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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-10-02-Monday 日曜日

昨夜はゴルフの表彰式で飲みすぎて、

朝寝坊してしまった。

最近は21:00には眠たくなってしまうのに、優勝者と準優勝者二人によるオゴリという慣習によって、コロナ禍以来4年振りに2次会に参加して21:30まで飲んでいたのであった。若い連中はまだまだ飲んでいたそうな雰囲気であったので場の空気を読んで私は静かに失礼して自宅に戻ったのであった。

もう昔の様には深夜まで飲むことは出来なくなっている。

最近は晩酌でせいぜい焼酎のソーダ割を2杯までしか飲まないのに、昨日はビールの中ジョッキを1杯、焼酎の炭酸レモン割りを2杯、場所を変えてウィスキーの水割りを3杯も飲んでしまった。久し振りの大酒に具合が悪くなってしまった。

今日の午前中にほぼ同年代の知人に会って音楽の昔話をした。我々が中学生の頃にはラジオとレコードが洋楽を聞く手段であった。私が初めてSPレコードを買ったのは小学5年生の時のお年玉であった。確か値段は330円位だったと記憶している。その後400~500円位へと値段がどんどん高騰していった。LPレコードを初めて買ったのは小学6年生の時に買ったビートルズのレット・イット・ビーで確か1800円位ではなかったろうか。LPもその後は2000円~2枚組だと4000円位にまで高騰した。

ラジオ番組にリクエストの電話をしても好きな曲が掛かることは滅多になかったから、何度も聞きたい曲はレコードで買うしかない。親しい友人とは「お前○○のレコードを買えよ。俺は××のを買うから、聞いたら貸し借りばくりっこ(交換)して聞こうぜ」などと協力して曲を聞いたものであった。

それが今や、レコードは消滅し、CDになったが、それも更にCDショップが無くなろうとしている。ネット等で何曲でも好きな曲を安く購入出来る世の中になったようである。もう友人と協力して曲を聞く苦労もしなくて済む世の中になったのだと言うが、それって本当に幸せなのであろうか?

友人と「来月のお小遣いで誰のレコードを買うか」と相談するのが楽しみであったのに、それすら必要なくなる。音楽を通したコミュニケーション手段の一つが失われているのではなかろうか?何でもかんでも便利にすることによって他人を必要としない「おひとりさま」の世の中が良い世の中だとは全然思えないのだが・・・。

昼からやることがないので、帯広美術館に「リサ・ラーソン展」を鑑賞しに行った。私もリサ・ラーソンの作品は好きで「マジシャン」という作品を所有していたのだが、これもルスツ・リゾートに寄贈してしまったので今は手元にはない。今回の展示会には同じモノが出品されていなかったのはとても残念であった。

帰宅してからは、テレビでゴルフ観戦である。女子も男子も共に見応えのある戦いであった。

女子で2位になった菊地絵理香選手は良く頑張ったがパワーで負けた感があるなぁ~。菊地選手は札幌出身だが東北高校で娘の後輩である。スポーツ部の寮ではフィギュアスケート部がゴルフ部や柔道部の選手らと一緒に暮らしていた。東北高校の女子ゴルフ部には宮里藍、有村智恵、原江里菜、木戸愛などの有名女子プロを輩出している。やっぱり何等かの関係があると応援したくなるものだなぁ。


■2023-10-04-Wednesday 取材

雑誌社の取材を受けた。

2018年11月24日に発行された写真集「帯広昭和ノスタルジー」(2500円)という240頁の本を出版した「ぶらんとマガジン社」という札幌の出版社からである。

この写真集には「坂本商事・坂本ビル」として10ページに亘って我が社のことが掲載されている。

我が社に残っていた古い写真を提供し取材を受けたのであった。

この雑誌社では「HO ほ」という情報雑誌も出版しているが、今度はこの「HO ほ」で十勝の特集を組むという。この中で、「帯広昭和ノスタルジー」に使用した写真やインタビューを再掲載したいとのこと。もちろん喜んでOKしたのであった。

記者とカメラマンの2人が、我が社を訪問したのだが・・・、

どうやらこの5年前の取材時に見学して行った「マジック・ミュージアム」の紹介をしたい意向であったようだ。

去年10月末で閉館し、全展示品をルスツリゾート社に寄贈した旨を伝えたらビックリしていた。

肝心の取材対象が消失しているのであるから、すっかり構成の予定が狂ってしまったことであろう。

それでも、前回の取材時に使用した写真以外の古い写真を数点提供して昔話もしたのであった。果たして使用してくれるのであろうかなぁ~?


■2023-10-08-Sunday 駒澤大学同窓会十勝支部

今日8日に私が支部会長を務める

駒澤大学同窓会十勝支部の総会&落語会(駒大寄席)を坂本ビルで開催した。

総会は13:00から坂本ビル6階の会議室で開催。議題の「役員改選」で14年務めている会長職を降りたいと去年から申し出ていたのであるが・・・

私よりも若手の会員が少なくて、後任会長のなりてが居ない為に、来年10月の十勝支部創立25周年までの期間の1年間の任期延長ということになったのであった。

十勝支部は日本全国にある57支部の中でも所属会員数が下から4番目という会員が少ない支部である。それも下から3番目の釧路・根室支部とはたった一人しか違わないという少数精鋭の支部なのである。

少数精鋭と書いたのは、会員数は少ないが、他の支部のお手本となる様な催しを行って駒澤大学のPRを行っているからである。

駒澤大学同窓会本部は去年で創立100周年を迎えたが、25年前くらいから全国各地に同窓会の支部を多数立ち上げて同窓会活動に力を入れてきた。十勝もその流れで支部創設を働き掛けて1999年10月に十勝支部が出来たのである。その時に私は幹事長として設立に力を注いだのであった。

同窓会本部では、駒大を卒業した野球選手や芸能人などの有名人を「派遣講師」に任命して、全国各地の支部の総会を開催する時に派遣してくれる制度がある。その際には派遣講師のギャラや交通費も同窓会本部が全額負担をしてくれるのである。

1999年10月の設立総会の時には、プロ野球の元巨人軍の4番バッターの中畑清氏と女性シャンソン歌手の黒木悦子さんという2人の講師が派遣されて盛り上げてくれたのであった。

その後も総会の度にマジシャンの和田奈月さんやら落語家やらを呼んで公演してもらったのであるが、なにせ会員数が少ない十勝支部であるから、総会への出席者数は10~15名ほどでしかない。そんな少ない人数で公演してもらうのはモッタイナイからと、はじめは会員の家族、そして5年目くらいからは駒大同窓生以外の一般の帯広市民にも開放しようよということになっていったのである。

「落語会」はその頃から始まった。確か、最初の頃は北海道在住だった三遊亭貴楽(5代目三遊亭円楽の弟子)さん一人を呼んでいた。

十勝支部設立10周年の総会の際に、三遊亭貴楽さんと、その弟弟子(5代目三遊亭円楽の最後の弟子)の王楽さんの2名を呼んで「駒大寄席」として開催したのである。この時には観客数が200名ほどになっていた。

王楽さんはこの時にはまだ「二つ目」であったのだが、数日後には正式に「真打」に昇進する直前であった。その後、若い王楽さんを応援しようという機運になって、王楽さん一人を招いての落語会をずっと開催してきたのだが、15周年の時には王楽さんのお父親さんで笑点メンバー(ピンク色の着物)でもある好楽(好楽さんは駒大出身ではない)さんと親子で呼んで「親子寄席」として開催したのであった。

20周年(2019年)では、三遊亭王楽、三遊亭ふう丈、花仙(江戸神楽)の3名を招いてとかちプラザレインボーホールで300名以上の観客を入れての「駒大寄席」を開催したのであった。

その翌年からはコロナ禍で集団感染を恐れて「寄席」は中止、今年4年振りに王楽、ふう丈の2名を招いての久々の「駒大寄席」として開催したのであった。

ただ今年は、コロナ禍の動静を直前まではかっていたので開催日の決定が遅れてしまい、会場に空きがなかった為に、今回は坂本ビル6階大ホールを会場として開催することになったのであった。

会場が狭くてフラットな為に、「とかちプラザ」の半分の収容人数しか入れないので、今回の一般の方の入場数は100名限定という少人数にせざるを得なかったが、大盛況であった。

入場料は無料である。落語の独演会ならば通常なら3000~5000円くらいはするのであるが駒大寄席は無料で聞けるのである。開始前に私の挨拶での駒大PRを5分間ほど我慢して聞くだけで、更にお土産として「駒大タオル」も貰えるのであるから、一般のお客様は大喜びであろう。

総会終了後の14:30開場、15:00から17:30くらいまで「駒大寄席」を坂本ビル6階大ホールで開催した。

今回の演目は、まず、ふう丈さんが古典落語の「猫の皿」、王楽さんが古典落語の「天狗裁き」、中入り後にふう丈さんがオリジナル新作落語の「ゲセワセワ」、王楽さんが古典の人情噺の「宗民の滝」とそれぞれ二席ずつたっぷりと演じてくれたのでお客様も満足してくれたのではなかろうか。やっぱり芸能事は生で観るのが最高なのである。

懇親会にはゲストの落語家や同窓会本部の副会長など大勢が参加してくれて、昔話に花が咲いたのであった。年齢は異なっても同じキャンパスに通った仲間は共通の話題で盛りがるものだ。同窓会の良さを再確認した1日であった。


■2023-10-11-Wednesday 銀行の

銀行の決済が不良を起こしたという。

銀行間の振込などの決済が出来なくなっているという。

どうやら銀行間のシステムに違いが有るのが原因らしいが・・・、まだ調査が完了していないから本当の原因究明はまだのようである。

コンピュータは便利だが、全てをコンピュータに頼るとこういうことになる。

某国やテロ集団などによるシステム破壊や妨害の可能性はないのだろうか?

平和ボケしている日本において、コンピュータに細工をすれば、社会活動が立ち行かなくなってしまう実例である。

先般も鉄道の切符の決済が出来ないという事故も起こったばかりである。

スマホやコンピュータの画面上の数字だけで安心していられる人々の気持ちが理解出来ない。桁を間違えて打ってしまうこともあるであろうし、悪い奴に騙されて盗まれる危険性だってあるだろうし・・・

そもそも、私はこういうデジタル社会にまったく順応出来ていないから、デジタルの数字をまったく信用できないのである。

目の前に現金を持っていないと、とても不安なのである。

便利は怖い!


■2023-10-12-Thursday 風邪?

行事がひと段落して

気が抜けたのであろうか?

それとも最高気温と最低気温の差が18℃もある極端な気温差のせいなのか?

身体がダルくて。鼻水が止まらない。本を読んでいたら、自分で気が付かない内に鼻水がタラ~ッと流れてくる。

その内に咳が出るようになってきた。

この咳と云う奴は、結構体力を奪うものである。

昨日一日会社を休んで自宅で静養していた。

2020年からのコロナ禍の間にも風邪の様な症状が出たことは無かったし、それ以前にもここ10年以上も風邪に罹ったこともないのに・・・。

私は病院が嫌いだ。

病院に行くと何だか気分が陰気臭くなってしまうし、他の病気をもらって来るのではないかと感じてしまうのだ。

だからよっぽどのことが無い限り病院には行かない。

注射も大嫌いだから、インフルエンザやコロナのワクチン接種もしたことが無い。

人間の手指をやたらと殺菌したり、使用する道具を滅菌したりするのは、かえって人間本来の菌に対する抵抗力を弱らせることになるのではないかと思っている。バイキンを多少は身体の中に入れた方が人間の身体は健康になると考えている。

今回も久し振りに風邪の様な症状になったが、自分の免疫で治すつもりでいる。

地球では細菌も人間も共存共栄なのである。


■2023-10-13-Friday カーボンクレジット

東京証券取引所が10月11日に

「カーボンクレジット市場」を開設したというニュース。以下『』内に記事を抜粋する。

『脱炭素社会の実現に向け、二酸化炭素(CO2)の排出量の取引を行う「カーボン・クレジット市場」が東京証券取引所に開設された。「カーボン・クレジット市場」は、企業などが再生可能エネルギーの利用や森林保護の取り組みなどを通じて、二酸化炭素の排出量を減らした分を国が「J-クレジット」と認定し、株式や債券のように売買できる仕組み。二酸化炭素の削減に取り組む企業は、クレジットを市場で売って利益が得られる一方、削減が進まない企業は、クレジットを買うことで排出量を減らしたとみなされる。市場には電力会社や商社、金融機関など188の企業や団体が参加して、午前と午後のそれぞれ1回取引が行われる。』

アホクサッ!

これの一体どこが環境問題に貢献すると云うのだろうか!所詮は「経済(金)」の問題である。この方法でC02の排出量の総量は何も減らないからだ。

この「カーボンクレジット取引」に一体何の意味があるというのか?

地球温暖化が人類のCO2の排出量の増加に起因すると言われている。科学者の中にはこの説を否定する人も大勢居るが、地球温暖化の原因がハッキリしていない中で、尚且つ、世界的な激しい気候変動が顕著な中で、完全否定するにしても、それならば誰もが納得するような説を出してもらいたい。

地球環境問題の欺瞞性、SDGsのまやかしがここにも表れている。

私は1992年に帯広青年会議所の「都市環境問題委員会」の委員長に就任して以来、地球環境問題に取り組んできた。

93年には「国際環境大学」を十勝に創設することを提言し、「言い出しっぺ」として95年には担当副理事長として「国際環境大学構想」の推進をし、96年には「十勝環境ラボラトリー」を創設し活動した。

当時の日本は「環境問題なんてやっていると企業活動が出来なくなる」と言われていた時代であったが「今や、環境問題に取り組まなければ企業は生き残っていけない」と言われる世の中になった。

しかしである。地球環境問題を真剣にやればやるほど、欺瞞性やまやかしに嫌気がさしてきたのである。

国連なんぞは、なんの役にも立たない組織である。

SDGsなんてただのお題目である。

イスラエルのガザ地区で、ハマスがイスラエルを急襲し、イスラエルが反撃している。ニュースでは地上侵攻が始まると言っている。

ロシアのウクライナ侵攻、そしてこんどの紛争。

地球環境のことなどお構いなしで戦いに明け暮れている。

爆弾一発でどれだけ地球環境に悪影響を及ぼすのであろうか?

その一方で「カーボンクレジット市場の開設」だとさ。

陰謀論のひとつに「地球人口は増え過ぎた。減らせねばならない」というのがあるが・・・。


■2023-10-14-Saturday 興行師?

世間では私のことを興行師と勘違いしているのでは?

私は小学6年生時から趣味でマジックを始め、大学生時代にプロマジシャンの故ジミー忍師に師事したことで芸能界とのつながりを持ったのであったが・・・。

ただし、その範囲はマジック関係だけであった。

師匠や息子さんとの関係からミュージカルに繋がり、マジシャンの仲間関係から、大道芸人との付き合いが始まり、大学の同窓会の関係からは落語家とのつながりが出来た。

芸人さんの招聘の始まりは、北の屋台を2001年にオープンさせ、賑わいを演出する為にチンドン屋さんを招聘したり、マジシャンを招聘したりした。その流れから発展して、2002年の帯広平原まつりからは大道芸フェスティバルを開催することになっていった。

2000年には駒澤大学の同窓会十勝支部を創設したが、同窓会の「派遣講師制度」を活用して落語家を招聘して、2010年頃からは一般市民にも落語会を提供するようになっていた。その流れなのかもしれないが、落語会のプロデューサーから、十勝で落語会を開催したいので地元のスポンサーを紹介してほしいとの依頼が今年あった。

2015年にマジック・ミュージアムを坂本ビル3階にオープンさせたことで、色々な団体から私に「マジックをやって欲しい」との要請が急激に増えたのだが、私は忙しくてその要望に応えることが出来なかった為に、帯広のマジッククラブのメンバーなどを紹介したりプロマジシャンの紹介をする機会が増えていった。

テレビなどには私自身が出演する機会も増えていった。

やがて、日本奇術協会が帯広・十勝に注目するようになり、本格的なマジックショーを帯広や幕別のホールで開催することが増えていったのであるが、その際に地域のコーディネーター役を依頼されるようになっていった。

2020年から起こったコロナ禍で困窮している芸人さんらのために、市民文化ホールで大道芸の催しを開催したが、これも大好評であった。

そんな活動をここ四半世紀も続けているものだから、世間では私のことを興行師みたいな仕事をしている人間だと勘違いする人が増えているようである。

先日も、十勝管内のとある団体からマジック公演の依頼があった。

私は、マジックの大道具類は昨年10月に全てルスツリゾートに寄付してしまって、手元にはトランプやボールやコインなどの基本的な小モノしか置いていないから、今は暇であるのにマジックショーは受けられなくなっている。

皮肉なものである。

そういう依頼の場合には、プロマジシャンを紹介するようにしている。

私が「縁」を繋ぐことで、帯広十勝で「生」の芸能を鑑賞する機会が増えるなら嬉しいことである。

やっぱり芸事は「生」で観るに限るから。


■2023-10-15-Sunday 秋刀魚

妻とスーパーマーケットに買い物に

晩御飯に何を食べるかを決めずに行った。

鮮魚売り場でサンマを見つけた。今年はまだサンマを食べていないからサンマが食べたいとリクエストした。

パックに入ったサンマの「大」の貼紙が付いたのが3尾で990円、一尾が330円である。

エ~ッ、高っかいなぁ~。ビックリした。サンマは一尾100円くらいだと思っていたのに・・・

それでも今年の初物だから、冷凍じゃない旬のサンマを買って食べることにしたのである。

コンロで焼いて大根おろしを擂ったのを付けて醤油を掛けて食べた。

食べてガッカリした。

まるで油が乗っていない。パサパサである。これなら落語の「目黒の秋刀魚」の殿様の感想みたいな感じである。

旬の秋刀魚を焼いて食べてもパサパサなんて・・・

今年は鮭も不漁とのことだが、筋子の醤油漬けが大好きなので数回、妻に生の筋子を買ってきてもらい醤油漬けを作ってもらって何度か食べた。

今年は筋子の値段は高いが味は良かった。

しかし秋刀魚は味気ない。

これからは「ししゃも」の季節であるが、今年は不漁らしい。美味しいししゃもが食べられないとなると、私が好きな海産物は壊滅状態になってしまう。

ニュースでは北海道ではこれまで獲れなかった「ぶり」が大量とのことである。

「ぶり」は嫌いな魚ではないが、北海道ではあまり食卓に上がっていない魚であるから美味しい食べ方が分からない。十勝の郷土料理にはぶりの料理は無かったからだ。

これからは、魚の新たな郷土料理の方法を研究する必要がありそうだ。


■2023-10-16-Monday 木彫作品

坂本ビルを閉店することにしたので

4階にあった「坂本商事」(北海道民芸品の店)の商品も、今年の春にネットなどで売り尽くし販売セールをやったのであった。

木彫品では唯一点だけ手元に残しておいた作品があった。

足寄の木彫作家の中尾龍童氏が彫った「籠の中と外のキリギリス」(題名は私が勝手につけた)作品である。

高さ12cm、幅8cmの小作品であるが、「栓」材の塊を彫り抜いた作品である。籠の中に一匹のキリギリスが入っており、その籠の上にもう一匹のキリギリスが乗っている。籠の目も全てくり抜いてあり、籠の空洞も、中のキリギリスも接着を一切しないで籠の目の隙間から彫刻刀を入れながらキリギリスを彫り抜いた作品である。籠の目も竹を組んだ模様に似せて彫ってある。キリギリスの細い足なども全て彫り抜きなのである。籠の頂上にはやはりくり抜きの有環が付いている。

中国の象牙のくり抜き作品を思わせる超絶技巧の作品なのである。

もしも万が一、買い手が見つかったとしても超繊細な作品であり、キリギリスの触角などが折れてしまう危険性が高いこと等から発送することは不可能な作品であった。

これをぜひ観たいと言う人が現れた。

以前から、当店の木彫品の逸(一)品作品を多数お買い上げ頂いているお客様である。

龍童氏の作品も過去に数点お買い上げ頂いていた。

数年前に北海道に勤務されていた折に当店を訪ねて龍童の作品をお買い上げいただいてからのご縁である。

いただいたメールに「発送不能ですからご自身でお持ち帰りいただくことが条件ですし、箱などもございませんので・・・」と写真付きで返信したら「北海道旅行のついでにレンタカーで作品を拝見した上で検討したい」との返事が来たのであった。

約束の日に洞爺湖近くの旅館からレンタカーを運転してご来店いただいたのであった。

私のブログも愛読いただいているようで、本好きな点や収集家としての面でも趣味が私と似ていると親近感を抱いた。

現在お住まいの東京下町の資料などもお土産に頂いた。

龍童の作品を見るなりとても気に入った様子が窺えた。

龍童全盛時の渾身の作品であるから観る人が観れば作品の価値がすぐに判ると思っていた。

私としても手放したくない作品でもあったのだが、気に入っていただける方に持ってもらった方が作品も生きるであろうし嬉しいことであろうと思った。

終活でこれまでに集めたモノがドンドンと減っていく。淋しいことだが蒐集品が生きる整理を心掛けたいと思っている。


■2023-10-17-Tuesday 谷村新司逝去

アリスの谷村新司が亡くなった。

享年は74歳、私より10歳上の1948年12月11日生まれだという。まだ若いよなぁ~。「腸炎」で3月から入院していたというが・・・、腸炎って病気がどんな病気なのか、さっぱり判らないが死ぬ様な病気なのかなぁ~、腸炎で死亡なんて初めて聞いた。

私が大学生の頃に、アリスの曲が連続して大ヒットを飛ばしていた。カラオケが流行り始めた頃で、私の十八番は「遠くで汽笛を聞きながら」である。この曲は今でも大好きな曲で必ず唄う歌である。

「昴(すばる)」も大好きな曲であるのだが、この歌を唄うとフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」みたいで老年に差し掛かったおっさんが唄う曲みたいに顰蹙を買うほどの定番ソングであった。

「チャンピオン」や「冬の稲妻」などギターをかき鳴らして大きな声を出して唄える曲が大好きで、三軒茶屋にあったギタ—を置いてある馴染みの店で皆で唄ったものだった。

一方で山口百恵に提供した「いい日旅立ち」も好きな曲であったし、加山雄三との共作の「サライ」も好い曲であった。

残念なことにアリスのライブは観に行ったことがない。演歌歌手になった堀内孝雄のステージは観たことがあるが、それも単独公演ではなくゲストのその他大勢の一人のステージであった。

谷村新司はついに生で観ることが出来なかった。

アリスの3人でのステージが観たかった。残念である。ご冥福を祈る。


■2023-10-18-Wednesday 十勝石

17日の十勝毎日新聞13面の

「こどもしんぶん」に「十勝石」の特集記事が載っていたが、その中に我が社「坂本勝玉堂」のことが詳しく載っていたので抜粋掲載する。

地球の地下にあるマグマから生まれる黒曜石。それが「十勝石」と呼ばれるようになったのはなぜでしょうか。今回はその歴史と種類について深く掘り下げます。(記事寄稿:ひがし大雪自然博物館学芸員 乙幡康之)

『できた場所で三つの違い』

【江戸時代に記録】「十勝」と名がついた特産品の中で、十勝石は最も古いといわれます。いったい、いつごろから十勝石と呼ばれるようになったのでしょうか。記録では、江戸時代中期から後期までの間には、十勝石の名が使われていたようです。1846年、蝦夷地(当時の北海道)を探検した松浦武四郎が記録した『校訂蝦夷日誌』には「黒い水晶のようで、『トカチ石』と『モンベツ石』という地名から名付けた石がある」という文章が残っています。「モンベツ石」はオホーツク地方の湧別川周辺のもの、「トカチ石」は十勝川周辺のものとみられています。

【産地に関係なく】明治時代になり1904年、池田町利別で坂本勝玉堂が開業しました。翌年、鉄道の開通によって帯広に移転します。坂本勝玉堂は十勝石を工芸品として販売し、十勝石のだるま、すずりなどが有名になり、十勝石という名前は全国で広まりました。こうして北海道の黒曜石は産地に関係なく「十勝石」と呼ばれるようになったようです。十勝石の工芸品は、帯広市の緑ヶ丘公園にあった十勝監獄では、収容された受刑者が製作していたこともあり、初期の坂本勝玉堂では、そうした刑務作業でつくられた十勝石の工芸品を販売していました。

【白い結晶混じる石も】黒曜石と一口にいっても、できた年代や見た目などによって違いがあります。これまでの研究で、十勝には少なくてとも3種類あることがわかってきました。ここでは「十勝Ⅰ」「十勝Ⅱ」「十勝Ⅲ」と呼んで紹介していきます。十勝Ⅰは、私たちが十勝石と呼んでいる黒曜石です。ガラスのような光沢(つや)が強く、質の良い黒曜石で、石器の材料としてよく使われました。十勝Ⅱは光沢がⅠより弱く、白い小さな結晶を含んでいます。十勝ⅢはⅡよりも光沢が弱く、やや灰色です。こちらも白い結晶を含みます。十勝ⅡとⅢも石器の材料として使われますが、十勝Ⅰを好んで使っていたようです。マグマが冷え固まって十勝Ⅰの黒曜石ができた場所は、上士幌町の十勝三股やタウシュベツ川です。ⅡとⅢについては、できた場所がわかっていません。いずれの石も川に削られ、下流の平野に広くちらばっていきました(地図)。その分布から十勝Ⅱができた場所は十勝川の上流、十勝Ⅲは音更川の上流ではないかとみられています。

【黒曜石の石器 国宝に】オホーツク海に近い遠軽町の白滝遺跡で見つかった黒曜石の石器など1965点が今年6月、新たに国宝となりました。北海道では函館市南茅部で見つかった縄文時代の中空土偶に続き、二つ目の国宝ですが、古いものは約3万年前のものとみられており、国内最古の国宝です。白滝遺跡の近くには、国内最大級の黒曜石の産地があります。また、長さ30㌢以上の巨大な石器が見つかっており、石器の作り方やその歴史について研究するための貴重な資料とされています。

【ひがし大雪自然館 乙幡康之学芸員】十勝石は、黒光りしたガラス光沢の中に、赤色が混じったもの、しま模様が見られるもの、時には虹色に輝くものもあり、その多様性が魅力といえます。しかし、色のメカニズムについてはまだよく分かっていませんし、原産地のわからない黒曜石も多く存在します。知っているようで知らない石、それが十勝石なのです。

(地図や表、写真は転載していません)


■2023-10-19-Thursday 蒐集品の処分

私がこれまでに集めたモノたちに

いよいよ別れを告げるときが来た。

読書好きと言うよりも「活字中毒」と言った方が適切な私の乱読人生。

去年の春に、会社に置いてあった「北海道」「十勝」「帯広」の郷土関係書籍数百冊を、帯広市図書館と百年記念館に寄贈した。

北の屋台関係の書籍は北の屋台を運営している「北の起業広場協同組合」に寄贈した。

帯広市の図書館では、郷土関係資料しか引き取らないと言う。一般の書籍には一切見向きもしないと言う。

しかし、私の蔵書はそんじょそこらの読書家とはレベルが違う。日本で唯一のマジック・ミュージアムを作ったほどのもはや「狂人」のレベルである。

帯広の隣町の音更町では音更出身の評論家である草森紳一氏の蔵書の数万冊を引き取って活用しているというのに・・・

帯広市は「文化」事業にはまったく関心が薄いようである。

帯広市が引き取らないので、去年の10月には、マジック・ミュージアムに展示していた「マジック関係」及び「不思議」(魔法使い・魔女・オカルト・超能力・超常現象・謎 e.t.c.)をテーマに蒐集した1万6千冊に及ぶ書籍の全てをルスツリーゾートの新しく作られる予定であるマジック・ミュージアムに寄贈した。だが、本当は十勝からは出したくなかったのであるが・・・。

残りの書籍は、小説、雑誌、まちづくり関係書籍、環境問題書籍、資料、写真集などが、まだ数千冊も残っている。

会社の書庫に9割ほど、自宅の自室にも残り1割ほどが置いてある。

母校の駒澤大学に「古本募金」という制度があることを知った。古本を業者に送ると、その本を査定して手数料を引いた金額が大学に募金される仕組みである。事務局に連絡を入れて要綱を聞いてみたら「2010年以降に発行された書籍しか受け付けない」と言う。蔵書の8割方は2010年以前に購入した本であるから、その中から2010年以降の本の発行年月をいちいち調べて送るのは面倒なので諦めたのであった。

帯広青年会議所の後輩に「まちづくりの勉強になるし、資料も沢山あるし、街づくり団体や個人が自費出版した様な図書館などには置いていない書籍も沢山あるから貴重なまちづくりの参考資料になると思うので、本棚ごと全部寄贈したいと思う」と呼びかけたのであった。

最近は、若者の本離れが激しいから、果たして彼らが読んでくれるのかはクエスチョンマークが付くが・・・

JCメンバーの中に読書好きな若者が居て、昨日、我が社の書庫を覗いて行った。歴史好きな様で「プレジデント」という月刊誌と、焼酎「いいちこ」を販売している三和酒類㈱が企業メセナで発行している「iichiko」が創刊号から揃っているのとを見つけて、「まずはこれとこれを貰っていきます」と持って行った。「来週に出張から戻ったらば段ボール箱を用意してまた来ます」とのこと。愛読した書籍を捨てるのではなく、読んで活用してくれる人にもらってもらいたいと願っている。

以前に比べれば、本の購入量はかなり減った。それでも、またすぐに枕元には本が積み上がっていく。もう本を購入するのを完全にやめて図書館にでも通うしかないかなぁ~。そんなことが私に出来るかなぁ~?


■2023-10-20-Friday 出張買取業者

終活で蒐集品を処分し始めたことを

どこかで耳にしたのであろうか? 自宅の置き電話に札幌の総合買取業者を名乗るH社という会社から「帯広のお宅の近辺を廻っています。現在、レコードやカメラやゴルフクラブなどの買取り強化中です。お宅に聞かなくなったレコードや、使わなくなったフィルムカメラなどはございませんか?」と電話が来たのだが断った。

ネットで、この会社のHPを調べてみたら「家の中には入りません。玄関先で鑑定します」と書いてある。真面目な対応をする会社なのかな?と思っているところに再度電話が来たのでまた断ったのだが、翌日にも電話が来る。まずは使わないカメラでも処分するかと訪問日時を決めて自宅に出張鑑定人なる人物がやってきた。

家には上げたくないので玄関先に不要なカメラを用意しておいて対応したのであるが、HPには家には上がりませんと書いてあるのに不満そうな顔をした。

カメラを査定する前に「金や宝石アクセサリーはありませんか?時計は?などと他の物のことばかり質問してくる。肝心のカメラの査定はサ~ッと見ただけで「ニコンF2は1000円、オリンパスOM-2の交換レンズ3本付のセットが2000円、その他は全部部品取りにしかならないから100円」だと言う。「カメラはライカはありませんか?」「無い」と言うと「ブランド物のバッグは?」と聞く。もう去年全部処分したと言うと「いくらで処分したのか?」と聞く。「○○円」と答えると「ウチなら倍以上の値段ですよ」と言う。

あぁ、これはカメラは口実で家に入り込んで、他の金になりそうな物を探して強引に買い取る手口に相違ないと思い。

「お宅は安過ぎるから売るのは止めた。カメラは欲しいと云う人にプレゼントするから売らない。もう他に売るものは家にはないから・・・」とお引き取り願ったのであった。

気の弱い老人相手ならば、金製品とか宝石類とかの金目になる物を引っ張り出させて強引に買い取るのであろうが、こちとらも商売人のハシクレなのである。

この業者の態度が気に入らない奴であったから、早々にお引き取りしてもらったのだが、もしも態度の柔らかい交渉上手な者であったならば、他の物も引っ張り出して見せていたかもしれない。

私は金銭に替えたいのではなく、蒐集した品物を活用してくれる人に渡したいのである。

やっぱり業者側から電話して来るようなのは要注意かもしれないなぁ~。


■2023-10-21-Saturday 衣替え

例年ならば、

1ヶ月くらい前には、もう衣替えをしていたであろうに・・・、今年の猛暑続きのせいもあるが、それだけではない。

時期がハッキリ確定出来ないのは、これまでに衣替えを自分でやったことが無かったからだ。

私の体形は、結婚する前の20歳台の頃には体重55㎏程度の瘦せ型で、スーツは最初はY体であった。それが順調に肥え始め A→AB→B→O体へと成長(?)していったし、ズボン(スラックス、最近はパンツというらしい)のサイズならば60→100㎝まで増えていった。シャツなどもM→3XL まで大きくなった。

なにせモノが捨てられない性格であるし、いつかは痩せようと思っていた(思うだけでダイエットなどはやらなかったが・・・)。

だから、洋服の数量もドンドン増えていく一方であった。

5年前に人生で初めて2か月間の入院というものを経験し体重が10㎏ほども一気に減った。退院後の4年間は体重を維持していたのだが、今はまたこの3ヶ月間ほどで冬眠する動物の様に3㎏も太ったのだが・・・。明らかに運動不足である。

青年期から太る一方だった体形が、5年前に一気に−10㎏減り、そこから再度+3㎏へと急激に変化したものだから「やっぱり服を捨てなくて良かっただろう? 以前に買った服がまた着られるじゃないか」と妻に言ったならば・・・。

先週衣替えを済ませていた妻から「貴方は自分の洋服がどれくらいあるのか把握していない。一度自分で衣替えをやってみたらどれだけあるか把握できるんじゃないの?」と言われたのである。

今まで一度も衣替えなどやったことがないから、そうだな!自分で一度はやってみようかと思ったのである。

いざやってみたら、あるわ、あるわ、結婚以来それほど体型に変化がない妻に比べて、ざっと5倍以上の数量があるのじゃないだろうか?しかも、流行やら年齢的な派手さなど、どう考えても、もう二度と着られないような服ばかりである。

こりゃぁ~、洋服も終活しなければならないなぁ~。


■2023-10-22-Sunday 世代の名称

映画「ゆとりですがなにかインターナショナル」を観て来た。

宮藤官九郎の脚本と云うことなので面白そうだなと思ったのであるが・・・。

映画の内容は、この映画の前作にあたるテレビ番組を一度も見たことがなかったので、登場人物像や設定の背景がよく分からなくて、期待したほどではなかった。

あまり面白く感じなかったが、映画の中で「ゆとり世代」と「Z世代」という呼び方が出てきた。そう云えば私の年代以前のベビーブーマーの人達のことを「団塊の世代」と言って流行らせたのは作家の堺屋太一であったが、私らの世代のことは何て言われていたのだろうかと気になって調べてみた。以下に転載してみる。

【団塊の世代】1947~49(昭和22~24)年生まれ

戦後のベビーブーム世代。大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。高度経済成長の真っただ中に社会人となり、バブル経済期の頃は40歳前後の働き盛りで、日本の「右肩上がり」を実感した。

後に経済企画庁長官も務めた堺屋太一氏(故人)が通産官僚時代に発表した小説『団塊の世代』から名付けられた。世代人口が多いため、雇用や消費ばかりでなく国の政策にも大きな影響力を持つ。少子化が進む中で、団塊の世代が70歳代中盤に突入し、医療費など社会保障コストの一段の増大が懸念されている。

【新人類】1960年代(昭和35~44年)生まれ

経済人類学者の栗本慎一郎氏の造語。大学生になる頃には、学生運動はすっかり下火となり、政治的な熱が冷めた世代。高度経済成長期と子ども時代が重なるため、戦中世代や戦後のモノ不足を知る世代からは、「忍耐力がない」「甘えている」「常識が通じない」と揶揄(やゆ)された。その新人類も50~60代となり、ゆとり世代を「最近の若者は忍耐力がない」と嘆く。

【バブル世代】1965~69(昭和40~44)年頃生まれ

日本がバブル景気に沸いた企業の大量採用期に社会人となる。「24時間戦えますか?」と高らかに歌う栄養ドリンク剤のテレビコマーシャルが大ヒット。長時間労働に疑問を持たず、接待会食、接待ゴルフ、接待麻雀など、勤務時間外も仕事の付き合いで縛られるのが当たり前のこととして受け入れられていた。

1986年に男女雇用機会均等法が施行。高校・短大を出て就職し、寿退社するのが一般的だった女性のライフコースに、4年生大学を出て男性と同じように働く選択肢が加わるようになった。

【就職氷河期世代】1971~82(昭和46~57)年頃生まれ

「就職氷河期」という言葉は、リクルート社の雑誌『就職ジャーナル』1992年11月号で初めて登場し、94年「新語・流行語大賞」で審査員特選造語賞受賞。「失われた世代」「ロストジェネレーション」とも呼ばれる。

バブル経済がはじけ、長期の景気後退局面へ突入。企業が求人を絞ったために正規社員として就職できず、契約や派遣などの非正規の仕事しか得られなかった人も多かった。運よく正社員として就職できた人も、入社早々から業績悪化、経費削減、リストラの波にもまれたために、危機意識が強い。

非正規社員として低賃金のまま30代後半~40代後半となったこの世代が社会的に孤立していることを問題視して、政府が就労支援に乗り出している。

【団塊ジュニア世代】1971~74(昭和46~49)年頃生まれ

「団塊の世代」の子ども世代にあたり、第二次ベビーブーム。就職氷河期世代と重なる。

【ゆとり世代】1987~2004(昭和62~平成16)年生まれ

授業時間数の削減など「詰め込み教育からゆとり教育へ」の転換がはかられた時代に学齢期を過ごした。深夜まで働いて残業代を稼ぐよりも、ワークライフバランスを重視。「飲みに行くぞ」の誘いをきっぱり断り、上司をがっかりさせることもある。「ブランドのバッグがほしい」「カッコイイ車に乗りたい」など、バブル世代が縛られている物欲から解放されている。

学生時代からスマートフォンを使いこなし、SNSを駆使して横のつながりや「共感」を大切にする。「俺が、俺が!」と自己主張して生き残ってきたバブル世代には物足りなく映る。

【ミレニアル世代】1980~90年代前半(昭和55~平成7)生まれ

2000年紀以降に社会に出る世代。米国でマーケティング用語として使われていた言葉が日本にも入ってきたが、「ゆとり世代」とほぼ重なる。

【Z世代】1995~2010(平成7~22)年生まれ

1995年~2010年頃までに生まれた世代。マイクロソフトがWindows95を発売して以降、つまり、家庭にパソコンが本格的に普及しはじめてから生まれた、真の意味でのデジタルネイティブ。ITリテラシーが高く、SNSを解しての情報収集、情報発信、人とのつながりを得意とする。

もともと米国では1960~70年代生まれを「X世代」、80年~90年代前半を「Y世代」と呼んでいた流れで、それに続く世代として「Z世代」と呼ばれるようになった。

と、ここまでが転載箇所である。

この記事の抜粋を見ても、私が生まれた1958(昭和33)年の前後(1950~1959)(昭和25~34年)の世代はどの呼び名にも属していない。

つまりは、「特徴の無い世代」と言うことなのであろうか?

と思ったが、そういえば「しらけ世代」というのもあったよなぁ~と思い出して、別の解説文を調べてみたら、あったあった。

【しらけ世代】

団塊の世代に続く2つ目となる「しらけ世代」の対象者は、1950(昭和25)年~1964(昭和39)年生まれで、2023年時点の年齢が59歳~73歳の人達です。前世代となる団塊世代に比べて、何事にも無気力で「シラケ」た態度をとることが由来とされています。「しらけ世代」の特徴には、(1)あらゆることに「無気力・無感動・無関心」の三無主義、(2)政治や権力に対して反抗するのはかっこ悪いと感じる人が多い、(3)何かに真面目に取り組むのは恥ずかしいという考え方が強い・・・などが挙げられます。

そうかぁ、私にも当てはまるよなぁと妙に納得したのであった。


■2023-10-23-Monday クレイジー・フォー・ユー

22日(日)に劇団四季のミュージカル

「クレイジー・フォー・ユー」を帯広市民文化大ホールに観に行った。

生の舞台を鑑賞するのがとにかく大好きなのであるが、帯広ではなかなかその機会が少ないので困っている。

いつも東京出張の際に、無理して時間を作っては鑑賞に行っているのだが、久し振りに劇団四季のミュージカルが帯広での公演をするというので妻と観に行った。

やっぱり生の舞台は素晴らしい!

もっと頻繁に帯広でもいろいろなミュージカルを演じてもらいたいものである。

この日の公演は満員であった。帯広市民も生のミュージカル等の舞台に飢えているのではなかろうか?

クレイジー・フォー・ユーの時代設定は1930年代のアメリカのショウビジネスの世界である。ニューヨークのブロウドウェイやネバダの砂漠のデッドロックという場所の設定であるから、おそらく、このネバダの砂漠というのは後のラスベガスがモデルなのであろうなぁ。

舞台装置も展開も素晴らしい。専用劇場ではなくて、地方の会場に一日だけ設置して演じるのは、大道具などの裏方さんたちも組立、設置、分解、運搬移動と大変な作業であろうなぁ。帯広の1,500人収容の会場で一日だけの公演ならば満員でも収支は厳しいのではなかろうか?

音楽も物語の展開も、父と一緒によく観た、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどが出演していた頃のMGMのミュージカル映画そのものという感じであった。「掠奪された七人の花嫁」なんかを見ているような気分になった。

タップダンスやMGMミュージカル映画の作曲も多数手掛けたミュージカルの作曲家ガーシュウィンの楽曲に底抜けの明るいストーリー。正に古き良き時代のアメリカのミュージカルである。

最後の場面で登場するレヴューガールの上半身が肌色の衣装だったのは「トップレス」を表現しているのであろうなぁ~。昔のレヴューと云えばトップレスであった。

こういうミュージカルの主題や演出は昔のもので、最近のミュージカルは暗い主題のものが多いから。なんだかとても懐かしい気分にさせてくれた。

やっぱり生の舞台は面白い!


■2023-10-25-Wednesday 雑誌 HO

北海道の月刊情報誌「HO ほ」(vol.193)が今日発売され

我が社には午前中に宅急便で、出版元の「ぶらんとマガジン社」から届けられた。

このvol.193は十勝特集号で「大空と大地の中へ十勝」との副題が付いている。巻頭には「2年振りの十勝特集です」と書かれていた。

この雑誌は、北海道内の主に飲食店などの宣伝広告や紹介記事で構成されている本である。この号も十勝・帯広の飲食店の紹介がメインの構成になっている。

因みに、前vol.192は「石狩 空知」特集号であった。

目次を見ると全218頁の内の真ん中辺りの98~105頁の8ページに亘って「帯広ノスタルジー 時代の流行を発信し 市民を楽しませた 坂本商事・坂本ビル」と題した異色な特集記事が組まれている。

取材時に見本に頂いた前号の「石狩 空知」特集号には、懐古的な記事は載っていなかった。

今号に掲載された我が社の写真の大本は平成30(2018)年11月に出版された「我が青春の街角へ 帯広 昭和ノスタルジー」(ぶらんとマガジン社刊)という写真集からの転載なのであるが、今回新たな写真とインタヴューを加えて構成もかなり変えて編集してあった。

明治時代の西2条南4丁目20番地にあった「坂本勝玉堂」の店舗の写真や、初代の「勝(かつ)」(私の祖父)さんの写真。

大正時代の西2条南9丁目16番地に移転した時の「坂本勝玉堂」や「坂本ダンス会館」などの父と母が社交ダンスを踊っている写真。

昭和43年に父の圭司がオープンさせた「サニーデパート」時代の昭和59(1984)年の吉田美和(DREAMS COME TRUE)が帯広柏葉高校を卒業する記念のコンサートを6階大ホールで2日間開催したときの様子まで書いてある。

そして三代目の私が造った「マジック・ミュージアム」の写真まで全部で8ページにも亘って豊富に載せてくれた。

表題の「時代の流行を発信し 市民を楽しませた」の文言にはグッときたしホロッともした。

初代の勝は「十勝石を日本全国に広めた」し、二代目の圭司は「ダンスという娯楽を帯広市民に提供しサニーデパートを造った」し・・・。三代目の私は「北の屋台を造り、大道芸を根付かせ、落語会を開催し、マラソン大会を始め、マジック・ミュージアムを造った」。

帯広市民を楽しませることには我が家は三代に亘って貢献したきたと自負している。それを認めてくれたような表題を付けてもらってジ~ンとしたのであった。

大学時代の友人や知人などの北海道以外の人にも連絡したら、さっそく書店に注文をしたよとの連絡がきた。嬉しいことである。

とても良い記念になった。孫にも見せたい本である。


■2023-10-26-Thursday マラソン大会

昨日のブログに「マラソン大会を始めた」と書いたのだが・・・

ブログ読者の方から「マラソン大会って、帯広市のフードバレーマラソン大会のことですか?坂本さんがマラソン大会に関係していたのですか?」などの問い合わせが数件あったのである。

私は昔から「マラソンと冬山登山をする人の気持ちがまったく理解出来ない」と公言してきた人間であるから、マラソン大会開催と私とが繋がらないのは当然のことであろう。

しかし、事の経緯を書いて疑問に答えることにしよう。

時は2010年9月14日(火)まで遡る。

以前に北海道新聞社の帯広支社に勤務していたK記者(当時は札幌勤務)から「坂本さんに会ってもらいたい人がいるので御社まで連れて行きたいのだが・・・」という電話が入った。紹介したい人物というのは航空会社エアーDoのY専務であった。

会ってみたら「帯広でマラソン大会をやりたい。スポンサーは、来年(2011年)2月に帯広ー東京便を開設するエアードウが担います。路線開設記念事業としてマラソン大会をやりたいのでなんとか協力してほしい」と云うのである。

K記者は2000年に帯広支社に居たことがあり、マラソンが大好きな人であった。ちょうど私が「北の屋台」を企画して準備している最中であった時期だったのだが、北の屋台を取材していたK氏が、私に合わせたい人が居ると歌手の高石ともやさんを帯広に連れて来たことがあった。

高石ともやさんは「受験生ブルース」で一世を風靡したフォーク歌手で、この時にはマラソン大好き人間として有名でもあった。帯広市内の居酒屋で3人で一緒に酒を飲みながらいろいろな話をしたことがあったが・・・。

K記者に会うのはその時以来であった。協力の依頼に対して私は「歩くことは好きだが、走ることは好きではない。学生時代もマラソン大会はまともに走ったことがない」からと断ったのだが・・・。

K記者曰くは「マラソン大会はお金が掛からないし、スポンサーもいるんだから大丈夫、問題は警察だけだから、開催に漕ぎ着けるには坂本さんの力が絶対に必要なんです。協力して下さい」と懇願されたのである。

生前、父が十勝観光協会の会長をやっていた時に帯広空港へのダブルトラッキング(2社の航空会社が就航すること、当時の帯広空港は東亜国内航空の1社のみが就航していた)活動を熱心にやっていたことを思い出した。Air-Doが就航すればJAL系とANA系のダブルトラッキング就航となる。その記念の大会だということにほだされたのだ。

マラソンは嫌いだからマラソンの事などまったく分からないので、すぐ、その場で力になってくれそうな知人らに電話をして私の会社に来てもらい。どうしたらよいのかを検討してみたら、とりあえずやれるだけやってみるかと云うことになったのである。

その後の会議で、翌年2011年10月末頃の開催日程を決めて、警察、市役所、十勝支庁、バス会社、タクシー会社、運送会社など各種関係団体などを巻き込みながら企画会議を坂本ビルを会場に何度も開催して事業を進めていったのだった。

私は事前に警察に何度足を運んだことか。

自分の自転車に距離計を付けて、距離を測りながらコース設定をやったりもしたのであった。また過去の天気予報を調べてデータを取ったりした。

しかし、この時には最終的に経費が膨大に掛かり過ぎると云うことが判明し、警察も周遊コースは警備上の問題があるとOKを出してくれなかったので、結局、2011年10月の開催は断念することになったのであった。

だがしかし、この時に力になってくれた市役所勤務の知人が、来年は帯広市が開基130周年と云う節目の年だから、何とか予算を付けられるかもしれない。という話になっていったのである。

何度か大変な思いをしながらも、ようやく2年越しで2012年の第1回帯広フードバレーマラソン大会の開催にこぎつけることが出来たのであった。

しかし、この第1回大会のパンフレットには私の名前は載っていない。

この大会を開催する前段の準備の経緯や努力を知っている仲間達からは、「パンフレットに坂本の名前がないのは何故だ?」と言われたのだが、私は組織と云うものに属していないから、団体から出向の役員で構成するマラソン大会組織委員会の役員に入ることは個人の資格では出来ないので遠慮してくれと言われたのである。

懇願されたから仕方なく活動しただけであって、元々、マラソンには興味がまったく無いから逆に関わらなくて済んだとホッとしたのであった。街中を走るコース設定なので、第一回から今回まで坂本ビルを更衣室代わりに提供してきた。ことの経緯はこんなところである。

今年も29日に開催される。準備段階とは言えども関わった大会が続いていることは喜ばしいことである。


■2023-10-27-Friday 今年最後の

26日に今年最後のゴルフに行ってきた。

「飲んべ親父の会」というグループのコンペで帯広国際カントリーの東・中コースで開催された。

私は、雨、強風、猛暑、寒さなどの気象条件の悪い時や、ゴルフ場のコンデションの悪い時にはプレーしたくない我儘ゴルファーを自認している。

10月10日に予定されていたゴルフコンペは、朝から雨が降っていたし風邪気味だったので、「ジュエルクラブ」というゴルフグループの最終戦(年6回開催して年間賞を決める大会)であったのだが直前にキャンセルしたのであった。

新しモノ好きの父は帯広にまだゴルフ場が出来る前からゴルフをやっていたが、確か釧路だったと記憶しているが寒い日にゴルフをやりに出かけて寒さで神経痛を患ってしばらく我が家の居間に寝込んでいたことがあったことが頭から離れないのである。

その前にプレーしたのが9月30日であったので、この日はおよそ1ヵ月振りにプレーすることになる。ここ数日間で急に気温が下がり、この時にひいた風邪がまだ治り切っていない状態なのであるが、今年最後のゴルフにしようと思って参加したのであった。天気予報では最高気温が19℃とのことであったが、霧が深くて午前中は寒かった。午後になってようやく太陽が出てきて少し暖かくなってきた、まずまずのゴルフ日和であった。

これが今年19回目のゴルフである。まぁ毎年20数回程度のゴルフの回数であるから今年は例年よりも少ない回数であった。

普段からトレーニングも練習もしていないから、年々飛距離が落ちている。ゴルフは飛距離が落ちると、以前の飛ばしていた頃とは周りが違った景色に見える。セカンドショットをウッドクラブで打たなくてはグリーンに届かないからやたらと遠く感じるのである。

この日も、ほとんどのショットがウッドクラブである。ところが、何故だか分からないのだが、この日のウッドクラブのショットは絶好調であった。長い距離をパーオンしていくのである。パットもよく入ってくれて、出だしの東1番ホールはダボであったが、2番、3番ボギー、4~9番まで6ホール連続パーの40打で上がった。

中コースでは1~8番まで全部ボギーで、最後の9番はパーの44打。

練習していない割には良いスコアで上がれたが、ぺリア方式(片側9ホール中の3ホールずつの隠しホール6ホールのスコアでHCを決める方式)のハンディキャップであったので、私一人だけのハンディがシングルプレーヤ—の9.7となってしまい入賞は出来なかったのであった。

しかし、私の現在の公式HCが15.7であるから、それで計算したらネットスコアは68.3になるから、3.7アンダーのスコアであがったことになる。

今年最後のゴルフでアンダーで回れたのは嬉しいことであった。満足である。

今年7月8日の帯広柏葉高校同窓会のゴルフコンペで一緒にプレーした同期生が癌で死亡したと聞いたのはショックであった。元気そうだったのに・・・ご冥福をお祈りする。


■2023-10-28-Saturday マジック・ミュージアム

私が蒐集したマジック関係の品々を

2007年からおよそ10年掛けてコツコツと私一人で展示し始めて2016年12月3日の「マジックの日」(1,2,3の数字の並びが、ワンツースリーのマジックの掛け声と同じことから「奇術の日」とすることを提唱したのが我が師匠の故ジミー忍師であった)にセミ・オープンさせた日本唯一の奇術博物館である「マジック・ミュージアム」。2017年7月からは一般公開も始めたのであったが・・・。

コロナ禍などの予期せぬ事態が重なり、運営が困難になったことから、留寿都村にあるルスツ・リゾートを運営する加森観光に寄贈することを決めて2022年11月に閉館し、全ての展示品をルスツ・リゾートに運び出したのであった。

そのマジック・ミュージアムに、私が世界一のマジシャンとして尊敬してやまない島田晴夫師が2018年10月29日に訪問してくれたのであった。

訪問だけどころか島田師が現役を引退したら自身のマジック関係グッズの全てをこのマジック・ミュージアムに寄贈すると取材に来た北海道新聞社と十勝毎日新聞社の記者を前にして公言されたのである。一番驚いたのは他ならぬ私であった。島田師の使用していた道具の「四つ玉」1点程度を寄贈してくれたら有難いくらいにしか考えていなかったからだ。

「島田晴夫コーナー」を造るにあたっては、どんな道具や展示できる品物があるのかを確認する為に、2019年2月17~20日までロサンゼルスの島田邸に、当時札幌NHKのアナウンサーでマジック仲間の古谷敏郎さんと2人で泊まり込んでインタヴューしたり道具類を見せてもらったりマジック・キャッスルに連れて行ってもらったりしたのであった。

その1年後の2020年の1月末辺りから日本ではコロナ禍が始まった。

日本中のエンタメ界も大混乱したが、ソーシャルディスタンスは私の本業にも大きな悪影響を及ぼした。マジック・ミュージアムの運営も困難になり閉鎖を余儀なくされていた。この状態ではとても「島田晴夫コーナー」を設置できるような状況ではなくなったのである。

島田師が香港のマジックコンベンションに出演した帰りに東京に寄られるタイミングに合わせて、私が上京して島田師と面談し、マジック道具類寄贈の件を辞退したいと申し出たのであった。

その後、島田師はロサンゼルスに戻ってからも現役マジシャンとして活躍を続けられていたが、2022年4月29日にロサンゼルスの病院で現役のままお亡くなりになった。

島田師が亡くなられる直前まで、自身のマジック道具の行先の事を気にかけておられて、入院している病院から私に電話してきて「日本に里帰り展示させたい。自分が死んだ後の交渉はキーリー夫人とやってほしい」と私に遺言されたのであった。

私のコレクションを寄贈したルスツリゾートに一緒に展示することが一番望ましいと考えたのだが、私の会社ではないので、私の意向でどうにか出来るものではない。そこでルスツリゾートの加森公人会長に働きかけたのであった。

2022年10月17日に東京の如水会館で「島田晴夫師追悼会」が開催されキーリー夫人が来日することになった。追悼会には私も出席するので、まだロスに居たキーリーさんと事前にメールで盛んにやりとりを行った。

キーリー夫人の来日中のスケジュールを調整してもらい、ルスツ・リゾートに招待して現地を実際に見てもらいたかったのである。ルスツの加森公人会長もキーリー夫人の招待を承諾してくれた。

追悼会の2日後の19日にキーリー夫人が新千歳空港に降り立った。18日に帯広に一旦帰っていた私もJRで新千歳空港に向かい、キーリー夫人を出迎えて一緒にルスツ・リゾートに向かったのであった。

キーリー夫人も、ルスツリゾートを気に入ってくれた様子であった。

その後、アメリカに帰国したキーリー夫人とはメールでやりとりをした。ルスツ側もロスの島田邸を訪問したり、キーリー夫人と緒川集人さんの案内でマジック・キャッスルを見学したり、ラスベガスに行ってデビッド・カッパーフィールドのマジックショーも見学にいくほどの熱の入れようであった。

その後、いくどかの紆余曲折はあったのであるが・・・

昨日27日に、ルスツ・リゾートのマジック・ミュージアムの担当者2名が帯広の我が社を訪問して「この度、キーリー夫人との間で双方合意に達したので正式に契約を結ぶことになった」との報告を受けたのであった。

その結果「坂本コレクションのマジック・ミュージアムを本年11月にオープンさせる予定であったのだが、島田コレクションが加わることになると場所が狭くなってしまうので、新たな場所に移して取り組み直したい。ついてはオープン時期を来年5月まで延期することを承諾してほしい」との要請も合わせてあったのである。

私にとっても島田師との遺言が実現できるのであれば、責任も果たせるし、より良いミュージアムとなることは確実であるから喜んで承諾しますよ。と答えたのであった。

早速、このニュースをマジック関係者に発信したところ、皆さんからの祝福のメールがたくさん届いた。

日本のマジック界においてもグッドニュースであろう。

島田晴夫師が、マジック・ミュージアムを初めて訪問してくれたのが2018年の10月29日であるから、ちょうど丸5年掛かって事態が動いたことになる。島田師も天国で安心されたことと思う。まずは良かったぁ~。これで一安堵である。


■2023-10-29-Sunday マラソン大会

フードバレーとかちマラソン大会が

29日(日)に帯広市内で開催された。

新聞によると5000人以上の参加者が走ったという。スタート時は小雨が降るあいにくの天気であったが、途中で雨も上がり、気温もランナーには丁度良かったのかもしれないなぁ。

私は「マラソンと冬山登山をする人の気持ちが理解出来ない」と言い続けている人間であるから、この大会の準備段階に関わってはいるものの・・・

参加料というお金を払ってまで、苦しい思いをして走る気持ちは未だに理解不能である。

「ランナーズ・ハイ」とか「クライマーズ・ハイ」とか言うらしいが、身体に激しい負荷がかかっている最中に気分が高揚してくる状態のことを言うらしい。

脳内麻薬といわれる「ベータエンドルフィン」というホルモンがたくさん分泌されるというのだが、ものの本によるとベータエンドルフィンはモルヒネと同じ様な働きがあってストレスを取り除く幸せホルモンの一種だと解説されていた。

ランニングなどで身体に負荷がかかり自身の限界に近づいてくると、この種のホルモンがたくさん分泌されて、身体の疲れを感じさせずに、逆に気分はテンションが高揚するのだと言う。

でも、これって本当は健康に良くないんじゃないのだろうかなぁ~?

私の趣味はマジックで、完全なるインドア派であるから、身体を鍛えることや身体を酷使することにはまったく興味がない。

中学生や高校生の時に校内マラソン大会という大嫌いな行事があったが、いつも嫌で嫌で仕方がなくて、サボることばかり考えていて、まともに走り切った経験がない。

しかし、今日のマラソン大会の模様を地元のCATV局で放送していたのを見ていたが、こんなに大勢の参加者が嬉々として参加していることに正直驚いたのである。

企画した時には意図していなかったが、ハロウィーンが近い日程であることから仮装して走るランナーも大勢いた。

仮装を楽しむマラソン大会という設定も案外面白いかもしれないなぁ~。

それにしても、こんなに大きな大会になるとはビックリ仰天である。

世の中、いろいろな楽しみ方があって良い。


■2023-10-31-Tuesday 物騒な事件が

我が家の近所で昨夜物騒な事件が起こった。

新聞によると、昨夜30日の午後11時35分頃に、近所のラブホテルの駐車場に駐車していた32歳のアルバイト従業員の男性が一人で運転席に居たところに、男が突然乗り込んできて刃物を突き付け「金を出せ」などと要求した。男性は所持していた17万円を奪われ、手首や指を切る怪我をした。犯人は徒歩で逃走、逃げた男の身長は170㎝ほどの中肉中背で、黒色系のパーカー、白色のマスクを着けていたという。

この事件は夕刊を見て初めて知ったのだが、今日の午後5時半過ぎに、自宅に警察官が訪れてきて職務質問をされた。

あれこれと、色々な質問をされたが、9時半には寝てしまうので、まったく気が付かなかったと答えたが・・・

32歳のアルバイトが17万円の現金を持って、ラブホテルの駐車場の車に一人で居るって・・・・???。

随分と大金を所持していたものである。でもラブホテルに何でそんな大金を持って行かなければならなかったのだろうか?

何故に車に一人で乗っていたのであろうか?

デリバリー何とかで、呼んだ女性を待っていたのかなぁ~。

でも、何で犯人は、その男性が大金を持っていることが分かったのであろうかなぁ~?

それともデリバリー何とかの行為終了後に、女性に大金を所持していることを知られて・・・

推理小説が大好きな私としては、想像を逞しくして、ついつい色々な推理をしてしまう事件であるよなぁ~。ぜひとも真相を知りたくなってきた。

犯人はまだ捕まっていないようだし、刃物で怪我をさせているから、強盗致傷事件であるので重犯罪だ。

近所だし、犯人がまだ捕まっていないから怖いよなぁ~。

でも、事情聴取に自宅に来たあの警察官て本物なのかなぁと、ふと心配になって、警察署に確認の電話を入れてみたのである。すると対応した女性警官が「心配されている方々からお電話が多数入っていますが本物の警官が事情聴取をしておりますのでご安心ください」との返事であった。なんだか誰も信用出来ない嫌~な世の中になってしまったよなぁ~。