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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-10-01-Saturday アントニオ猪木逝去

プロレスラーのアントニオ猪木(79)が亡くなった。

私はプロレスが大好きだった。

新し物好きだった父が、私が生れる以前からテレビを購入していたので、物心ついた頃からテレビを見て育った。

プロレスも大好きで良く見ていたが、最初のヒーローは力道山であった。力道山が亡くなった後で、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人のタッグに熱狂したものであった。悪役レスラーは4の字固めの覆面デストロイヤー、鉄の爪フィリッツフォン・エリック、嚙み付きのフレッド・ブラッシー、人間発電所サンマルチノなど多彩であった。日本人が外国人をやっつける姿は子ども心にも爽快な思いがしたものである。

やがて、ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、全日本プロレスと新日本プロレスに袂を分かつ。

当時はサンダー杉山、グレート草津、大木金太郎、ラッシャー木村などがいた国際プロレスという団体もあって、ゴールデンタイムに週3本はプロレス番組があったものである。国際プロレスでは外人ではあったが、人間風車ビル・ロビンソンの必殺技ダブルアームスープレックスが面白かった時は見ていたのだが、ビルが移籍してからは国際プロレスも見なくなってしまった。

全日のスローモーな馬場の戦い方は、空手チョップや16文キックなんてな技なら、俺でもかわせるわいと思ってツマラナクなってしまった。

馬場の後継者であるジャンボ鶴田の戦い方もジャンピングニーパッドなんて、キックボクシングの沢村忠の真空飛び膝蹴りに比べたらてんで面白くなかったし、適役のドリー&テリー・ファンク兄弟のスピニングトーホールドなんて技もてんで面白くなくて全日本プロレスは見なくなったのであった。

見るのはいつしかアントニオ猪木の新日本プロレスだけになっていった。

颯爽としてスピーディであった「燃える闘魂アントニオ猪木」の熱い戦い方が好きであったし、卍固め、コブラツイスト、延髄切りなどの技は恰好が良かった。適役もブッチャーだのタイガー・ジェット・シンだの激しい奴らがいて面白かったし、やがてウェスタンラリアットのスタン・ハンセンだのブルザー・ブロディだのアックス・ボンバーのハルク・ホーガンだの人間山脈アンドレ・ザ・ジャイアントだのと面白い奴らが次々と現れてとても面白かったのである。

新日プロレスが帯広市体育館で興行した時に、身長224㎝のアンドレ・ザ・ジャイアントと帯広市の広小路ですれ違ったのだが、背の高さよりも身体の厚みにビックリしたものだったが、同じ日の夜に焼肉南大門に食べに行ったらプロレスラー達が大勢来ていて、店のビールや肉がカラッポになった場面に遭遇してワクワクしたのであった。

プロレスはエンターテインメントである。

人間離れした巨体と巨体がぶつかり合ったり、スピーディな技の掛け合いが面白かった。こんな激しい戦いを本気で毎日やっていたらとても身体が持たないだろう。プロレスの勝負はお約束事で成りたっていた世界でもあった。

昔は決め技であったはずのバックドロップ一発だけでは、相手をスリーカウント出来ないようになってきた。昔の力道山の頃は空手チョップ一発で相手を倒していたのに・・・。

観客も決め技一発での決着に段々と満足しなくなってきたのであろう。

そんな頃に猪木は異種格闘技戦のはしりでもあるプロボクサーのモハメド・アリと戦ったりしたのだが・・・

世紀の凡戦と酷評されたが、真剣勝負というのは見ていても全然面白くないものだなぁと分かったのであった。

あの辺りからプロレスの衰退期になっていくのであろう。

自分自身も年を取ってくると、プロレスを見ても全然ワクワクしなくなってきた。

やがてテレビのゴールデンタイムからプロレス番組が消えた。

猪木が政治家になってからは、プロレスにはまったく興味を失ってしまった。

つい先ごろの24時間テレビに猪木が写っていた姿を久し振りに見て、随分と衰弱したなぁ~、こりゃぁ~もうあまり寿命は長いことないなぁと思っていたが・・・

プロレス界の革命児であったアントニオ猪木に敬意を表し、ご冥福を祈る。合掌


■2022-10-05-Wednesday 郵便

今日、知人宛に郵便物を送ろうと思った。

札幌市内と東京23区内の2軒にである。

札幌にはDVDを一枚、東京にはパンフレットを30部である。

両方を抱えて帯広郵便局に出向き、料金と何日に届くかを尋ねた。

札幌に送るのはB5判が入る大きさの封筒で厚みも3㎜程度の「第一種定形外」で、140円であるが、到着は11日になると言う。

「札幌に小包でもない郵便物が6日間も掛かるの?」と驚いたら、職員が「間に8・9・10の三連休を挟みますから」と言う。「札幌なら以前は1日で着いたじゃないの? 5日に発送したら普通郵便でも遅くとも3連休前には届くのじゃないの?」と言ったら「今は普通郵便は遅いのですよ」との答え、「じゃぁ速達ならいつ届くの?」と聞いたら「明日届きます」と言う。急ぎのモノではないのだが一週間も掛かるのでは困るので速達料金の260円をプラスして出すことにした。

もう一つのパンフレットの方は、ギリギリ「レターパックプラス(520円)」に入ったので、急ぎのモノではなかったのでそれで送付したのであった。

ところが、東京に送ったレターパックは翌日には到着したと感謝のメールが入ったのである。

遠い東京に送った大きなモノが1日で到着し、近い札幌に送った定形外郵便の速達と同じ日に到着するのは、何だか?な気分がした。


■2022-10-06-Thursday 寒~い!

寒~い、いきなり冬になった!

10月1日は約28℃という10月の過去最高気温になったのに、昨日は最高気温が13.8℃といきなり半分になった。

2~4日までは最高気温が18.8℃と秋の気配が少ししてきたかなぁと思った途端に、いきなり冬になったような感じである。

せめて秋が2ヵ月間くらいあって徐々に冬に向かっていくのならば、身体の方も徐々に慣れていくからよいのであるが・・・

こう急激では・・・

秋がたったの3日間だけでは、身体がこの急激な気温変化に対応出来ない。

衣服も冬物でなければ寒くてどうにもならないが、下着類もまだユニクロのエアリズムだし・・・。シャツ類も半袖が多いし・・・、とりあえず下着を早くヒートテックに替えて、長袖を出さなければ風邪をひいてしまう。

地球環境問題はかなり逼迫してきているのであろう。

「気候変動」と一口に言うが、異常気象がこうも連続すると恐ろしくなってくる。

日本の政治家で環境問題を真剣に考えている人って居るのであろうか?

国会は旧統一教会の問題でニュースを騒がせているが、円安問題、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー問題、北朝鮮の度重なるミサイル発射問題など等、早急に論議して解決してもらいたい問題が山積しているというのに、何より先に、コロナウィルスの指定感染症2類相当を5類に下げて欲しいのだが・・・。野党も、与党もホッタラカシだ、どうにもならない連中ばかりだ。

4日の朝に、家族全員のスマホの緊急アラームが鳴って、北朝鮮のミサイルが北海道方面に飛んでくるという騒動があったばかりである。

疑問に思ったのは、日本の自衛隊はこの種のミサイルを迎撃する兵器をアメリカから高い金を出して購入していたのではなかったのか?

日本海側のEEZ外に落下したのならば、これまで通りに迎撃する前に落下したという見方も出来るのであろうが、今回のは青森県上空を通過して太平洋まで4700㌔ばかり飛んだというではないか。

なぜに、日本上空をミサイルが通過しているというのに、ただ見過ごして警報アラームだけを流すのであろうか?

こういうミサイルを迎撃する為の兵器ってのは、一体何の為にアメリカから高い金払って買っているのだろうか?

宝(?)の持ち腐れなのか。

使わない(使えない)ならば税金を使うなよ!無駄遣いだろうに・・・

「安全な場所や地下に避難してください」ってアラームが報じていたが、一般住宅で地下のある家なんてそうはないだろうに・・・。地方都市に地下鉄も地下街も無いだろうに!

岸田首相が「断じて容認できない」って言ってたが、誰だってそう思ってるだろう! 言うだけなら俺でも出来る!

もしも日本の本土に向かって飛んできたら・・・

逆に、そのミサイルを撃ち落とした場合の方が大騒動になりかねないという判断なのであろうが、もしも本土にミサイルが落ちて国民が怪我をしたり死亡したりした場合はどうするつもりなのであろうか?

高い国防費は張り子の虎で、実際には何の役にも立たないと、北朝鮮のキム・ジョンウンにバカにされているのではないのか?

その証拠に今朝も2発もミサイルを発射しやがったではないか。

何だか、こんなことばかりやっていたら、その内にロシアや中国が日本の国防はたいしたことないと思って、本当に攻めてくるかもしれないぞ!

日本の政治家は異常気象よりもお寒いかぎりである。


■2022-10-10-Monday 体育の日

今日は体育の日だなと言ったら・・・

今は「スポーツの日」と言うんだよと訂正された。

体育とスポーツとどう違うんだ?

何でも横文字にすれば良いってもんじゃない。どうでも良いことだけど。

そろそろゴルフシーズンも終わりに近づいてきたが、今日は同年齢の仲間達のゴルフコンペの予定であった。

昨晩の天気予報では、十勝は大雨の予想になっている。我儘なプレイヤーを自認していて、雨、風、暑さ、寒さの中ではプレーをしたくない。

ましてや、この寒い中で雨に濡れてコロナにでも罹ったらと考えてキャンセルのメールを幹事さんに入れたら、幹事さんも似た様な考えであったらしく、コンペ自体をキャンセルすることを考えていると返事が来た。我儘を自認してはいるが、自分一人だけ止めるのは気が引けるが、コンペ自体が中止になるのならば多少は気が楽になる。

ゴルフをキャンセルすると、今日一日何もすることがない。

妻と二人で映画でも観に行くかということになった。

何を観ようかと言ったら「サバカン」が観たいと言うので、これにした。

映画はリーズナブルな娯楽である。

シニア割引料金ていうのもある。

二時間近くを、ドリンク、ポップコーン付きで一人2000円以下で楽しめる娯楽は少ない。

ただ残念なのは、上映本数が少ないのと、上映開始時間がこちらの都合と上手く合致しないことが多いことだ。

この手の邦画は、あまり若者受けはしないのだろうなぁ、観客は中高年ばかり十数名ほどであった。上映開始が11:30~だったので、昼食をどうするか迷ったのである。

シネコンの売店ではお腹の足しになるようなメニューはほとんど無いし、チュリトスは原料が輸入が出来なくて休止中である。

雨が降っているから、シネコンの外には出たくないので、1階のラーメン屋さんに入ることにしたのだが、開店時間が11:00~となっている。

7階でチケットを購入してから10:50にエレベータで1階に降りていったら、まだ準備中の様子であったのだが、店の中を覗いていたら「どうぞ」と言ってくれたので早目に入って食べることが出来た。

もう少し、映画の開始時間と食堂の開始時間を上手いこと調整してくれたら良いのになぁ~。

映画は、なかなか良い映画であった。私も年取ったせいか涙腺が緩くなっているのであろうが、ラストはホロッと涙が流れた。お勧めの映画である。


■2022-10-11-Tuesday 島田晴夫物語

10月17日(月)18:00~

東京千代田区の如水会館で、今年4月30日にお亡くなりになった「島田晴夫師を偲ぶ会」が、日本奇術協会の主催で開催される。

アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス在住の島田晴夫師が、2018年10月29日にマジック・ミュージアムを訪問してくれた。

その際に北海道新聞社と十勝毎日新聞社の記者を前にして「自分が引退したらこのマジック・ミュージアムに自分の道具や衣装や資料などの全てを寄贈する」と宣言されたのである。

マジック・ミュージアムの目玉に、何かひとつでも島田師の道具を寄贈していただけたら嬉しいなぁと思っていただけだったのに「全てを寄贈する」なんて突然言い出すものだから一番驚いたのは私であった。

どんな展示の仕方をしたら良いのか。どんなモノがあるのか等などを確認する為に、NHK札幌放送局のアナウンサーの古谷敏郎さんと二人でロサンゼルスの島田晴夫邸を2019年の2月17~20日まで訪問したのであった。

憧れのマジシャンである島田晴夫師のご自宅に泊めていただくだけでも光栄で興奮のあまり身体が震えたものであった。

師の生い立ちからこれまでの人生を詳しくインタビューした。なにせ4日間ビッシリと生活を共にしたのであるから、余すところなくお話をタップリと聞くことが出来た。

この貴重な話を、私が自分一人だけのモノにしてしまうのは、あまりにもモッタイナイ。帰国後にこのインタビューをひとつの文章にまとめたのであった。

この物語がなかなかの出来映えになったので、十勝毎日新聞社に掛け合って「世界一のマジシャン 島田晴夫物語」として3月27日~4月17日までの間に全14話の連載記事として掲載してもらうことになったのであった。

この連載記事を冊子状にまとめたモノを、今回の「島田晴夫師を偲ぶ会」の主催者である日本奇術協会のケン正木会長からの依頼で、来客者全員100名に、配布することになったのである。130部を製作して送付した。

ロサンゼルス在住のキーリー島田夫人にも報告をしたら、夫人もとても喜んでくれた。彼女も来日して偲ぶ会に出席をする。

島田晴夫師の恩に少しでも報いることが出来るのならばこんな嬉しいことはない。


■2022-10-17-Monday 島田晴夫師を偲ぶ会

世界的なマジシャンで

今年4月30日に81歳で亡くなられた島田晴夫師を偲ぶ会が、17日18時から東京千代田区の如水会館で開催された。

島田晴夫師のご自宅はロサンゼルスにあり、奥様はイギリス人のキーリーさんである。

今回の偲ぶ会の主催は日本奇術協会で、キーリー夫人を日本に招いて開催される。

日本奇術協会から届いた案内文には「(前略)この度 島田晴夫師の功績を称え 多くのファンの皆様始め お世話になった皆様にお集まりいただき 島田師の貴重映像の数々を上映し 故人の思い出やエピソードを語り合いながら 故人が歩まれた足跡を振り返りたく下記の通り偲ぶ会を催し 小宴を供したく存じます(後略)」とああった。

島田晴夫師との浅からぬ縁で、2018年10月末には帯広の「マジック・ミュージアム」にご来訪下さり、自身の引退後には島田師の道具類一切を寄贈するとの声明を複数の新聞記者を前に公式に発表された。

その発表を受けて、2019年2月17~20日にロサンゼルスのご自宅を訪問して泊めていただきながらインタビューした内容を十勝毎日新聞に「世界一のマジシャン 島田晴夫物語」として連載をした。

しかし、この後に発生した「コロナ禍」によって、この寄贈計画は大きく狂ったのであった。

この後は、お互いに行き来することが叶わず。電話とメールでのみの対応となっていたのだが・・・、今年4月30日に島田師は肝臓癌で81歳の波乱万丈の生涯を終えられてしまった。

島田晴夫師とはお亡くなりになる直前までお電話で会話をさせてもらったのだが、最終結論を決めるまでには至らなかったのであった。

キーリー夫人とは今後の事を決めなければならない。

キーリーさんとは、来日前から何度もメールでやり取りをしていたのであるが、キーリーさんは日本語が少ししか分からないし、私も英語は不得手である。お互いに翻訳ソフトを使いながらメールでやり取りをしたのであるが・・・。

やはり、直接会ってお話をしなければ文章のやり取りだけでは意思が十分に伝わらない。

偲ぶ会は、キーリー夫人が主役であるから、多くの来客が彼女と接したがっていて、充分な会話の時間が取れなかった。

なにせ、日本中から島田晴夫師を崇拝するマジック関係者が113名も集まったのである。その中にはMr.マリックやマギー司郎らの有名プロマジシャン達も居る。アメリカからは小川集人(おがわ しゅうと)さんも駆け付けた。

シュートさんとは、島田先生に連れて行ってもらったロサンゼルスの「マジック・キャッスル」でお会いしているが、彼はアメリカで活躍しているトップマジシャンだ。今年、カナダのケベックで開催されたFISMというマジックのオリンピック(3年毎に開催)で世界一になったばかりの旬なマジシャンである。

その他にも、プロからアマチュアまで日本国中から有名マジシャン達が集結したのである。

私の師匠の故ジミー忍師夫人の「こまだまこ」さん、ジミー忍後援会会長の肩書で朝生公章さん、ジミー師の一番弟子のジョニー広瀬さんなどジミー師関係者も大勢居る。(つづく)


■2022-10-18-Tuesday 島田晴夫師を偲ぶ会2

偲ぶ会の司会者はNHKのアナウンサーで

私と一緒にロサンゼルスの島田晴夫師邸を訪れた古谷敏郎さんである。

他にも見知ったマジック関係者達が大勢居る。遺族関係者では島田晴夫師の妹さんとその息子さんたち、テンヨーの故山田昭夫人、菅原茂副社長などの顔も見えた。

「テンヨー」と言うのは、デパートなどでマジック用品を販売している会社の名前で、日本近代奇術の父と言われる「松旭斎天一」の甥っ子で弟子でもあった「松旭斎天洋」が興した会社である。

そのテンヨーのディーラー(実演販売員)からプロマジシャンになった第一号が初代の「引田天功」で、第二号が「島田晴夫」、第三号が「八田加寿雄」で第四号が私の師匠の「ジミー忍」なのである。

今回の偲ぶ会に出席しているマジック関係者でも、この4人全員と親しくした人間はごく少数であろうと思う。

私はその内の一人である。

引田天功師とは昭和51年に同じ舞台に立たせてもらったし、島田晴夫師とはこのブログに書いているお付き合いをさせてもらった。八田加寿雄さんは、昭和51年か52年にフランス人の奥さんを伴って日本に戻って池尻大橋にマジックバーをオープンさせたが、開店祝いに仲が良かったジミー忍師のお供でその店に行っている。奥さんがフランスに戻ってしまい一人になった八田さんはマジックの世界から足を洗ってタクシー運転手になったが、ジミー忍師がやっていた世田谷のマジックバーに何度も飲みに来ていて、私も数度一緒に飲んでいる。

ジミー忍師はマジックの師匠である。私の年齢で、この4人と接触を持てたのは私くらいかもしれないと自負している。

今回の偲ぶ会では、私はジミー忍師夫人のまこママと朝生公章さんと同じテーブルであったが、その隣のテーブルにはMr.マリックとマギー司郎が座っていた。

司会者の古谷さんが出席者113名全員の名前を読み上げ、一人一人立ち上がってもらい紹介していたが、まこママを「ジミー忍さんの夫人のこまだまこさん」と紹介したら、マリックとマギー司郎さんがエッツという顔をした。

偲ぶ会では、この他に、島田師の昔の映像や、マジシャン達による回想、キーリー夫人の挨拶などがあって偲ぶ会は厳かに終了したが・・・。

Mr.マリックとマギー司郎がまこママの席に挨拶に来た。マリックこと松尾昭さんの出身地はジミー師と同じ名古屋である。ジミー師が名古屋のデパートでテンヨーのディーラーをやっていた時に、まだ学生だった松尾少年が通っていたのだと言う。

マギー司郎は、この名前を名乗る前に「ジミー司」と言う芸名で活動していたと言う。ジミー師に、勝手にジミーを使った詫びを入れに来たことがあると言う。二人がまこママと涙を流しながら抱き合っていた。

私と松尾さんとは、彼が東急東横渋谷店でディーラーをやっていた頃からの知り合いで、五反田のマジックショップ「マリック」にも顔を出していたし、マギーさんお師匠さんの「マギー信沢」さんは駒澤大学マジッククラブに「メリケンハット」というマジックを指導に来てくれた関係である。

ジミー師の一番弟子で大阪で活躍しているジョニー広瀬さんや、名古屋でマジックと司会業をしている「ふしぎ良」さんも日大の学生時代にジミーさんのところに顔を出していたと集まって来て、さながら同窓会のような雰囲気になった。

まこママもすっかりご機嫌になって、その後で朝生さんと私と3人で夜中まで飲んでいたのであった。(つづく)


■2022-10-19-Wednesday マジック・ミュージアム

17日の「島田晴夫師を偲ぶ会」が終了して

私は18日に飛行機で帯広に戻った。

私の運営する「マジック・ミュージアム」はコロナ禍で来客が激減し、ここ最近はほとんど休館状態も同然の有様である。

本業も芳しくない状態になってきたので、マジック・ミュージアムの展示品の全てを誰かに一括で引き取ってもらうことを考えたのである。

日本奇術協会の幹部の方々や、知り合いのマジック関係者に打診したが、「一部分なら欲しい・・・」と言ってくれる方は居るには居るのだが、「個人では保管する場所の確保も難しい。ましてや全てを展示するスペースなんてとても作れない」と言う。半世紀以上の年月と労力と金銭を掛けて蒐集したモノをバラバラにしてしまったのでは意味が無くなってしまう。

帯広市役所にも寄贈を打診したのであるが、見学に訪れた市職員は「確かにすごいコレクションであるのは認めるが、マジックというのは趣味の範疇である。趣味はマジック以外にも数多の種類があるから、公平性の観点からもマジックだけを特別扱いすることは出来ない」と断られたのであった。

何をバカなことを言っているのだと憤慨した。

今の世の中は、行政も他都市との差別化を図っていく時代であろうに・・・。

「公平性の観点」なんて言っていたら、日本全国のどこの自治体も特色の無い同じ様な街にしかならないではないか。

帯広市だって、世界唯一のばんえい競馬があるからこそ、その恩恵に浴しているのではないのか?

そのばんえい競馬だって、北海道内には4ヵ所(帯広・北見・岩見沢・旭川)あったものが、どこも不振になり4ヵ所すべての廃止を検討したのである。それも帯広市が存続を働きかけたから存続したのではない。帯広市は存続に対してとても消極的であった。

十勝選出の代議士の故中川昭一氏がせっかくの観光資源をモッタイナイと、氏の尽力によって帯広市にのみ残されることになったのだ。世界唯一になったからこそ今日の繁栄があるのに・・・。「唯一」というのはアピール力が強いのである。

マジックでは、我が「マジック・ミュージアム」が日本唯一のマジックの博物館である。日本全国には博物館は数万以上もあるが、唯一の特色ある博物館なのである。しかもマジックは音楽同様に世界共通のエンターテインメントで言葉を必要としない芸能でもある。外人観光客を楽しませるには最適なツールなのである。

帯広市には「唯一(オンリーワン)」をキーワードにした街づくりを提案したのであるが・・・

広大な十勝は、観光地も帯広市を中央にして東西南北に拡がっており、帯広駅周辺には数時間内で時間消費が可能な観光施設は無いのが現状である。

これからの街づくりを真剣に考えるのであれば、私の「マジック・ミュージアム」は恰好の素材であるはずだ。

それを一瞥しただけで「不要だ!」と断言する市職員の頭の中は、先例の無いことはやらない「お役人気質」そのものである。

話していて情けなくなった。

現在の帯広市長は経済人出身であるから、その辺りの機微には通じているかと思ったのだが、まったくの期待外れであった。


■2022-10-20-Thursday 島田キーリー夫人

世界一のマジシャン島田晴夫師が、今年4月30日に81歳で亡くなった。

亡くなる4年前の2018年10月29日に「マジック・ミュージアム」を訪問して「現役を引退したら、自分の道具・衣装・資料などの全てをマジック・ミュージアムに寄贈する」と複数の新聞社の記者を前に宣言されたのであった。

しかし、2019年12月から世界中を混乱に陥れた「コロナ禍」によって、私のマジック・ミュージアムの運営は厳しくなってしまった。

島田師との約束を果たせぬままに、今年4月30日に島田師は逝去されてしまった。

ロサンゼルスの病院に入院された島田晴夫師とはお亡くなりになる直前まで、電話で何度も会話を続けていたのだが最終結論を出せぬまま亡くなられたのであった。

今回、17日に東京で「島田晴夫師を偲ぶ会」が日本奇術協会の主催で開催されることになりキーリー夫人も来日されることになった。

私も島田氏との責任を果たすべく、今後の事についてキーリー夫人とこの機会に話をしなければならないと考えた。

キーリー夫人は、16日に来日し2週間ほど日本に滞在する予定であると言う。事前に何度もメールでスケジュールの調整を行った結果、19・20日の2日間だけ北海道に来てもらうことになったのである。

今、北海道内のとある観光企業に、私の「マジック・ミュージアム」の展示品の全てを無償で寄贈して、そこに「マジック・ミュージアム」を移転する計画を進めている最中である。

帯広市への寄贈を拒絶されてから、観光資源にもなる日本唯一の蒐集品を十勝の外に出したくはなかったから、いろいろな伝手を探ったのであったが、残念ながら十勝管内で探すのは難しかった。十勝の観光業者はアンテナがあまりにも低過ぎる。

仕方がないので、次に各方面に向かって寄贈を働きかけた結果、北海道内のこの企業のオーナーが関心を示して、今年1月に視察に訪れてくれたのである。

その企業は私の会社よりも遥かに大きな観光企業であるから、マジック界にとっても将来展望が開ける可能性が拡がるであろう。

そこに「島田晴夫コーナー」を造ることが出来るならば島田晴夫師との約束も果たせるであろうと考えて、島田師の生前にもその企業と話を進めていることは伝えてあった。

ただ、現在に至るも、まだ完全に移転の条件がすべて整ったわけではない。

しかし、今回のキーリー夫人来日の機会を逃してしまうと、ロサンゼルスと北海道との距離感をメールだけで埋めることは難しくなってしまうと考えた。

来日しているキーリー夫人に現地を視察してもらいたかったのである。

交渉相手の企業にその旨を話したら、キーリー夫人をご招待してくれると言う。

キーリー夫人も(島田氏の故郷である日本国内の)「マジック・ミュージアム」に「島田晴夫コーナー」を設置することは実現させたい夢でもあるから、是非とも行きたいと言う。私は今月初旬に一度、現地見学をしている。

キーリー夫人にはスケジュール調整をして忙しい中を来道してもらい、私も同伴したのであった。


■2022-10-21-Friday マジック・ミュージアム移転?

現在、マジック・ミュージアムを北海道内の

とある観光施設に移転させる交渉を行っている最中である。

私が尊敬する世界一のマジシャンの島田晴夫師の遺品も、この施設で引き受けてもらえないかという打診をしている。

島田晴夫師は生前に、生まれた国である日本国内に「島田晴夫マジック記念館」の様なモノを作りたいと切望されていた。2018年10月29日には私が創った「マジック・ミュージアム」を見学にロサンゼルスからわざわざ駆けつけてくれた。

マジック・ミュージアムを見学した島田師は、私が依頼してもいなかったのに、「引退後に自分の全ての道具や衣装や資料などをここに寄贈する」と取材に来ていた複数社の新聞記者を前に公に宣言されたのである。それを聞いて一番驚いたのは私であった。

島田師の希望を叶えるべく、2019年2月17~20日までロサンゼルスの島田晴夫師邸を訪れて、寄贈を受けるモノを見せてもらったり、相応しい展示の仕方を提案する為に、師の生い立ちをインタビューした。

このインタビューを元にして、十勝毎日新聞社で「世界一のマジシャン 島田晴夫物語」を執筆して14回にわたって連載した。

今回の「島田晴夫師を偲ぶ会」においても、この連載を冊子状にしたものを出席者全員に配布したのであった。

2019年12月頃から世界中を混乱に陥れ、現在までもまだ続いている「コロナ禍」が始まった。世界中のエンターテインメントが打撃を受けた。私の運営する「マジック・ミュージアム」も例外ではなく。閉館を余儀なくされる事態となってしまったのである。

そんな中で、今年4月下旬にキーリー夫人から島田晴夫師が入院したとの連絡が入った。かなり危険な状態だと言う。

そうしたら、島田晴夫師本人から私に直接電話が入った。

「マジック・ミュージアム」に「島田晴夫コーナー」を作る約束のことが気になっている様子であった。この北海道の観光施設への移転話を始めた件を師に伝えた。そして島田晴夫師は4月30日に81歳の生涯を閉じられたのである。

島田師の生きておられる間に、この話をまとめたかったのであるが叶わなかった。

あれから約半年、島田師の未亡人となったキーリー夫人が「島田晴夫師を偲ぶ会」に出席するため等などの用事で来日する。この機会に、この施設にもご招待して現地を見学してもらっいたかったのである。

キーリー夫人もスケジュールを調整してくれて、現地をご案内することは出来た。後は、キーリー夫人とこの観光施設との間で、交渉を進めてもらうことになる。英語が堪能なこの施設の担当者は、30年前にラスベガスに在住しており、リビエラホテルのスプラッシュでの島田晴夫師の演技を生で何度も見て感激したという。実際に師の舞台を見ている担当者が居るのは心強い。

私の「マジック・ミュージアム」の移転交渉とはあくまでも別案件であるが、なんとか両方ともうまく話がまとまって、日本唯一の「マジック・ミュージアム」が世界的な施設へと発展してほしいと願っている。


■2022-10-22-Saturday 俄かに・・・

マジック・ミュージアムを閉館して

他所の場所に移転する計画があることを公表した途端に、俄かに来場者が増えだした。

皮肉なものである。

帯広でマジック・ミュージアムを見られるのも、もうあとわずかだとなると、見ておきたいという欲求が生れるのかもしれない。

しかし、徐々に搬出のための整理を始めたものだから、かなり雑然としているのだが・・・。

それでもかまわないと言うので開場している。

来場者の方々は「こんなにすごい量のコレクションだとは思わなかった」「もっと早くに観に来れば良かった」「これを無償で寄贈するなんて随分と太っ腹なんですね」モッタイナイ」などの感想を述べていく。

私だってモッタイナイと思う。

バラバラにして、購入希望者に販売することも考えたし、ネットオークションで販売することも考えたが・・・

しかし、せっかく半世紀以上も掛けて一か所に蒐集したコレクションをバラバラにしてしまったのでは、これまでのマジック人生を否定してしまう様な気がしたのである。

私のこれまでの64年間の人生において「マジック」は53年間を占めている。実に大きな影響を受けてきたのである。

そのマジックの世界に、いくばくかでも恩返しがしたい、貢献したいと考えたのである。それには、このコレクションを後世に残すことであると考えたのだ。

世のマジック愛好家の大半は、家族の理解が得られないケースが多いようだ。マジックの書籍や資料なんて読んでもチンプンカンプンであろうし、実生活では使い物にならない箱だとかコップだとかを残されてもゴミとして捨てるしかなくなるであろう。

今日日、捨てるにもお金が掛かる時代である。

幸いにも、後世に残せて、しかも発展させる可能性のある引き受け先が見つかった。

後は、少しでも良い方法でマジック界に貢献できる展示の仕方をアドバイスできるようにしたいと考えている。

もうじき、寄贈先企業名を明かせる時期が到来するであろう。

私にとっては、マジック・ミュージアムが地元の十勝から離れることは、とても残念なことであるが、今、私に出来る最善の方法であるとも思っている。


■2022-10-23-Sunday 大根葉

大根葉の漬物が大好物なことは

何度もこのブログに書いているが・・・

今年も大根の収穫時期になった。

知人の農家さんから「大根葉を今日の夕方に自宅の玄関前に置いておきます」とのメールが入った。有り難い!

大根の葉っぱなんてシロモノはスーパーマーケットなどの小売店には売っていないのである。

嵩張って流通の邪魔者になるから、農家が出荷時に切り落として破棄してしまう。

だから、ほとんどの消費者は、大根葉が食べられることすら知らない人が多いのである。

食べたいと思ったら農家さんに捨てないでとっておいて欲しいと依頼するしかないのである。

大根の葉っぱは切り落としてから時間が経つと、しおれてしまって不味くなってしまう。

切り落としてから数時間以内に漬けるのが理想なのである。

本来ならば私が農家まで取りに行かなければならないのであるが、この知人の農家さんは自宅にまで届けてくれるというので、私としては感謝に堪えない。

「日曜日の夕方の一家団欒の時間帯に届けるから、玄関のチャイムを鳴らさずに、玄関先に黙って置いて帰ります」と言うので、「お礼の焼酎瓶を玄関に置いてあるから持って帰ってください」とメールしておいたのであった。

夕方に、大根葉が4袋(約50~60本分くらい)とその他に大根とジャガイモや玉ねぎなども置いてくれたのであった。新鮮な野菜をいただけるのは実にありがたいことである。

葉っぱはシャキッとしている内に洗わなければならない。

さっそく、作業を開始したのであった。

我が家の家族は、全員、私の影響を受けて大根葉の漬物が好物になっている。

細かく刻んで味の素と醤油を掛けて、温かい炊き立てのご飯に混ぜて食べるのが一番美味いと思っているが、納豆に混ぜても絶品なのである。

漬物は、元々冬の保存食であるが、さて、果たして今年漬けた大根葉の漬物は何月頃まで残っているのであろうか?


■2022-10-25-Tuesday 進捗

マジック・ミュージアムを移転する交渉を

とある観光企業と進めていることはこのブログに何度も書いているが。

その北海道のとある観光企業の担当者から、故島田晴夫師夫人のキーリーさんに、以下の案件の仲介依頼がきた。

キーリー夫人は先週、その観光施設からご招待を受け、私も同伴して訪問している。

その観光企業のこのプロジェクトの担当者数名が来月アメリカへの出張を計画していると言う。

ロサンゼルスに行ってキーリー夫人にご案内をしていただき、島田晴夫師邸に置いてある島田晴夫師のマジック道具、衣装、資料などを実際に見てみたいと言うし、ロサンゼルスに在るマジックの殿堂のマジック・キャッスルにもご案内いただいて見学をしたいとも言うのである。

更に、その後はラスベガスにも寄って、現在、世界一有名なマジシャンであるデビッド・カッパーフィールドのショウも見てきたいのだと言うのだ。

このプロジェクトの担当者は、マジックが趣味という方々ではない。

これまでに、一人を除いて生でマジックショウを観たことがないのだと言う。

テレビで何度かマジック番組をちょっとだけ見たことがあるだけだが、それも熱心に見ていたというわけでもないのだと言う。

本場アメリカのマジック・キャッスルやラスベガスの一流のマジックショウを見学することは、私のマジック・ミュージアムの展示の仕方にも参考になる素晴らしい経験になるであろう。これでこの企業の本気度が窺い知れた気がする。この視察によって担当者たちがマジックに魅了され、マジックファンになってくれたらありがたいことである。

キーリー夫人もきっと喜んでくれるだろう。

早速、キーリー夫人にメールを入れたのであった。

翻訳ソフトを使って英語に直して送信しているのだが、はたして私の意とすることが正確に伝わっているであろうか?

ぜひとも実現してほしいと願っている。


■2022-10-26-Wednesday 歯痛

久し振りの歯痛である。

今朝から右の奥歯が痛い。歯茎も腫れているようだ。痛くてモノが右奥歯では噛めないので、左側の奥歯と前歯で嚙み砕いて食べているのだが、何とも食べにくい。

歯が痛くなるのは2年振りのことである。2年前に歯医者に行ったきりで、以来歯医者には掛かっていない。この時には左上の親知らずが虫歯になったので抜いたのであるが、2回だけの通院で治療は終了した。

その後は歯が痛くなることも無かったので、医者嫌いの身としては歯医者にもなるべく行きたくないのである。

身体がどこか痛いのは少しなら我慢が出来るが、歯が痛いのでは食事が出来なくなるから我慢にも限界がある。歯医者に行くのは嫌なのであるが餓死するよりはましであろうと思って、2年前に行った歯医者に電話をしたら・・・

予約が一杯で2週間後の診察になると言う。

さすがに、この痛みを2週間は我慢することは出来ないなぁと思ったら、1件キャンセルが入ったから明日なら来られるか?と言う。

今すぐにでも飛んで行きたいところであるから、その他の入っていた予定を変更することにして診察をお願いしたのであった。

痛み止め薬もないから、今日はお酒を飲むのを止めて、すぐにベッドに入ったのだが、ズキズキして痛くて眠ることが出来ない。

久し振りの睡眠不足である。

歯痛というのは困りものだ!


■2022-10-27-Thursday マジックの行方

歯が痛くなって歯医者に行ったのだが、

レントゲンを撮って診てもらったら、奥歯の奥が炎症を起こしているようだ。歯医者が言うには、抜いた方が良いけど・・・と、しかし、私はなるべく歯は抜きたくないので冠を外して治療出来ませんか?と聞いたら・・・

冠を外すには、結構な衝撃があるから現在の炎症したままだと痛くて耐えられないと思うので、今日は炎症を抑える抗生物質と痛み止めのお薬を出しておきますから、炎症が治まってからの治療にしましょう。と言う。

結局、薬をもらっただけで治療はせずに、次回の診療は再来週である。歯医者も混んでいるんだなぁ~。

まだしばらくこの歯痛を抱えたままというのはツライなぁ~。

ブログの読者の方から、坂本さんのマジック・ミュージアムのことが日経新聞に載っていたよ。と教えられた。

10月23日の日本経済新聞の電子版に「マジックの行方」と題して、翻訳家の金原瑞人さんが寄稿したエッセイの冒頭箇所に、私とマジック・ミュージアムのことが載っていたのである。

金原さんがマジック・ミュージアムを訪ねてくれたのは、もう6,7年も前のことであるのに、ちゃんと覚えていてくれたのであるなぁ~。嬉しいことだ。

金原さんは、2004年に「蛇とピアス」で芥川賞を受賞した作家の金原ひとみさんの父親で、ファンタジー系の小説の翻訳家として、また法政大学教授として活躍されている方である。

マジック愛好家は、良い方々ばかりであるなぁ~。その冒頭箇所のみ以下の『』内に転載する。

『2015年の冬、ぼくのHPに坂本和昭さんという方からメールがきた。帯広の図書館で講演をなさるそうですが、その前日にでもいらっしゃいませんか、とのこと。坂本さんはアマチュアのマジシャンで、その年の12月、帯広に「マジック・ミュージアム」をオープンする予定なのだが、特別におみせするので、ぜひ一度、というお誘いだった。ぼくの趣味が手品だということをどこかでお読みになったらしい。

そこでお邪魔したところ、ここが素晴らしい。オープン時に、マジックの道具類が数万点、壁に飾られた様々なトランプが930個というのもすごいが、何より目を引いたのは関連図書1万5千点のほうだ。マジック関連の解説書や手引きや雑誌だけでなく、マジックが登場する小説やエッセイなどもある。圧巻だった。本好き、ミステリ好き、マジック好きの人にはぜひ勧めたい。 』


■2022-10-31-Monday 金原瑞人さんから

金原瑞人さんに、日経新聞掲載のお礼の

メールを入れたらすぐに返事が来た。

『坂本さま  そうそう、まくらに使わせていただきました。

じつは、このエッセイ、依頼を受けたとき、2回連続だと勘違いをして、ふたつ書いてしまいました。一の方しか掲載できなかったので、二のほうも添付します。』

解説風にして翻訳すると、日経新聞のエッセイの依頼を2回連載だと勘違いして2回分を書いたが、10月23日に載った1回分だけの掲載だった。幻となったその1回分を添付するから(読んでください)。とまぁこんな感じであろう。嬉しいことである。私のブログの読者の方にも金原さんの幻のエッセイのさわりの部分を紹介しよう。

『マジックの好きな人ならご存じだろうが、世界的に有名なマジシャン、デビッド・カッパーフィールドがニューヨークの自由の女神を消したのは1983年。しかし第二次世界大戦中の北アフリカ戦線で、ジャスパー・マスケリンはスエズ運河を消した。

ジャスパーは当時すでに有名なマジシャンだったが、マジックの発想を駆使してドイツ軍を翻弄し、「砂漠の狐」の異名を取った名将ロンメルを敗走に追いこむのに一役買った。彼を主人公にしたフィクションがデヴィッド・フィッシャーの『スエズ運河を消せ』(金原瑞人・杉田七重訳)だ。

しばらく絶版になっていたのだが、ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化されるというので、早川書房から文庫化の話がきた。

中学生の頃から手品が好きなぼくとしては、この作品は訳していてとても楽しかった(後半部分は略)。』

とこの幻のエッセイの冒頭に書いてあったので、マジック・ミュージアムの書庫からさっそく「スエズ運河を消せ」を持ってきてじっくり再読することにした。

ベネディクト・カンバーバッチは「ドクター・ストレンジ」役で人気が出てきた役者である。

読書好き、マジック好き、映画好きな私とは趣味が一致している。