹き込んだ。重たい掛け布団で寝ていても朝になったら襟元は凍っていたものだ。湯たんぽやアンカは必需品であった。

電気冷蔵庫も、中身を凍らせない為に入れていたようなもので、ガラス瓶に入った飲み物などは冷蔵庫の外に出して置くと室内でも凍って割れてしまうのである。

そんな経験をしているから、−30℃よりも冷えないかぎりは最強寒波と言われても全然ピンとこないのである。

人間は一旦楽をしてしまうと、ちょっとの我慢も出来なくなってしまうものだ。外気温が−20℃にもなっていないのに、寒くて震えている有様である。

こんな中で、今、灯油もガスも電気も値上がりしている。

暖房費を節約して凍死する人が出ないかを心配している。