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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2024-01-31-Wednesday 桐島聡

桐島聡が29日朝に死んだとのニュース

本名を名乗ってから、ほんの数日で死んでしまった。もう少し早くに名乗り出てキチンと証言すれば良かったのに・・・、どこまでも迷惑を掛ける人間だなぁ。

それでも少しなりとも分ったこともあるようで、内田洋という偽名で、神奈川県藤沢市内の工務店で数十年にわたって働いていて、住居は工務店から数キロ離れた古い共同住宅だったという。

偽名が「内山田洋とクールファイブ」のリーダーと似ていることに何か意味があったのであろうかなぁ?

桐島聡の手配容疑というのは、1975年4月に中央区内の韓国産業経済研究所の入り口付近に爆発物を仕掛け発動させたという「爆発物取締罰則違反」の罪で、関与がこの事件だけならば数年の刑で済んだのであろうが、余罪があれば死刑もありえる罪だという。これだけ逃げ回ったことを考えると死刑もありえる余罪があったのであろう。

時効が停止になっている理由は、東アジア反日武装戦線の他のグループの共犯者がいまだ海外に逃亡しているためだという。そういえば何年か前に「超法規的措置」とかで、捕まっていた過激派の大道寺あや子らが海外に出た事件があったなぁ~。

遺族が桐島聡の遺体の受け取りを拒否しているというが、そりゃそうだろうなぁ~。桐島の家族にしてみれば、もう世間からは忘れられた存在だったのだから、名乗らずにひっそりと死んでくれていれば、家族のことなどほじくり返されなくて済んだのに、なんて余計なことを・・・と思っているのであろうなぁ。

桐島容疑者は1954年1月に広島県の名家に生まれ、尾道の高校から明治学院大学に進学したという。過激派組織「東アジア反日武装戦線」の思想に共鳴し、同戦線の「さそり」グループのメンバーとして活動したという。

大学では映画研究会、同和研究会に所属するも、すぐに退部。その後、東京・山谷の日雇労働者らの「越年資金闘争」に参加。東京都や台東区らを相手取り、闘争に明け暮れていき、この闘争の場で、ほかの「さそり」メンバーと知り合い意気投合したとみられるという。

この当時は学生運動が盛んであった。左翼の過激派学生たちが日本に共産主義革命を起こそうとしていた。

桐島聡は最後に「後悔している」と言ったというが、いったい何を後悔したのであろうか?

皮肉なことに、その後の日本は、世界で一番マルクスが理想とした国家に近い国になったと言われているし、現代の世界を見渡せば、ソ連は崩壊し、中国は共産主義国というよりは、単なる独裁国家に変貌している。

内ゲバで仲間たちを殺し、理想とした国は無くなり・・・・

公安や警察から逃げ続けて、いつ捕まるかとビクビクしながらの50年間、身分証明書が無いから、満足な仕事には就けないし、満足な生活などもすることが出来ない。ましてや自分のアイデンティティを消しながらの生活というのは、虚しく決して幸せな生活ではなかったろう。

惜しむらくは、どうせ死ぬのなら、この間の心情を全て公にしてから死んでもらいたかった。ただそれだけである。