かなり激しく変化をしたように感じる。
戦前の「家制度」が崩壊して「個人主義」に変化しだしたのは昭和40年代くらい頃であろうか。
私は、日本人の性格には「家」を中心にした方が合っていると思っている。
大家族が核家族になって、日本人の精神性に大きな変化が現れてきた。
「儀式」や「伝統」が横文字の「セレモニー」になってしまった感じがする。
そのセレモニーもどんどんと簡素化されている。
「北の屋台」を創った時にも思ったことだが、古来より長い間残ってきたモノには、それなりの残ってきた理由が存在する。
その存在理由を考慮することなく、単に面倒だとか、煩わしいとかいうだけで簡素化してしまうと、本来持っている大切な意味を失ってしまうのではないだろうかと危惧している。
北海道民は、全国各地からの寄せ集めであるから、先祖が元々住んでいた地方の風習が混ざり合っている。それが段々と合理化されてきたのは必然だったのであろう。
もはや、町内会の人が葬儀の手伝いをすることも無くなって、下足番も、会計係も、炊き出しもしなくなった。葬儀会社が全てやってくれるのはとても便利であるし、とても助かることだ。こんなにありがたく感じたことはめったにないことだ。
しかし、確かに面倒臭さは無くなったが、今回の能登半島の震災などの様に、何か非常事態が生じた際には、近所の助け合いが必要な場面が出てくるであろう。隣に誰が住んでいるのかも知らないような町内会では心もとない。普段からのご近所付き合いというのも必要なことではなかろうかと思う。
この変化は「個人主義」が大手を振って日本に蔓延ったから生じたものであろう。
その変化のスピードに「コロナ禍」が拍車を掛けた。
義父、義母の葬儀をほんの数年前に経験しているのだが、コロナ禍以前とコロナ禍以後では、まったくと言っていいほど変わってしまった。
テレビで能登半島地震のボランティア活動をしている方々のニュース映像を見ると頭が下がる思いがする。
体力に自信が無い私にはとても出来ないことだ。
ボランティア元年と云われているのは、29年前の1月17日に発生した阪神淡路大震災からだという。
若い人達がボランティア活動をしている姿を見て感心しているが、一方で被災地で詐欺やら泥棒が頻発しているという許しがたいニュースも報道されている。
果たして日本人は、ボランティア活動をする善人になっているのか、被災地の人から金品を奪おうとする悪人になっているのか、いったいどっちなのであろうか?