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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-02-16-Thursday 落語の未来

私は落語が大好きである。

落語だけと言うより「生」の演芸全般が大好きである。

その生の演芸である落語にも、ここ最近、変化が出て来たように感じる。

その変化とは・・・

元来、古典落語というのは、師匠(など)が弟子(など)に落語を一席語って聞かせるのが、俗に言う「稽古」を付けるということなのである。

( )書きで「など」としたのは、自分の師匠からだけでなく、別門の落語家からでも稽古を付けてもらうことが出来るからだ。稽古賃というのは掛からないが、他の落語家の得意噺をこの「稽古」無しに勝手に高座に掛けるのはご法度なのである。

メモも取らずに聞いて一度で憶える口伝が基本であるから、当然ながら一言一句完璧に憶えられるわけもない。だから演じる人によって内容が変わっていくのも落語の楽しみのひとつなのである。

落語家が自分のセンスで意識的に変える場合もあるし、憶え切れない細部などが意識しない内に変化してしまう場合もある。

落語に描かれる世界は、江戸時代の庶民の暮らしが多いが、江戸時代は男尊女卑の時代であり、廓が存在した時代である。当然ながら現代社会のコンプライアンスなんてものは無かった時代である。

現代の会社勤めならば週休2日で残業禁止、有給休暇は〇日間なんて会社も出て来たし、コロナ禍でのリモートワークなんて会社もある。昔の丁稚奉公ならば休みは年にたったの2日間、旧暦の1月16日と7月16日だけで、大店の商家に住み込みで奉公した。つまり24時間四六時中休み無しで、親とも会えなかったのである。

だから「藪入り」なんていう落語があるのだが、これを現代の若い人達にも伝えるには事前の「まくら」(落語本題に入る前の話)での詳しい説明がなければ内容を理解させるのは難しい時代になっているのだろう。

廓噺なんかでも、女郎や花魁や幇間、やりて婆なんて言葉も知らないかもしれない。暴力沙汰や間男や与太郎の話なんかも多いから、現代の倫理観で聞くならば受け入れが難しくなる可能性もあるだろう。

寄席に通う客ならば、テレビでは見られないそういった噺をわざわざ聞きに木戸銭を払って寄席や独演会などに行きたがるかもしれないが、スイッチを点けただけで勝手に耳に入ってきてしまう可能性があるテレビでは、クレームが来そうな演目は、モンスター視聴者からのクレームが怖いから、テレビ局側も落語家側も自粛して掛けなくなっているのだと聞く。

独善的なモンスタークレーマーが、自分が正しいと思い込んで、そういった噺を糾弾すると、日本の話芸の文化である噺を葬ってしまうことになりかねない。

私の大好きだった「艶笑落語」は寄席でもなかなか聞けなくなってしまった。

落語の良さのひとつにはナンセンスさもあるのだから、「倫理」なんて野暮なことは言いっこなしにしてもらいたい。

過剰な「正しさ」の追求は、世の中をツマラナクしてしまう。落語がそうならないことを祈っている。