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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-01-01-Saturday 謹賀新年

明けましておめでとうございます。

今年も良い年でありますように。

大晦日は、我が家で母、妻の両親、義姉夫婦の10人で17時から年越しを行った。最後に10年以上にもなるという腕前の義兄が打ってくれた、打ち立ての手打ち蕎麦を皆で食べたが、麺の腰も強くて、細さも均一で細くて、とても素人とは思えない美味しさに驚いた。

義兄は来年定年を迎えるというから「蕎麦屋でも始めたら」と言ったら、義姉が調子に乗るからそれ以上褒めないでと警戒するように言う。

定年を迎えたら、ゆっくり旅行にでも行きたいのだそうだ。

17時からズ〜ッと飲み続けていたら、さすがに酔っ払ったようだ。私は紅白歌合戦はまったく見なかったが、お風呂に入って一年の垢を落としたところで、丁度終了していたから、どっちが勝ったのかも知らないが、行く年来る年が始まったらベッドに入って、0時になって「明けましておめでとう」を言ったとたんに眠ってしまった。

昨日の疲れもあったのか朝までぐっすりと眠った。

朝起きたら、「大荒れ」の天気予報とは大違いで穏やかな温かい朝である。テレビで各地の初日の出の模様を放送していたが、鹿児島や熊本では雪が積もっていた。荒れた天気が南下したのかもしれない。

我が家の隣の母親の家で、年始の食事をして、帯広神社にお参りに行った。穏やかな天気なのに、例年よりも参拝客が少ないように感じた。

帰りに、昔懐かしい「高橋まんじゅう屋」に寄って、おやき、蒸しパン、肉饅頭を買って、我が家から50メートルしか離れていない妻の両親の家に年始の挨拶に行く。義姉夫婦もこの家に泊まっているのだ。

子ども達は「お年玉」の集金を兼ねている。

自宅に戻る時に、母の家の前に妹夫婦の車が停まっていたので、挨拶に顔を出して、ここでも子どもたちは「お年玉」を集金した。かなりの金額が集まったようだ。就職したらもらえないからこれが最後かもなんて言っている。

今晩は、母の家で、弟家族と一緒に夕食だ。一族皆が仲が良いというのは良いことである。


■2011-01-02-Sunday 正月2日

昨年の30日から

ズ〜ッと酒の飲み続けでさすがに胃腸の調子が悪い。

今日は朝から、恒例の箱根駅伝往路の中継を見ていた。母校の駒澤大学が優勝候補の一角に挙げられているからには応援しなくてはならない。

このところは東洋大学の新・山の神こと柏原竜二の第五区での大活躍で東洋大学に負けているが・・・。

今年も第五区の山登りは柏原の圧倒的な強さで東洋大学が、一区から四区までずっと一位を守ってきた早稲田大学を抜き去りトップに立った。敵ながら天晴れな走りである。我が駒澤大学は5位であった。

往路は総合優勝を考えないで、エース級ばかり5人を投入して狙いにいく大学もあるし、2区でケニアからの留学生を走らせて一時的にでもトップを狙いにいく大学もある。

過去10年間で駒澤大学は6回の復路優勝をして、その内の5回総合優勝をしているが、往路優勝をして総合優勝したいわゆる完全優勝は駒澤大学にして2004年のたったの1回だけである。往路優勝して総合優勝した大学は2004年の駒澤、2007年の順天堂、2009年の東洋の3校だけなのだ。復路の駒澤といわれているから、3分以内というのは逆転の射程距離だろう。

それにしても、正月はつまらない。

買い物をするわけじゃ〜ないし。テレビ番組は駅伝が終わっちゃったら他に見たい番組もない。

息子がヤマダ電器に行きたいというので、運転して行った。息子は去年自動車免許を取得したのに、冬道は怖いから運転したくないと言うのである。母も夕食の買い物がしたいから長崎屋で降ろして欲しいと言う。

ヤマダ電器はすごい混み様だった。駐車場が満杯になっている。それにしても正月から何をこんなに買う物があるというのだろうか?

帰りに娘が「ケンタ」で昼食を買って来て欲しいと言う。「ケンタって何処だ?」と聞いたら「ケンタッキーフライドチキンだ」と言う。

若い奴等は何でも略すから判らない。

お餅も飽きたし、フライドチキンは好きだから買いに行った。家に着いたら、ちょうど家に着いたところに母親から長崎屋に迎えに来てという電話が入ったので、息子を降ろして長崎屋に母を迎えに行った。

自宅に戻ったら、私を待たずに、家族が既にフライドチキンを食べているではないか。「一家の主人を待たずに食べるとは何事だ!」と言ったら、「温かい内に食べなければ折角のフライドチキンが美味しくなくなてしまうから」と言うではないか。まったくモウ〜。

午後から次女が飛行機で東京に戻った。どうしても明日までに東京に居なくてはならない用事があるのだそうだ。なんだか慌しい。

明日は長女、明後日は息子と3人がバラバラに帰るので、その度に空港まで送らなければならない。全員一緒に帰れば一度で済むのに・・・。

やっかいな奴等である。

それでも家族が一堂に会するのは正月くらいだから、慌しくても嬉しいものである。


■2011-01-03-Monday 箱根駅伝復路

3日は長女が朝一番の

飛行機で帰京するが、空港に送っていくのは妻である。私は箱根駅伝が見たいからだ。

7:30からテレビを点けて見ていた。やはり最初の六区の山下りが最大の見せ場だから、これを見逃すと面白くない。

箱根駅伝は今年が87回目の伝統ある大会だが、もし、今、コースを選定するとしたら、こんな五区や六区のような無茶なコース設定はできないだろう。それくらい選手にとって五区と六区は過酷なコースだ。伝統ある大会だから続いているのだろうと思う。

昨日の往路は5区で、新・山の神こと東洋大学の柏原の3年連続の活躍で東洋大学が優勝した。

2位の早稲田大学は27秒差でスタートした。早稲田の4年生高野は最初で最後の箱根だというが、途中、給水者と接触したり、氷で滑って転倒するなどアクシデントが続いたが、東洋大学を振り切って逆転した。

以後、早稲田がず〜っと首位をキープして18年振りの総合優勝を果たした。

今回の箱根駅伝を見ていて活躍した選手の出身高校名を見ると、やたら長野県の佐久長聖高校出身者が多い。早稲田大学は一区の大迫、二区の平賀、そしてこの六区の高野もそうである。

駒澤大学は六区・七区で区間賞を取るも追いつけず結局3位に終わってしまったが、今年は1・2年生中心の若い編成であったから来年からが楽しみだ。

十区のたすきを受けた時点で駒澤の逆転は無理だなぁと思ったから関心は早稲田と東洋の熾烈な優勝争いと、団子状態のシード権争いに移ったが、このどちらも面白かった。首位と2位の差が20秒程度というのは大接戦で見ごたえがあった。

それよりも大接戦だったのが10位までのシード権争いであった。8位の日体大、9位の青学大、10位の国学院大、11位の城西大の4校が最終盤に団子状態でゴール前の200メートル前から、必死で走ってくる。この内の1校だけがシード落ちになるのだから必死である。

シード落ちしてしまうと予選会から勝ち上がってこなければならない。この予選会の時期は、他の競技会とスケジュールが近いから、体力をものすごく消費して、本番の箱根までに体力を戻すことが難しいのだというから、シード権を獲得するか否かは天国と地獄の差がある。

私は母校駒澤大学から前田康弘が2009年から監督として国学院大学にいったというから国学院大学を応援していた。

先頭を走っていた国学院大の1年生寺田選手が、あろうことか先導車が右の道路に逸れたのにくっ付いて一緒に曲がってしまった。土壇場のゴール寸前でコースを間違えたのである。慌てて戻ってなんとか逆転してギリギリ10位で入ったから良かったものの、これでもしシード落ちしたなら一生悔やむことになるだろうし、仲間からも恨まれることになるだろう。この8位〜11位の差が7秒間、この中に4校が入ったのだ。しかも10位と11位の差はわずか2秒であった。ここにもドラマがあった。

それにしても、今年の箱根はレベルが高かった。年々スピードアップしているようで、優勝の早稲田も2位の東洋も総合タイムは歴代最高タイムを更新した。

箱根駅伝も各校のレベルが上がり、スピードも速くなっている。来年が楽しみだ。


■2011-01-04-Tuesday 仕事始め

今日は仕事始めである。

午前中に新年の挨拶を済ませて、午後から息子が大学に戻る見送りをした。2,3,4日と子どもが皆、それぞれ別々に帰るからその度に空港まで送っていくのは面倒だと思うのだが、妻はそれが逆に嬉しいようなのだ。母親の気持ちというのは判らない。

18:30〜北海道ホテルで帯広青年会議所の新年交礼会があった。行ってみると同期卒業の33年生まれは私一人しか出席していないし、学生時代の同級生である32年生まれもK君一人しか出席していない。終わってから街に飲みに行こうと思って出席したのに・・・。

K君が私の隣に座って「坂本のブログをほぼ読んでいるよ」と言う。先日も娘から、娘の同級生達が「坂本の父親のブログを読んでいる」と言っていたから結構、読者が居るようである。

そのK君が「北の屋台のK専務理事のことをあんなに暴露しちゃって良いのか?」と言うから「俺は何も書きたくて書いている訳ではない。私が北の屋台を辞めた頃は北の屋台に関しては批評的なことは一切書いていなかった。それは北の屋台を辞めた真相を書いたらお客さんが減って現営業者たちに迷惑を掛けることになるかもしれと思ったから書かずにいたのだ。ところがK専務がそれをいいことに、〈坂本は北の屋台のお金を私物化して借金を残したから、私(K専務)がそれを返済する為に懸命に働いているのだ云々〉という話をあちらこちらで言い触らし、それが回り回って俺の耳にも入ってきたから、冗談じゃぁない。金を盗んだのも、借金を作ったのも全〜部Kじゃぁないかと、これは真相を書かなければ、俺が悪くて北の屋台を辞めさせられたかのように言われるのだけは我慢がならないから自分の名誉を守る為に書いたまでだ。(まだ全部は書いていないが)」と説明した。

毎日の様に読んでいるのに、判らないのかなぁ〜と愕然としたが、悪口を書いているつもりはない。いまだにオカシナ運営の仕方をして、不明朗な怪しいお金のやりとりをしているから書いているまでのことである。

今回の第4期の屋台入れ替え募集に関してだけでも、以前なら在り得ない様な、不自然なオカシナお金のやり取りが行われているようだ。他の理事者たちはこのことを知らないのだろうか?もし知っていて知らぬふりをしているのなら理事者としての役割を果たしていないことになるし、それならKと同罪である。

「天網恢恢疎にして漏らさず」、こんなことばかりやっているとやがて天罰が下るぞ。


■2011-01-05-Wednesday TPP

菅直人首相が支持率を

アップさせるためにTPP批准に意欲を燃やしているようだ。

経済三団体(商工会議所・経団連・経済同友会)の新年パーティで挨拶をして「平成の開国を断固やる」と明言したという記事が載っていた。

経済三団体の長がTPP批准を言うのは、業界の利益を代表する立場としてのことだからまだ理解できるが・・・。

しかし、単に支持率回復の為に、自分にはリーダーシップがあるのだとのパフォーマンスを見せたいだけなら止めてもらいたい。これは首相の大暴走である。日本と言う国を崩壊させる大いなる愚挙だと思う。民主党は鳩山前首相もそうだったが、よくよく検討も相談もしないで発言するきらいがあるようだ。

今日の日本の農政は、長らく自民党が保護政策を取ってきたから、自ら自立しようという農家を育てることを怠ってきた。

どんな仕事でも生活でも「天は自ら助くる者を助く」が基本である。目先の票に捕らわれて、金をばらまいて票を獲得してきたことが今日の遅れた農業につながっている。だから自民党にも農政を語る資格はない。

一部の先見の明のある、若しくは危機感を持った農家が自主的に活動しようとしてきたが、それを阻害していたのが、本来は農業を守る立場にあるはずの農協であった。

しかし農協は、農業の為の農協ではなく、農協の為の農協になってしまった。組織を守る為に本来の使命を忘れてしまったかのようだ。官僚組織と似ている体質である。

十勝には農協らしからぬ農協があるから、まだ救われている。

例えば十勝の「川西の長いも」などは有望な産品である。このような輸出できる産品を作っているところは、まだ外国に対抗できる可能性も残されてはいよう。

しかし、現在のような(兼業農家)体制で、今すぐTPPを批准したら、大部分の日本の農業は壊滅的打撃を受けてしまうだろう。菅首相は、そんな農業に、補助金をばらまくことでTPP反対の農民の声を抑え込もうとしているようだが、これは自殺行為に他ならない。

反対の声を抑える為のバラマキは何も生み出さないからだ。日本の農業の体質を改善することにお金を投入するべきだろう。

いずれTPPに参加することには反対しない。しかし、日本の農業の体質を変えて強化してからでなければ、日本から農業が無くなってしまう危険が大きいだろう。

工業はしょせん、発展途上国型の低賃金の国には値段では勝てないから工場はやがて国外に出ていかざるを得ないと考えている。もし、そうなれば、工業は無くなり、農業もすたれ、日本は世界最貧国になってしまう可能性すらあるだろう。

菅直人のくだらないパフォーマンスに日本の命運を賭ける愚挙を誰か政治家で止めてくれる人間はいないのか。

このままでは、日本はメチャメチャになってしまうぞ。


■2011-01-06-Thursday どうにも納得できないなぁ

どうにも納得できない事態が発生した。

我が社(坂本ビル)前面(西2条側)の歩道とビルとの間の敷地から水が溢れ出た。

ビルの地階は天井がむき出し状態になっているので配管状況はそのまま目視できるが、ビル内には水が出ていない。

すぐに原因を究明するように管理課長に指示したら、ビルの地下の水槽に溜まる湧水等を、1日に4〜5回ポンプアップして、西2条側の市の下水に流しているが、どうやらその継ぎ目辺りから漏れ出ているようだという。

すぐに市役所の水道課と業者を呼んで調べてもらった。

ファイバースコープで見ると市の下水舛との継ぎ目に若干の隙間の様なものが見えるが、この程度の隙間でこの量の水が出るとは思えないとの見解である。

地面を掘ってみなければ地上から見ただけでは判らないという。

ところが、この地面を掘るという作業が、この場所では難しいので困ってしまった。

まず、西2条通りは「道道」なので、道路の管轄は十勝総合振興局であり、上下水道管の管轄は市役所で、ロードヒーティングは車道側に近い部分が北海道の持ち物で、ビルに近い部分が商店街振興組合の持ち物だという。まことに複雑なのだ。

おまけに、ロードヒーティングを剥がして、工事をして、また元に復旧させるのも並み大抵の作業ではない。かなりな費用が掛かることが見込まれる。

では、この漏水が、誰の責任なのかということが問題なのだ。

私は、ビルの内部ではなくて、歩道の中でのことなのだから市役所が振興局の責任だろうと思うのだが、役所側に言わせれば、下水管に繋ぐまではビル側の責任だと言う。

では、自分のモノなのに自由に直せないのは何故なんだ。ロードヒーティングが施設されている場所と、そうでない場所とでは、掘る経費にかなりな差が生じる。公平の原則に違反していないか?

話している内に、十数年前に西2条通りの改装工事をした際に、歩道とビルとの繋ぎ目が30センチほど陥没したことがあった。ビルの北出入り口の前だったので、歩行者が足を、その穴に落として怪我などしては危ないからと、当時の我が社の管理課長に命じて、石黒ホーマで砂利を買ってこさせて補修したことを思い出した。

その時に、我が社で直さずに、市なり土現(当時)なりに連絡すれば良かったのに・・・。

現在、もしも地面が内部で陥没していたら、漏水のせいではないかと思われてしまう。この時の陥没は漏水箇所とは離れた位置なのだが。

こんな時の為に保険に入っているのだと考えて保険会社に連絡したら、通常の使用で劣化したものには保険は効かないという。例えば道路が陥没して通行人がそれで怪我をした場合は補償する契約にはなっているが該当しないだろうと言うのだ。

何かおかしくないか?怪我をさせないように対処するのには費用が出なくて、怪我をさせなきゃ保険が効かないというのは納得出来ないなぁ。

それに、このロードヒーティングも後々のメンテナンスのことがまるで考慮されていないのが疑問だ。

今回の様に、歩道の中で上下水管やらガス管やら電気の配線やらの不具合が発生した時に、いちいち莫大な費用を掛けなければ直せないというのも欠陥だろう。

これが、もし自宅の前のアスファルト道路なら、小型のユンボで地面を掘って、破損した管を取り変えて、土を戻して、アスファルトを敷くだけで、たった一日の作業で、費用も安く終わるものなのに・・・。

手続きだけでも煩雑だし、工事自体も、ロードヒーティングの配線を切断してタイルを壊さないように剥がして、それから地面を掘って・・・そして、今度はその逆に、最後はロードヒーティングの配線を繋ぎ直して、タイルを元通りに戻す作業をしなければならないのだ。

最初からメンテナンスを考えて地下に人が入れる通路を入れて、配管やら配線やらすれば良いのに・・・。

正月そうそう何だか納得できないことが多い。


■2011-01-07-Friday 正直者はバカをみる?

昨日に引き続き冬道の疑問

帯広市内の道路はクリスマス頃に降った大雪と、その後の大寒波で、スケートリンクのようにツルツル、テカテカである。

中心街の道路もロードヒーティングを敷設してあるのは、西2条通・西銀座通・西1条通・名門通といずれも南北の道路だけである。9丁目線(アッピア通)はロードヒーティングが敷設されていない。

街を歩くには面として東西南北の歩道の氷が解けていなければ意味を成さない。直線だけでは歩き回るのは難しいのだが、東西の歩道がツルツルでは返って危険が増すのではないだろうか。

しかも、この9丁目線に面して商売しているコンビニは、自分の店の前の駐車場しか除雪せず、歩道は除雪もしないでツルツルのまま放置しているし、NCの駐車場も同様だ。この駐車場前にはバス停があるのに、乗降客のことは考慮に入れていないのであろうか?

9丁目線の商店街は改装する際に費用の面からロードヒーティングを敷設することを断念した。ロードヒーティングは敷設に掛かる費用も膨大だが、その後の電気代やガス代や補修費もバカにならない金額の負担があるからだ。組合員が減少している状態では維持が無理だと判断したのだろう。確かに施設する際には行政などからの補助金も出るが、その後の維持費の負担の方が遥かに多いのだ。

しかし、市民の為に、冬でも安全に歩きやすい街にする為には必要な施設だということで各商店街は負担をして施設してきた。だが、商店街が段々と歯抜け状態になり、電気代などを負担しない地主も現れて来た。今後はロードヒーティングが故障しても直せない商店街も出てくるだろう。

昨日の我が社に起こった漏水事故の事を思ったら、ロードヒーティングは諸刃の剣だろう。ロードヒーティングだけでなく歩道に埋設されている他の施設の維持にまで余計な手間と費用が掛かることになるからだ。

人口が減少し、老人が増える帯広市は、今後、街はどうあるべきかを真剣に考えなければならない。その時期はすでに大幅に過ぎていると思うのだが・・・。


■2011-01-08-Saturday 出処進退

今朝の道新を読んで驚いた。

北海道新聞の十勝版に掲載されている「防風林」というエッセイ欄に北の屋台で第一期から営業している「御多幸」の田淵悦子おかあさんのエッセイが載っていたのだが、これを読んで二重三重の意味で驚いてしまった。

田淵さんのエッセイの内容は北の屋台の第4期目にも出店することになったというのである。

北の屋台は今年2月末に第4期目の入れ替えをする予定だとのことだったが・・・。

アレ〜ッ、確か第3期目の契約では去年の11月末が入れ替え時期だった筈だ。それを組合が、契約者たる屋台店主達の承諾も無しに、勝手に2月末まで期間の延長をしたとは耳にしていたが・・・。

それにしても、組合がメディア等に正式に第4期の出店者を発表する前に、店主側からエッセイとはいいながら新聞という公器で発表するというのはちょっと違うのじゃぁないだろうか?

組合も決まったものならサッサと発表すれば良いのに、何故発表しないのだろうか?それとも発表できない訳でもあるのだろうか????

去年の11月に「えん」の春日さんが北の屋台を卒業して12月初旬には北の屋台近くの西1条11丁目のカメラ屋さん跡に出店した。

これは、本来の北の屋台第3期の契約書に基づいた行為なのであろう。

組合が勝手に契約者の承諾無しに期間の延長をすれば、「えん」さんのように街中に出店することを計画していた人の予定が大幅に狂ってしまう可能性すらある。契約というものは一方の勝手な判断で変更などできるものでは断じてない。

街中の良好な立地にある建物が急に空き店舗になる場合がある。その空き店舗に屋台で営業している店主が、独立して入居したいと考えた場合を想定して、組合は保証金というものをあらかじめ店主から預かっているのだ。

屋台の店主にしてみれば、今後の自分の人生が懸かっているのだから、たとえ屋台の契約期間の途中であってもその場所を確保したいと考えるだろう。

その場所をその空いた時に確保できなければ、誰か他の人に契約されてしまったら終わりだ。またいつ同様の物件が空くかは判らない。都合良く、契約終了間際に、良い立地の空き店舗が出るという偶然はないからだ。

また、新店舗を確保する為には新店舗の家賃(家賃は使用するしないは別にして契約した時から払うもの)を払わなければならない。

北の屋台の契約期間中は北の屋台を退店することはできないという契約にしてしまえば、店主たちは使いもしない場所の空(から)家賃を払うことになってしまう。これは、金銭的蓄えの少ない屋台店主には辛いことだろう。

しかし、組合としても営業している場所が急に空くのは困りものだ。だから保証金で、契約期間中に退店するケースを想定して契約満了1年前の退店ならいくら、2年前ならいくらの金額を組合に頂きますよ。良い物件が見つかったら屋台はいつでも卒業して結構ですよ、というのが当初からの方針なのだ。

組合はその保証金から頂くお金で契約期間中の店舗の活用策を考えて、他の屋台店主らに迷惑が及ばないようにするのである。それが組合の重要な仕事のひとつであると考えてこの項目を入れたのだ。私は不動産賃貸業をしているからその辺はプロなのである。

組合が勝手に2月末まで期間を延長したのはいわば契約違反であるし、不動産賃貸業としてはあるまじき行為である。「えん」が11月末に退去したのは、当初の契約書通りの行為であろうから11月末に退店した「えん」から保証金を徴収することは組合には出来ないだろう。

だから「えん」の退店した跡は、現在もそのままに放置されているではないだろうか。これは組合のおおいなる怠慢である。「えん」は2店舗分を使用していたから、その2店舗が3ヶ月間も空いたままの状態というのは、北の屋台全体に取っても良いことではない。空き店舗というのは全体の雰囲気を大きく損なってしまうからだ。

組合が3ヶ月間だから店主に我慢しろというならそれは役割の放棄に等しい。理事は何の為に給料を取っているのだろう。せめて給料分の仕事くらいはして欲しいものだ。

本来、北の屋台は「まちづくり」として始めた事業である。『北の屋台は、商売のいわば素人が屋台という商売の原点で商いを始めて、3年間で商売のノウハウ、固定客と軍資金を獲得して北の屋台を卒業し、街中のシャッターの閉まった店舗に出店することで商店街を活性化し、再び北の屋台の空いた箇所にやる気のある人を入れることで北の屋台も活性化させる』というサクセスストーリーで始めたものである。

上記の固定客・ノウハウ・軍資金を得た店主は自主的に卒業して後進に道を譲って下さい。だが、なかなか1期3年間ではこれらは達成できないという店主もいるだろうから、組合は3年間で総入れ替えという姿勢は崩さないので、まだまだ不足だと思う屋台店主は、再度申し込みをする権利は与えましょう。ただし、。総入れ替えだから、店主の希望通りに再選されるとは限りませんよという考え方なのである。なるべく意欲のある若い人に機会を提供するという理念なのだ。

本来の屋台は「個」である。しかし、北の屋台は「個」である屋台を「集団」化させることで規制や既成概念を打破してきた。個が集団より優先されれば北の屋台は存立基盤を失ってしまう危険性がある。

出処進退を表わす言葉に「出ずるときは人に任せ、退くときは自ら決せよ!」というのがあるが・・・。

段々と北の屋台の創業の理念が失われていくようで寂しい思いをしている。


■2011-01-09-Sunday 中心市街地に

今朝の道新の4面に

「中心市街地に機能集中 政府が新方針 人口減に対応」の見出しがあった。

政府が、街づくりの基本理念をまとめた「都市再生基本方針」を大幅に改定し、郊外開発を抑制して都市機能を中心市街地にコンパクト化する方向を本格的に打ち出すことを決めたという。

エッ今頃か?!遅過ぎるだろう。というのが正直な感想だ。

人口が減るということは20数年前から言われていたことだ。人口統計表をみれば誰が見ても一目瞭然のことなのに、政治家は誰もそれに触れないようにしてきた。

言霊(ことだま)(口にしたことが現実化するという日本古来からの考え方)に支配されている日本人にとって、人口が減るということはあってはならないことだったのだろう。

つまり、人口が減るということは成長が止まるということを意味しているからだ。

統計的に見て、その人口減少社会が訪れることは判っていても、口にしたら「お前がそんな不吉な事を言うから現実化したのだ」と非難されるから、見て見ぬ振りをしていようというのが日本人の悪い癖である。

事前に対処することをしてこなかったから、今日の日本の窮状があるのではないのか?いったい日本人はいつまで言霊に支配され続けようというのだろうか?

これは、これまで長い間の政治を司ってきた自民党政権の罪である。

人口が右肩上がりに増えていた時代はまだこんな問題は予見できなかったろう。だが、この成長政策を、人口減少することが判っても続けてきたことに問題がある。

人口が減る時代の政策はベクトルの向きが逆になる筈なのだから、判った時点でおおきく舵を切らなければならない筈だ。

それが、ようやく民主党政権になって、検討するという段階になったというのだから呆れてしまう。政治家の反応が鈍過ぎる。

北海道は積雪・寒冷地である。雪のない東京などとは条件が大きく異なる。

この広大で、財政難にあえぐ北海道こそ、真っ先にコンパクト化しなければ生き残ってはいけないはずだ。

生活条件の違う東京にある政府の行うことを待っていたら、北海道の明日は無い。

逆に北方圏の生活様式として世界に手本を示す位の意気込みで実施しなければならないと思うのだが・・・。

昨日、購入した週間誌の「文春」の125ページに「ルポ高齢者に本当に優しい町23」という特集に帯広市の名が挙がっていた。

私を「観光カリスマ」に推挙してくれた藻谷浩介(日本政策投資銀行)さんが書いてくれたものだが、「夏の爽やかさが天下一品」と評してくれている。確かに夏は良い。

しかし、冬はどうだろう?

先日も書いたが、帯広市中心街は街中ですら、冬期間は満足に歩くことすら出来ない街になっている。せっかく褒めてもらったのだから、冬の街中を早急に考えて実行に移すべきときだろう。

街をコンパクト化するには10年以上はゆうに時間が掛かる事業だ。まずはしっかりと帯広・十勝の将来像を考えて公表する必要があるだろう。


■2011-01-10-Monday 成人式

今日が成人式だという。

私たちの頃は1月15日であったから何だかピンとこないなぁ〜。

私は東京の大学に行っていたから、成人式には参加していないが、帯広市は更に1日早めて昨日の日曜日に開催したという。札幌や東京などの大学に行っている学生などの為に、帰省中に参加できるように配慮したのだそうだ。

でも、祝日って意味があってこの日に制定したものだろうに、そんな理由で変えるというのも何だか厳かさに欠けるようにも感じるなぁ。合理的といえば合理的なんだろうけど・・・。

我が家の三人の子どもたちは去年、末の息子が成人したから、一応、親としての務めは果たしたかな?

今年の成人は全国で約124万人で、遂に全人口の1%を切ったという。少子化の表れであろう。彼等が覇気が無いと言われるのも、日本に明るい未来が感じられないのだろうから無理からぬことだと同情したくもなる。

人口の塊である、団塊の世代が今、年齢では65歳頃になっている。後15年もしたらこの団塊の世代が皆80歳台になるわけだ。そのまま全員が生きて居る訳ではないだろうが、そう極端に一遍に死ぬということもなさそうだ。そうなれば、現在の制度なら、今年の成人が35歳前後だから一番の働き盛りになるが、自分達の収入の多くは老人の為の社会保障費に持っていかれてしまうだろう。

この団塊の世代がまだまだ働ける俺たちはまだ若いと頑張っていたら、今年成人の連中の働き口が減る。職にも就けなくて、将来は老人の面倒は見ろよというのは、あまりに酷だ。これでは未来に希望が持てなくて当たり前である。草食系などと揶揄することはできない。

政治が緊急にやるべきことは、若者に明るい未来予想図を描いてみせることだろう。


■2011-01-11-Tuesday 本の収集

今日は以前に書き貯めてある

マイヒストリー38をこのブログに掲載したら、すぐに奈良県の愛読者の方から、「12月のブログとダブってますよ」とのご指摘をいただき、下記のブログに書き直した次第。書き貯めたマイヒストリーもどこまで掲載したかを自分では(未掲載)と付けて判るようにしているのに、載せた後でその(未掲載)を消すのを忘れていたようで同じ原稿を載せてしまったようだ。面目ない。ここから新たに書きました。

年末年始とほとんど自宅に居たので暇をもてあまし、ついついインターネットのヤフーオークションで、「奇術」「手品」「マジック」「マジシャン」「魔術」「幻術」「超能力」「千里眼」「念力」「超常現象」「UFO」「忍術」「レクチャー」「腹話術」「寄席」「大道芸」などのキーワードで本を調べて、やたらとオークションに入札してしまった。正月早々にネットオークションに参加する手合いが少なかったのか、上乗せしないその時の価格だけで入札していたのだが、競り合いにはまるでならずに、その入札したほとんどを落札してしまい、その数ざっと80冊にもなってしまった。

我ながらアホだと思う。

このところ、連日の様に、郵便局に行ってはATM機の前で10件くらいずつ入金している。毎日、顔を出しているから郵便局員とはすっかり顔馴染みになってしまった。

配達する人も、毎日、毎日7〜8冊も配達しに来るから、何をやってる人なのかと思っているだろう。

会社に造った特注の本棚もすでに満杯になっている。これは本格的に入れ替えをして整理し直さなければ収まり切らない。

昔の本を読み始めると面白くてしょうがない。特に超能力関係や予言関係の本は笑っちゃうね。

特に、ノストラダムスの大予言は、日本人の多くの人が信じていたことが判る。

私の大好きな作家である高橋克彦の「書斎からの空飛ぶ円盤(1993年7月マガジンハウス刊)」という本が、「UFO」というキーワードに引っ掛かったので、この本を入札した。

高橋克彦の「竜の棺」というSF伝奇小説は、神は、龍と牛に似た宇宙人の争いであるという説が新鮮で面白かったし、彼のSF伝奇物は全て読んでいる。

その高橋克彦がノストラダムスの大予言を真面目に信じていたとはこれまた今となっては面白い。

これから他の本にも目を通して整理するのがとても楽しみである。


■2011-01-12-Wednesday 魔術師

昨日の続きで

ヤフーのインターネットオークションで「魔術」というキーワードで本を探したら「魔術師ヒトラー(J・H・ブレナン著1974年大陸書房刊)」「魔術師ヒトラー(神代康隆著1993年学習研究社刊)」「黒魔術師ヒトラー(J・サスター著1984年徳間書店刊)」「黒魔術の帝国(M・フィッツジェラルド著1992年徳間書店刊)」という本がヒットしてきた。

ナチス・ドイツのヒトラーといえば、C・チャプリンの「独裁者」という映画のイメージや、テレビ等で、髪を振り乱して拳骨で机を叩きながら演説する滑稽な姿などが頭に浮かんで来る。

狂気の独裁者というイメージである。

その人物に「魔術師」の冠を付けた本が3冊もあることに興味を持って入札したのだ。

冴えない画家志望の落ちこぼれで引きこもりの青年が変身して、何故にドイツ国民から圧倒的な支持を得られたのか?なにせ彼はクーデターではなく(実際にはクーデターは試みたが失敗して投獄され、獄中で我が闘争を書いた)選挙によって選ばれたのだから。

ヒトラーは決してハンサムではないし、恰好も良い訳ではないのに、ドイツの女性は、アイドル歌手を追っかけるように熱狂的に支持したというから不思議だ。一体何がそうさせたのか?

映画「インディージョーンズ」の第一作では、ヒトラーはモーゼの十戒の刻まれた石を収めているといわれる「聖櫃」を獲得しようとする、かなりオカルトっぽい設定であったから「黒魔術の帝国(第二次世界大戦はオカルト戦争だった)」も面白そうだ、「鉤十字」の形も卍の反対だし、これは読んでみたくなる題材である。

まだどれもほとんど読んでいないが、オリンピックを現代の様に変えたのはベルリンオリンピックからだし、国民車フォルクスワーゲンや高速道路アウトバーン、機能性よりも格好良さを追求した軍服のデザイン、シンボルの使い方、演出など、興味深いことだらけだ。

ベルリンオリンピックのドキュメンタリー映画をレニ・リーフェンシュタールという女性監督に撮らせたが、この映画も素晴らしい。

私は、先入観で、ヒトラーよりも宣伝相ゲッペルスの方がすごく優秀で、ゲッペルスが監督で、その演出でヒトラーは演技する俳優だと思っていたのだが、どうやらこの認識は誤りのようである。

ヒトラーは悪魔に魂を売り渡し、悪魔に対する捧げものとしてユダヤ人を虐殺したのかもしれない。

小泉純一郎元首相の言動がヒトラーの民衆扇動法を参考にしているのではないかとふと感じた。

早急にこれらの本を読んで研究し、近々感想をこのブログに載せたいと思う。


■2011-01-13-Thursday マイヒストリー39

北の屋台理事者の有志で立ち上げた地遊舎だったが、

最初から気まずい雰囲気で運営していた訳ではなかった。スノーフィールド・カフェ(SFC)(冬期間の使われない畑の中に造ったビニールハウスのレストラン)だけの時にはまだ仲良く運営が出来ていたのである。

SFCは当初は後藤君が仲間たちと始めた事業であった。

後藤君は、発想は大変面白いのだが、マネジメント面にはやや難がある。このSFCも冬期間(約5カ月間)使われることのない、景観抜群の畑を使って何か出来ないかという発想から生まれたもので、発想自体はとても素晴らしい。

ただ、ビニールハウスを建てた場所と費用に問題があった。

まず道路から100mほども中に入った畑のど真ん中にビニールハウスを建ててしまったから、畑に雪が降り積もりそれを踏み固めないと、一般の車ではビニールハウスに近づけないことである。雪が積もる12月中旬にならなければ入れないし、また解け始める3月初旬になると、今度は畑がぬかるんで入っていけない、つまり正味2ヶ月半程度しか営業出来ない施設なのだ。

そのビニールハウスに厨房や暖房機や床暖房やバイオトイレまで設置するのだから、建築や施設に掛った費用はかなりな金額になった。それを、たった2ヶ月半の営業日数では、どんなに大繁盛してもとても回収は不可能なことだということだ。

私が相談を受けたのは既に建築に取りかかった後だったので、その辺にはアドバイスが出来なかった。後藤君は考え着いたら即行動するところが、長所でもあり短所でもある。

結局、十勝環境ラボラトリー(TKL)のメンバー有志に、資金援助の相談に来たのである。その相談を受けたのがTKLの副会長をしていたK医師であった。

オーベルジュ・コムニというホテル兼レストランの店のシェフを夏期間だけ(冬期間コムニは閉鎖していた)担当していたW氏を使ってSFCを運営していたのだが、コムニのオーナーが代わって我々にコムニの運営を依頼してきたことは前回のブログ(マイヒストリー38)に書いた。

ホテルの運営をやったことがない我々は、2003年10月〜2004年2月までの5ヶ月間、毎月3泊4日で全国各地の有名なホテルを毎回、地遊舎の役員6〜8人で体験して歩くことにしたのだ。

03年10月22〜25日は鹿児島県屋久島(ホテルあかつき視察・天然村宿泊・ホテルいわさき視察・民宿送陽亭宿泊)と奄美大島(ホテルばしゃ山村宿泊)。

03年11月03〜06日は沖縄県石垣島(ビーチホテルサンシャイン宿泊・B&B KABIRA宿泊)と西表島(ホテルパイヌマヤリゾート視察、ラ・ティーダ西表宿泊)と竹富島視察。

03年12月04〜07日は静岡県熱海(蓬莱旅館宿泊、ヴィラ・デル・ソル視察)と熱川(民宿作右衛門宿宿泊)と東京都(新宿センチュリーサザンホテル宿泊、コートドール視察)。

04年01月13〜16日は大分県湯布院(亀の井別荘百番宿泊)と安心院(民泊中山家・矢野家宿泊)と熊本県黒川温泉(旅館山みず木宿泊)。

04年02月04〜07日は青森県酸ケ湯(八甲田ホテル宿泊、酸ケ湯千人風呂視察)と秋田県乳頭温泉(鶴の湯本陣宿泊・新本陣宿泊)。

に行って、高級ホテル・高級温泉旅館から民宿までのあらゆるパターンの宿に泊って歩いたのである。我々のモットーは、実体験することなのだ。

私と地遊舎の社長であるT医師の2人はこの全ての日程に参加した。私はある程度自由に自分の会社のスケジュールを調整することが可能だが、T医師は、代理の医者をたててスケジュールをやりくりして参加したのだから大変なことだ。やはり社長としての責任感があったのであろう。(つづく)


■2011-01-14-Friday 徒歩で

今朝は妻が用事があると

早朝から車で出掛けたので、久し振りに徒歩で会社に出勤した。

帯広は1月4日から10日間連続で真冬日(最高気温がマイナスの日)である。11日は最低気温が−16℃、12日は−19℃であった。さすがに−15℃を越えると寒さが厳しい。寒いというよりも痛いという感じになるし、鼻の中が凍るようで呼吸がしずらくなる。

今朝の気温は−10℃くらいか?風がまったく無いので辛くはない。風速1メートルで体感温度が1℃下がると言われているから、無風だとまだシノギ易いのだ。

体感温度というのは相対的なもので、前日が−19℃もの寒さだと、今日の−10℃を温かいと感じるのだから人間の感覚とは不思議なものだ。

一昨日雪が10㎝ほど降ったばかりである。−15℃以下の気温の時に降る雪は固まらない、いわゆる粉雪というやつである。雪の上を歩くとキュッキュッと雪が締まる音がする。鳴り砂ならぬ鳴り雪だ。この雪道を成り行きで歩いて通勤しているナ〜ンてね。

自宅から会社までの距離はおよそ1㎞だからゆっくり歩いて12分程度である。途中、ちょうど中間地点に帯広駅があるので構内を通ってくれば暖も取れるのだ。

途中の歩道はほぼ除雪がされていた。一部、シャッターが下りている店舗の前を除いては。

一昨日の雪が降る前に降ったのは、12月23日に降ったきりだったと思う。その時に降った雪は一昨日の粉雪とは違って、みぞれ交じりだったから、その後の寒波で凍ってしまった。その後一昨日まで雪が降らないから除雪車も出動しない。だから歩道も車道も圧雪された雪が凍ってスケートリンク並みにツルツルで光っていたくらいだ。

札幌から来た親類が、帯広の人って良くこんなスケートリンクみたいな道路を歩けるわね。と言っていたくらいなのである。

今朝は午前9時の駅前の温度計が−9℃を差していた。耳かけをしないで歩いていたので、さすがに耳が冷たくて痛い。

横断歩道で何度か滑って転びそうになった。歩道よりも横断歩道の方が滑るのである。自動車のタイヤがスパイクからスタッドレスに替って、横断歩道付近で自動車が停止、発進する度に、路面をタイヤで鏡面を磨くようにピカピカにするから、横断歩道が一番滑るというオカシナ現象が起きる。

私でさえ転びそうになるのだから、老人は怖くて歩けないというのも分かる。

冬道を歩いて通勤しただけでこんな感想を持ったのであった。


■2011-01-15-Saturday 同窓会

15日土曜日に母校の

北海道立帯広柏葉高等学校の同窓会の新年交礼会が北海道ホテルで開催され、夫婦で参加してきた。私と妻は同級生なのである。

柏葉高校は、卒業生に有名人では先輩に中島みゆき(柏葉20期卒)、後輩に吉田美和(柏葉34期卒)や安住紳一郎(柏葉42期卒)などがいる。

今年の参加者数は約700名で会場はビッシリと埋まっていた。

我が柏葉26期の同期生は9名の参加で去年よりも少なかったし、女性は私の妻だけであった。

今年の担当は柏葉9期と32期で、パンフレットは例年なら99%が広告なのに、読み物のページがふんだんにあって内容が充実していた。広告も例年よりも多く集めたようで、32期の連中はなかなか頑張ったようである。

18:30から始まった会は、開会の辞から、黙祷、挨拶、叙勲者紹介、来賓挨拶、演奏(32期同窓生によるオカリナとピアノ)、乾杯までで19:30まで1時間も掛かった。この1時間は黙って聞いていなければならない時間だから、さすがに、これは掛かり過ぎだ。

もう少しスピードアップしなければ、皆、旧交を温めたくて集まっているのだから、形式的な儀式は長過ぎてはいけない。

私たち26期が担当してから既に6年が経つ、私達の期には芸達者な人間が皆無であったから、今年のように、同期生にオカリナの本谷美加子さんやピアノの佐々木千里さんの演奏のようなものなどは無かったのでチアリーディングチームに依頼して演技をしてもらったのだった。

叙勲受賞者の紹介も割愛したのだが、これが不評で翌年から復活したのだった。私はパンフレットに名前を掲載するだけで十分だと思うのだが・・・。

26期の他の連中は、抽選の途中で退席して、街中の飲み屋に行ってしまった。

私たち夫婦も皆が居なくなってしまったので、次期実行委員長の挨拶のところで退席した。

ひとつずつの部分部分は良いのだが、タイムキーパー役が不在だったのだろう。全体として話が長過ぎたと感じた。

出席者は私の父の同級生の帯中18期生の84歳から、大学出たての23歳まで幅広い、この種の会の運営は難しいものだ。


■2011-01-16-Sunday 砂の王国

土、日曜日に小説を読んだ。

荻原浩著「砂の王国 上・下(講談社刊)2010.11.15発行」の新刊である。

当初は、この年末年始にインターネットオークションで落札した「ヒトラー」関係の本を読破するつもりであったのだが、ヒトラー本は一冊読んだだけで飽きてしまった。あまり目新しい解釈がなされていないように感じたからだ。

年末に発売された週刊誌の書評欄でこの「砂の王国 上・下」の解説を読んだら、「証券会社をクビになってホームレスになった男、冴えない辻占い師の男、正体不明の超ハンサムな若い大男のホームレスの3人が手品まがいの技法やコールドリーディングを使って、新興宗教を起こして、やがて・・・」的なことが書かれてあった。

私の研究分野である手品のことや、コールドリーディング(全く素性も経歴も知らない人間を会話しながら相手の表情などを観察して推察し、術者の持っていきたい方向に誘導していくテクニック、これに対するホットリーディングは事前に相手の素性や経歴などを調査した上でおこなう誘導テクニック)や占い師のテクニック(肯定、否定のどちらにも解釈出来る様な言葉を出して、相手に勝手に当たっていると思い込ませるテクニックの一種)(例をあげれば「貴方のお父さんは、なくなっていませんね」という言葉。これは「既に亡くなってしまってこの世には居ませんね」とも「まだ死んでは、いませんね」のどちらにも解釈できる。これを聞いた人が、自分に父親の状況に当て嵌めて勝手に当たっていると錯覚する。一度当たっていると思い込むと、この人はすごい!どうして判るのだろうか?と勝手にドンドン信じてしまう。)のことが書かれているらしいので、興味を覚えたから読んでみることにしたのだ。

作者の荻原浩氏の本を読むのはこれが始めてである。なかなかに文章表現能力に優れた作者のようだ。

グイグイと小説に引き込まれ、早く結末が知りたくなって途中で止めることが出来なくなり、一気に読み終えてしまったのである。

社会から見捨てられたホームレスが、社会に復讐しようと新興宗教を金儲けの手段として造っていく過程、カルト新興宗教に取り込まれていく人間の弱い心理、成功した後の仲間割れに至る心境の変化、などの描写が秀逸であった。

コールドリーディングは研究した跡が窺えるが、ただマジックの描写はもう少し研究する必要があるだろうなと感じた。19世紀のマジックのタネが出てきただけだったからだ。

序盤から後半までは、一気に読ませるが、ラストがどうにも気に入らなかった。この後が知りたいのに。

この本が売れたら続編でも書くつもりなのだろうか?

この本は、映画にし易い題材だから、おそらく近いうちに映画化されることになるだろうと思う。

なかなかに面白い本であった。

午後から、とかちプラザのレインボーホールで、2009年にラスベガスで開催された世界ジュニアマジック大会でグランプリを獲得した現在20歳のマジシャンHIROKI HARA(原大樹)の演技が見られるというので、妻と2人で見に行った。

すると、前半は「ツキを呼ぶ魔法の言葉」という本を書いた五日市剛さんという人の講演会であった。五日市氏が書いた本を、この人もあの人も読んで実践したら、こう成功したと、石川遼、浅田真央や鳩山由紀夫などの有名人の名前を多数上げていたが・・・。

自分で自分に「ありがとう」という感謝の言葉を常に話掛けなさい。という話なのだが、「砂の王国」を読み終わった直後では・・・・・。

マジックの方も世界一というには・・・・。

まぁ、こんなもんかなぁ〜。自己暗示とイメージトレーニングとポジティヴシンキングのことを簡単な言葉で表現しているだけであろう。

こういう類のものはシンプルな方が聞いた相手側が勝手に想像を膨らませてくれるものだ。

スポーツの世界も芸事も自信を持つことで余裕が生まれ幅ができるが、自信が過剰になって慢心するとダメになる。

何事も自信を持つということは大切なことだし、自信を持っても常に謙虚であれということなのだろう。

この当たり前のことが出来ないから凡人なのだ。これが出来る人が結局実績をあげていくことになるのだろう。


■2011-01-17-Monday 同期会

15日の柏葉高校の同窓会新年交礼会で

今年、我々柏葉26期生が卒業35周年になるので、5年毎に開催している学年全体の同期会を今年の秋頃に開催しないかとの提案があった。

5年前に、30周年を開催した時に、全体の同期会はこれが最後と宣言したのだが・・・。

前回の30周年の時は、この新年交例会の幹事を前年に終えて、資金的にも余裕があったから、遠距離からの参加者に交通費を援助することで参加者を増やしたのだった。十勝川温泉の第一ホテル豊洲亭で一泊で開催し、100名を越える参加者がいたのである。午前中にはゴルフコンペも開催したのだった。

何故に、全体の同期会を最後と宣言したのかと言えば、それは第一に「個人情報保護法」のせいである。

名簿の作成が、この法律が出来たせいで非常に難しくなったからだ。

私は、高校を卒業する1976年2月に、担任の教師から「坂本と小川(芽室町で牧場を経営)は将来的には親の後継ぎで地元で生活をするであろうから、坂本と小川の両名をクラス会の幹事に指名する」と私が受験で不在の時に欠席裁判で一方的に決められてしまったのだった。

欠席裁判とはいいながらも、他のクラスメイトの親は公務員などの転勤族が多いから、仕方なく引き受けた私は、以来、真面目にも毎年2〜3回(年賀状と暑中見舞いと移動の連絡があった時には作り直して送っていた)は名簿を作成しては全員に郵送していたのである。

高校を卒業してすぐのクラス会の時に、名簿の作成費用およびクラス会開催の連絡などの費用として年間1000円を徴収してはどうかと提案したら、不届きな奴が、「どうせ坂本のこずかいにするのだろう」と言うので、頭に来て「そんな事を言うなら金は一銭も集めない!俺の金で作って送ってやるが、その代り俺が辞めたくなったらいつでも辞めるからな!」と宣言して以来、30年間作り続けてきたのだ。

最初はパラフィン紙に手書きで書きガリ版刷りしていた。私の父の会社が簡易印刷機を導入したらその印刷機で、和文タイプを導入したらそのタイプで打って、コピー機を導入したらコピーし、ワープロを導入したら・・・、コンピュータを導入したら・・・と機械の発達に依って手間も格段に減り、その内容も大学名、親元の住所、本人の勤務先の連絡先、配偶者名など等充実させていった。消息が不明の人物も2名だけであったのだが・・・。

完璧主義の私はこの住所録に様々な情報を詰め込み、見るだけで色々な事が分かるようにと作ったのだが、それが、逆にあだになっていった。

私の作成する名簿を前に送った名簿と比較するだけで、クラスメイトが結婚したことだの、就職したことだのという動向が分かるから最初はとても有難がられていたのであるが・・・。

そのうちに、結婚の遅い人、しない人、離婚した人、勤めていた会社が倒産した人など、名簿を見たら一目瞭然となっているから、名簿に載せてほしくないという人が出てきたのである。

会社名や配偶者名などは、簡単に削除することができるが、親元の住所は載せておきたいと思った。

本人の住所が変更になり、私にその変更先を知らせてこないと、追跡調査が出来なくてその人物は消息不明となってしまう。一旦、消息不明になってしまうと再度掲載させるのは至難の業なのである。

本人の連絡先が分からなくても、親元に電話すれば「ア〜ラ坂本君、いつも御苦労さま、○○は今、△△にいるのよ〜」と教えてくれる。それが、名簿を使った経済事件が多発するようになった頃から「貴方は本当に柏葉高校の坂本君か?」と警戒されるようになってきたのだ。それでも説明したら教えてくれていたが・・・。

そこに「個人情報保護法」ができて、名簿を作ることが更に面倒で難しくなったのだ。

歓迎されない名簿なら作るのは止めようと5年前から作成は止めた。

確かに名簿を悪用して、犯罪に利用する悪い奴らがいることも確かだろう。しかし、名簿が無ければ、普段の付き合いがある連中でなければ、連絡の仕様もない。こうやって段々と人情が薄れていくのだろう。

後から、もう一度名簿を作り直そうとしても、一旦途切れてしまった情報を復活させるのは難しいことだ。

法律が日本の人情を破壊していくようで悲しい。名簿を作りづらくするよりも悪用した時の罰則を厳しくして犯罪抑止にすれば良いと思うのだが・・・。

2月2日(水)18:00〜坂本ビル6階で柏葉26期各クラスの幹事が集まって同期会開催の検討をする会議を開催する予定だ。果たしてどのような結論になることか。


■2011-01-18-Tuesday 町内会

自宅が所属する町内会

新生町内会の会長上野敏郎さんが会社に訪ねて来られた。

上野さんは前帯広市議会議長で、去年の帯広市長選に立候補された方である。

一昨日自宅に訪れられた時には、私は不在だったので妻が対応したのだが、町内会の役員のことで私に相談したいことがあるという。

一昨年まで、同じ町内会に住む妻の父(義父)が監査役をやっていたのだが、高齢を理由に役を降りた。その時に、会長の上野さんから「お義父さんの代りに義理の息子である坂本さんに監査を引き受けてもらいたい」と言われ、断わり切れずに、監査役なら年に一度、貯金通帳を見るだけだから、まぁ良いかと引き受けたのであった。

今年が役員改選なのだが、皆、高齢を理由に役職を降りたいと言い出して、今回、副会長さんも降りられたので、その代わりに私に副会長になってほしいと言うのである。

最初は多忙と若年を理由に断ったのだが、粘られて渋々引き受けることになってしまった。

マンションやアパートの住人は町内会には所属していないし、若い人(60代で若いのだという)で役員を引き受けてくれる人も少ないという。もはや53歳という年は若年ではないらしい。

町内の役員というものは市議会議員か世話焼きの方がなるものだと思っていた。私は議員ではないし、世話焼きでもない。面倒なことは大嫌いなのだ。

だから、私はこの種の役職はもちろんだが、どのような類の役職でも、そもそも役というものには就きたくないのである。

逆に役に就きたいという希望を持っておられる方もいるだろうに・・・。

会社の所属する町内会も高齢化が著しいし、自宅の方も同様である。今後は益々役員の成り手が不足するのだろうなぁ。

なんだか社会の縮図が街中の町内会に出始めているようだ。


■2011-01-19-Wednesday 蝦夷鹿サミット

18日16:00から北海道ホテルで

「北海道十勝蝦夷鹿サミット」が開催され、妻と二人で参加して来た。

会費は一人1万円である。

16:00〜17:30までの第一部は「北海道におけるエゾシカの実際と可能性」と題して、北海道大学の近藤誠司教授と帯広畜産大学の島田謙一郎准教授の講演。

18:00〜20:00までの第二部は、「北海道真狩村のレストラン・マッカリーナの菅谷伸一シェフ」・「奈良県奈良市のイ・ルンガの堀江純一郎シェフ」・「東京都中目黒のラ・ブーシェリー・デュ・ブッパの神谷英生シェフ」の三人の料理人の料理と「㈱グッドテーブルズ・農産物流通コンサルタントの山本謙治」の進行で行われた。

第一部は学術的な観点からの解説だったが、とても興味深い内容でとても勉強になった。

メインは、第二部の3人のシェフによる、エゾシカ肉料理を食べるコーナーである。

MENUの第1番目は菅谷シェフの「仔鹿(オス1才)」の「仔鹿とクルミのパテ 香草風味 黒豆を添えて」と北海道ホテル工藤料理長の「仔鹿ロース肉のポアレ マッシュルームのクリーム煮添え」である。

どちらも肉は柔らかく臭みも全く無く、とても美味しかった。

第二番目は神谷シェフの「エゾシカ(オス2才)」の「エゾ鹿のモルタデッラ/ヤークブルストの盛り合わせ スクランブルエッグ添え 十勝朝食スタイル」と工藤料理長の「エゾ鹿肉ロース肉酒蒸し仕立て 和風バターソース」、モルタデッラは初めて食べたがとても美味しかった。これはこの単品でも十分商品になると思った。ヤークブルストも薄緑色というか灰色というか変わった色のソーセージで食感もモチモチしていてこれまで食べたことのないソーセージであったが、臭みも無くとても美味しかった。

第三番目は堀江シェフの「エゾシカ(メス3才)」の「エゾ鹿、内モモ・外モモの岩塩包み焼き ハーブとにんにくの香り バニエットロッソ・アンチョビとレモンのドレッシングの2種類のソース」と工藤料理長の「エゾ鹿肉ロース肉のパイ包み焼き、カシス蜂蜜ソース」、内モモは柔らかく、外モモはやや固い。同じモモ肉でも部位によって若干の差があるのだなぁ。鹿の年齢が上がるごとに、固さと臭みが増す。羊肉で言うと幼羊のラムと成羊のマトンぐらいの感じかなぁ。慣れれば問題はないだろうが、食べ慣れていないと3才以上の肉には臭みを感じるかもしれない。オスとメスでも味が異なる。若くてメスの方が食べ易かった。さすがにエゾ鹿肉ばかり、前菜と温製料理を3種類も出されると、少し飽きてくるが、初めて食べる料理も多く、味は文句無く美味しかった。

この他に十勝産小麦で作ったパン。十勝産チーズのフロマージュブランのムース、十勝産枝豆のモンブラン、コーヒーが付いて、しかも池田町の十勝ワイン、キリンビールは飲み放題だから会費の1万円はかなりリーズナブルである。

小食の私にとっては、多過ぎたくらいだ。

講師の方やシェフの方々全員にも「馬鹿もん」の資料を渡して宣伝出来たので、これがキッカケで何か新しい動きが出来たら嬉しいなぁ〜。

今日はエゾ鹿肉の勉強にもなったし、美味しい料理も食べられたし、とても良い気分であった。


■2011-01-20-Thursday ナチュラルチーズ

昼食をとる為に藤丸百貨店に行ってみたら

7階の特設会場で北海道の主だったチーズ工房が集まって「ナチュラルチーズ」を販売していた。

北海道は日本で生産されるナチュラルチーズの90%を製造しているが、十勝だけで日本の67%ほどを生産しているというから、十勝はまさにナチュラルチーズ天国である。

私はチーズが大好きで良く食べる。白ワインを飲みながら、フランス産のロックフォールという羊の乳で作るブルーチーズをチョボチョボと舐めるように食べるのが大の好みなのだ。青カビの、舌にピリッとくる刺激が堪らないのだ。

日本人の中には、この青カビの生えたブルーチーズは臭くて苦手という人も多く、そこからどうもチーズはねぇ〜と引く人もいるが・・・。

恐らくイメージで苦手意識を作り出しているのだろう。人間は目や鼻や脳で食べているのだから・・・。

十勝は気候的に合わないのか、残念ながらブルーチーズの生産は行われていないが、カマンベールチーズを代用品にして白ワインを飲むのもまた絶品なのである。

本州方面からお客さんが来たら、いつも十勝のチーズ工房に連れて行くのだが、私のお勧めは、中札内村の「十勝野フロマージュ」のブリーチーズとカマンベールチーズ、新得町の「協働学舎」のラクレットチーズだ。

去年、夫婦で遊びに来た、東京からのお客さんも、京都からのお客さんも、工房にご案内したら大量に購入されて帰られた。

試食をすると、その美味しさが良く判って購入し易くなるようである。

70歳以上の方々には「チーズは石鹸を食べてるようで苦手だ」という方も多いし、雪印の6Pプロセスチーズ(ナチュラルチーズを加熱殺菌して熟成を止めたチーズ)しか食べたことがない人も多いが、最近の若者は、ピザが普及したり、チーズハンバーグなども食べ慣れているし、スパゲッティにも粉チーズを振りかけて食べるから、苦手意識はだいぶん薄くなっていることだろうと思う。

十勝に暮らす人は、もっともっとチーズを沢山食べて、その良さを宣伝するべきだろう。

こんなに美味しいものが、日本で一番たくさんに、しかも工房数も多いのだから。色々な味が楽しめる。

もっとチーズを使った、新しいお菓子や料理を開発することも必要だろうなぁ〜。

さて、今晩はチーズで一杯やるとしよう。


■2011-01-21-Friday 事業仕分け

今朝のニュースで蓮舫

行政刷新大臣が今年3月に「規制の事業仕分け」をすると言っていた。

これに大いに期待したい。

私はビルの賃貸業を営んでいるが、ここ3年ほどこの規制というやつに怒り狂っているのである。

それは、建築基準法の定期報告についてだ。

建築基準法は、例のアネハ事件が起きたあたりから、やたらとオカシナ規制が増えたように感じる。

役人の責任回避の為だけに、毎年莫大な費用が掛かる検査を一般の会社に強要することが、何故に必要なのか全く理解に苦しむ。

しかも検査項目が段々と増えて、費用が益々高額化しているのだ。

我社の例を挙げたら、「毎年、1級建築士の資格保持者に建物を検査させて定期報告を行うようにという通達」なのだが、その費用は当初は20万円代であった。それが2年前から検査項目が増えて45万円になったのである。

果たして鉄筋コンクリート製の建物の検査を毎年やる必要があるのだろうか?甚だ疑問に感じる。

建物がそう簡単に劣化する訳がないだろう。

大きな地震でも起きたから「安全確認の為に検査しなさい」というのなら理解できる。増改築したから、報告しなさいというのも理解できる。

だが通常の使用で、増改築もしていないのに、そうそう劣化する訳がないではないか。

たたでさえ、テナントが減ってビル業の経営が厳しくなっているというのに、経費ばかりが増えたのではやっていけない会社が出てくる。政府は街中のビルを全て壊して更地にしたいのか?

そうなったら固定資産税の収入だって減ることになるんだゾ!

何かが起きたら役人の責任になるから、定期報告を義務づけるというのは金と労力の無駄使いのなにものでもない。役人が楽したいからビル会社に金を使わせているだけだろう。

こんなクダラナイ定期報告書に毎年、毎年45万円なんて払うのはバカバカしい限りだ。

蓮舫大臣には、こういうオカシナ規制を即刻廃止してもらいたいと思う。


■2011-01-22-Saturday UFO

地元の新聞2社の記事に

17日の夜に、帯広市の隣町の幕別町でUFOらしき物を見て撮影したというのが写真付きで載っていた。

UFOかぁ〜、いいなぁ〜、私も一度でよいから見てみたいものだと思っている。

UFOが宇宙人の乗り物かどうかは置いておいて、宇宙人の存在は信じている。だって、その証拠は、他ならぬ我々地球人だろう。この超広大な果てがわからない宇宙で生命が誕生した星が、この地球だけだなんて馬鹿な話はないだろうから・・・。

私は、この世の中の「不思議な事」を研究している。専門はマジックだが、最近はその研究対象が広がってオカルトからUFOにまで及んでいるのだ。

良く、マジシャンは「超能力」や「霊」などを信じていないと思われているが、実はそうではない。

恐らく世界で一番有名なマジシャンだったアメリカの「ハリー・フーディニ」は霊能者バスターのように思われているが、彼は「霊」の存在を信じていて、母親の霊を呼び出せる本物の霊能者を探していたのだ。

だが、彼の前に現れたのは皆インチキ霊能者ばかりで、彼にそのトリックを暴かれてしまったので、フーディニのことを霊能者バスターみたいに思われているのだ。彼は死ぬ時にも、自分は霊界から必ずこの世にメッセージを送ってみせると言って死んでいったが、その約束はまだ果たされていない。

マジックには超能力マジックという分野があって「念力」「透視」「千里眼」「予知」「テレパシー」などの現象を見せるマジックがある。

マジシャンにとっては、マジックの技法を使って、スプーン曲げなどの超能力と同じ現象を見せることは朝飯前なのである。私も飲み屋さんでは酔っ払うとスプーンが曲がってしまうのだ。

私は、超能力のような力が存在することを信じている。まだ本物を、この目で見たことがないだけだ。

もしも私に、超能力があったとしたら、スプーンなんてクダラナイものを曲げるようなことはしないけどね。

もしも予知能力があったら今頃はロト6で大儲けしているさ。


■2011-01-23-Sunday フェイスブック

妻が映画を観たいと言う。

「ソーシャル・ネットワーク」という映画だ。

コンピュータのソーシャル・ネットワーキング・サイトのフェイスブックの創設者マーク・ザッカーバーグを描いた映画である。と書いても私には「フェイスブック」????何のコッチャ?としか判らない。フェイスブックなんて聞いたこともなかったからだ。

フェイスブックは実名で情報交換する欧米では盛んだが、匿名が好まれる日本ではいまいち発達しないのだろう。

テレビで映画の宣伝を見て、妻が面白そうだから行こうと言い出したので、逆らう訳にはいかずにお付き合いしたのであったが・・・。

まぁ、簡単に解説すると、ハーバード大学の現役の学生が、コンピュータの新しいサイトを立ち上げて億万長者になるのだが・・・。

そこには、他の学生のアイデアのパクリ、創業仲間への裏切り、嫉妬、羨望、成り上がり根性など等、多彩な登場人物で描いていて、なかなか面白かった。

仲間内での商売というのは、成功しても失敗しても、このように色々な問題が出て来るものなのだ。私にも苦い経験がある。これは洋の東西を問わずに現れるものなのだから、おそらくは人間の本能なのだろうなぁ。

それにしても、アメリカのIT社会というのは、凄まじいところだなぁ〜。まさに生き馬の目を抜くという感じである。他人に先んずる(出し抜く)ことで、何百億円もの差が出てくるというのだから・・・。

だが、若くして(20歳くらいか)濡れ手で粟の超巨額の金を手に入れて、この映画の主人公は、一体何を得たのだろうか?

恋人に去られた勢い(負のエネルギー)から始まって、同じハーバード大学のエリート学生のアイデアにヒントを得て、盗用(?)し、出し抜いてフェイスブックを創り出し、成功すると今度はオカシナ奴らに取り込まれて、開業資金を出した友人を裏切り、訴訟を起こされる。

それにしてもさすが、訴訟社会アメリカだ。裏切られ、騙されて放っぽり出された(お金を出した)創業仲間が訴訟を起こしたのは判るが、アイデアを盗用されたと訴えた学生は、日本なら訴訟にもならずに門前払いだろうに・・・。

日本はその点では、正直者が馬鹿を見る世の中だなぁ〜。卑近な例でも、自分はアイデアも金も全く出していないのに、さも自分が造ったかのように言っている輩が私の近くにも居るが・・・。

金は手に入れても、友人も仲間も失う。そんな人生は歩みたくはないものだ。

こういう連中は、一時は成功を収めたかのように見えるが、最終的には寂しい人生を送ることに相場が決まっているのだゾ。


■2011-01-24-Monday マイヒストリー40

2003年1月から北海道新聞社

の朝刊の人気エッセーコーナーである「朝の食卓」という欄への執筆依頼が舞い込んで来た。「朝の食卓」は40名ほどの執筆者が700字ほどのエッセイを順番に書いていくコーナーで毎日掲載されるのである。40日毎に原稿を新聞社に送らなくてはならないのから、およそ1年間に11本の原稿を書くことになる。

通常、書き手は1年ずつで交代するそうだが、私の書くエッセイは人気があったようで2004年も引き続き書いて欲しいと編集者からの依頼があった。書くことが段々と楽しくなってきていたこともあって喜んで引き受けた。その次の年(05)も、また次の年(06)も執筆依頼を受けて、結局、最長の4年間(03年1月〜06年12月)全37編も書くことになったのだった。

2004年1月9日から、北の屋台の「御多幸」さんに、テレビ朝日系列で土曜日18:00から放送されている人気番組「人生の楽園」の取材が入った。

この番組は西田敏行と元キャンディーズの蘭ちゃんがナレーションを務めている番組で、第二の人生を素敵に生きている夫婦を紹介する番組である。

放送日は2月21日(土)であった。全国放送の人気番組であるから、北の屋台も全国的な知名度が出たことと思う。

1月22日に函館TMOの方々が視察に訪れた。函館でも屋台村を開業したいというのである。その後、私が函館に何度も出向いたり、函館からも来られたりして函館にも屋台村「大門横丁」がスタートした。

2月1日にはシャープの取材、10日にはサントリー不易流行の取材など等、全国的な企業や雑誌などからも取材が入り、北の屋台はますます全国的な広がりをみせ始めた。

2月17日(火)夜に帯広市内の寿司店に、オーベルジュ・コムニの旧経営者と新経営者から、我々、地遊舎の幹部が招かれた。

全国各地の旅館やホテルの視察(マイヒストリー39参照)も終えて、いよいよ、ホテルの経営に取り組むことになり、オーベルジュ・コムニは4月17日(土)から新装オープンしたのだった。しかし、このホテル経営は予定していた稼働率には程遠かった。T社長は役員に更なる増資を求めてきたのである。その役員会で医師でもあるT社長は「コムニを大人がフランス料理を楽しんで密会できるような場所にしよう」と提案した。私が「それは言葉を変えただけで、やることはラブホテルと一緒じゃぁないか」と言ったことで亀裂が入った。運営方針に対する意見の違いが決定的になったことで、私は取締役の退任届を5月18日に提出したのである。

しかし、T社長は、コムニには参加していないが、TKLの会長でもあったS医師などに仲介役を依頼して、18〜21日までの4日間手を変え、人を変えて私が経営陣から脱落することを防いだのであった。

結局、更なる増資を飲まされ、経営にも引き続き参加することになってしまった。今思えば、傷の浅いこの時にハッキリ別れていれば良かったのである。T社長も心の中に私に対するワダカマリを抱えたまま経営を続行することになってしまったのだった。

私は北の屋台の講演がますます増えてきて、相変わらずというよりもますます忙しく全国各地を回って歩いていたが、北の屋台は7月中旬には第二期がスタートする予定になっていた。(つづく)


■2011-01-25-Tuesday マイヒストリー41

2004年、北の屋台は2期目に入ろうとしていた。

北の屋台が最初にオープンしたのは2001年7月29日である。余談だが、私は「29」と云う数字がラッキーナンバーなので29日のオープンにこだわった。以前にも確か書いたが、帯広市西2条南9丁目で1月29日に生まれ、坂本和昭の総字画数は29画なので、昔から29という数字が好きなのである。

当初、北の屋台は地主さんとの土地の賃貸借契約期間を6年半(2001年6月1日〜2007年11月末日)しか締結出来なかったから、この6年半を、3年と3年半の2つに分割して、第一期、第二期とし、より多くの人達に、屋台を使って起業してもらいたいと始めた事業である。つまり、この第二期目(2004年6月〜2007年11月)が最後の期になる予定であったのだ。

第一期の初めは、全部の屋台がなかなか埋まらずに苦労したが、2003年5月8日に「串のやっさん」が最後にオープンしてからは順調に推移していった。それからは来客数も、売上金額も常に前年度を上回る好成績が続いたのである。

第二期目には、何か新しい事にチャレンジしたくなった。そこで帯広商工会議所に働き掛けて「起業塾」という新しいシステムを考案したのである。最初は商工会議所に北の屋台の2つ分のブースの家賃を出してもらい、そこに通常の屋台店主募集とは違う別の方法で選別した、金は無いがやる気だけはあるという人間を入居させて、組合が育てていこうと企画したのである。

「起業塾」のアイデアを思い付いたのがこの第二期の募集を始める直前ということもあったが、商工会議所は意思決定にやたらと時間が掛る組織なのだ。常任議員会や総会を通さないと新しい企画を始めることができないシステムになっている。

募集開始期日までに商工会議所は決定できないということが判ったので、やむなく、商工会議所と組むことを止めて、北の起業広場協同組合単独で「起業塾」を開始することにした。

最初は、商工会議所に家賃分の負担をしてもらって、リスクを最小限にするという都合の良い算段をしていたのだったが・・・、やはり、リスクは自分で取らなければ、良いものはできないと思い直したのである。

最終的な「起業塾」のシステムを簡単に説明すると、通常の屋台店主募集とは別枠で2店舗分の屋台を組合直営の屋台にする。やる気はあるが、店主に応募するには自己資金300万円が用意出来ないという人間を募集するのだ。選ばれた塾生には、組合の1年限りの臨時職員として最低限の給料(手取り14万円程度)を払う。組合は売り上げから、家賃、光熱費、食材などに掛った経費を引いて残った「経常利益の60%」をインセンティブとして塾生に払う契約をする。つまり、塾生は頑張って利益を上げたら自分の収入も増えることになるわけだ。

また150万円を限度に組合が塾生にお金を貸し、塾生はそのお金で、自分がデザインした屋台店舗を造り、自分が気に行った食器類などを買い揃えるのだ。

契約期間の1年間、塾生は毎日、組合事務所に前日の売り上げ金額、売れたメニュー、来

客数などの報告と売上金を持参してくる。組合事務所で1年間、帳簿の付け方、営業方針などを学ぶのである。

この方法にはもう一つの意味がある。塾生は単独で金融機関に行っても300万円という資金を融資してもらえなかった人間である。その時に金融機関に提出する書類の中の「経営計画書」というのは、未だ商売を実際に始める前の目論見というか絵空事というか、「こう云う風な営業が出来たら良いなぁ〜」という想像の産物というか、まぁそういう類のものなのである。金融機関はこの作文を信憑性があるかないかを判断して融資するかしないかを判定する。

しかし、塾生は毎日、毎日、北の屋台で営業した実際の数字を一覧表に作成しているのだ。これを次の年に金融機関に持ち込んで融資を依頼したら、断る所はまずないだろう。作文ではない実際のデータなのだから当たり前である。そのまま同じ場所で同じ人間が営業をするのだから、これほど確かな融資先はない。

つまり「起業塾」は、お金は無いがやる気だけはあるという塾生を選んで、1年間、最低限の給料とインセンティブを払い、自己資金を貯めさせながら、帳簿付けやメニュー作り方や屋台の商売の方法を研修するのである。

翌年、組合はもう一度塾生のやる気を審査する。そのまま屋台店主になりたいと思った塾生は、金融機関に行って、300万円の融資を依頼するのだ。お金を借りられたら、組合が塾生に貸した150万円は返済してもらう(もちろん利子は取らない)。このお金を返してもらうことで、さいしょに造った屋台店舗や食器類は晴れて自分の所有物になるのである。

塾生は2年目から他の屋台店主らと同等の扱いになるから、塾生の、店主としての契約期間は他の店主らより1年短い2年半である。2年目からは、独立して組合に100万円の保証金を入れ、家賃も光熱費も他の店主達と同じように組合に払うのである。

最初は、かなりのリスクがある事業だと覚悟していた。失敗したら、その負債は被らなければならない。しかし、結果として組合は収入が増えたのである。塾生が頑張って、損益分岐点を遥かに超えた売上を上げてくれたので、毎月インセンティブを支払う嬉しい誤算になった。インセンティブは家賃や塾生の給料などの諸経費を払った残りの経常利益であるから、当然、家賃収入だけの時よりも儲かったのである。

起業塾のヒントになったのは「ひでちゃん」だった(これは後日書く)。

結局、起業塾は組合にとっても、塾生にとっても両方に良い、オールウィンの方法だったのである。(つづく)。


■2011-01-26-Wednesday マイヒストリー42

2004年6月は第二期の入れ替えを行った。

第一期で北の屋台の名物になったメニューに「ラクレットチーズ&ポテト」があった。これは大学の先輩でもある宇佐美明男さんが屋台に出店して流行らせたメニューで、店名も「ラクレット」と名付けたほど宇佐美さんにとっても熱の入ったメニューだ。客の目の前で半円形のラクレットチーズをフランス製の電熱器でトロ〜リと溶かしてジャガイモの上に掛けて食べるものだ。私も大好物だし、テレビや雑誌などの絵姿が良いので、すっかり北の屋台の名物になったメニューなのである。

その「ラクレット」の宇佐美さんが北の屋台を一期で卒業して、道路の向かい側のビルに移転するという。これが本来の北の屋台の理念である。しかし、ということは名物の「ラクレットチーズ&ポテト」が北の屋台から消えてしまうということになるわけだ。

第二期の募集を始めてすぐに、「北の屋台ネット委員会」のメンバーで当初から屋台のデザインなどの面で参画していた阿部誠さんが、「第二期には店主として応募したい」と申し出て来た。北の屋台設立の趣旨から分かっている阿部さんが店主として参画してくれるのはもちろん大歓迎だ。

阿部さんと面接し「どんな屋台をやりたいのか?」と尋ねたら、「囲炉裏を造って魚の干物を目の前で焼く炉端焼きをやろうと思う」と言うから、私は「阿部さんには炉端は似合わないよ、宇佐美さんが卒業して名物のラクレットが北の屋台から消えるのは寂しいから、ラクレットチーズをやらないか?宇佐美さんには私が交渉してあげるし、チーズを造っている協働学舎の宮嶋さんにも私が話をつけてあげるから」と説得したのであった。宇佐美さんも「ラクレットは私の専売特許ではないし、もちろん誰がやっても構わないよ」と快く了承してくれたので、スムーズに阿部さんがラクレットチーズを扱えるようになった。やはり、こういうことは、後々、感情問題にならないように、先行者に事前の了解を得ることが重要なのだと思う。

その後、阿部さんが始めた「プチプレジュール」はラクレットチーズを扱い、北の屋台でも1,2位を争う繁盛店になった。阿部さんは私に足を向けては寝られないはずだ(冗)。

2004年6月12日(月)18:30に北の屋台の第二期がスタートした。

第一期の時には、朝と昼と夜とで営業形態を変えて、24時間の営業を考えていた。

朝は、屋台を組み立てずに屋台の前の空間を利用して、農家から採れ立ての野菜を並べて売る朝市として。

昼は、屋根だけ出して客席を組み立てずに、テイクアウト型の弁当販売屋台として。

夜は、客席を組み立てて、屋台として営業する。という具合である。

保健所が、昼と夜とで営業者が変わるのは責任の所在がハッキリしないからダメだと認めてくれなかったし、狭い屋台を昼夜別々の人間が使用するのも難しかったのである。

このプランを実現する為には、個人契約の屋台では無理であったが、屋台の営業をする会社と契約をして、屋台に立つ人間は、その会社の社員であれば昼夜別の人間が立ってもOKであったのだ。

だから、第一期は個人契約半分、会社契約半分という割合でスタートしたのである。ところが、この企画は机上の案に終わってしまったのだ。

会社契約をした屋台も最初は、昼夜の営業をしていたが、昼間の営業は、アルコール類が出ないから実入りが少ないのと、夜が忙し過ぎて、昼まで手が回らなくなっていったので、段々と昼の営業をする店が減り始めてしまい、強要する訳にもいかなくなってきたからだ。

やむを得ず、夜の営業のみになっていった。

その内に会社契約で営業している屋台と個人で営業している屋台との売り上げの格差が出始めた。売れなくても給料を貰える会社契約の屋台と、働いた分だけ実入りが増える個人契約の屋台とでは、力の入れ具合が違っていた。たとえ日々の差は少しでも、その差を1年分にするとかなりデカクなるものだ。

こうなると、会社契約というのは屋台にとって、あまり歓迎すべき方法ではなかったなと感じていたのだ。だから第二期の募集は、原則として個人契約のみとすることにしたのである。(つづく)


■2011-01-27-Thursday マイヒストリー43

第二期の通常の屋台の応募者はあまり芳しいとは言えなかった。

屋台なのに何を贅沢な!と言われるかもしれないが、店主になってもらう人達にはある程度以上の質を保ってもらわなければ、飲食店だから、悪い評判が立ってしまったらたちまち立ち行かなくなってしまう。こうなると一軒だけの問題では済まなくなるので、面接で評価の高くなかった人達を落としていったら20ブース全てを埋めることが出来なくなったのである。

そこで急遽、地遊舎が2ブースの営業をすることになった。地遊舎は「スノー・フィールド・カフェ(SFC)(冬の雪に埋もれた間だけ、景観抜群の畑を活用したビニールハウスのレストラン)」を運営する為に造った会社で、役員は全員北の屋台の理事者という会社でもあり、「オーベルジュ・コムニ(幕別町のレストラン&ホテル)」も運営する会社だ。

20のブースを埋める為にはとりあえず、北の屋台の理事者が経営する会社にやらせておけば融通が利くと考えたのだ。

2ブースの内の1店はパチンコ屋をやっていたT君の会社の札幌店店長をやっていたK君が、会社が倒産した後は無職だったこともあって、彼に、屋台をやらせることにした。K君は料理の素人だから、メニューはコムニのシェフのW君に串揚げをプロデュースさせる計画だった。

もう1店はやはりW君がプロデュースして、そちらは新たに求人する計画を進めている時に、態度を保留していた串揚げ屋の店が正式に入居希望を伝えてきたので私が北の屋台出店をOKしたのである。地遊舎にはブースを2から1に減らすようにお願いした。2店舗目の陣容がまだ決まっていなかったからだ。

地遊舎ではK君にも同業の串揚げ屋をやらせる計画だったし、2店舗の予定から1店舗に減ったことで、T社長が大激怒したのである。収入源が減るということなのだろう。しかし、北の屋台では同業種は2店舗まで認める決まりがあるのだから同業者というのは問題ない。

地遊舎の役員は全員が北の屋台の理事者でもあるのだが、立場によっての軸足の重心の違いが鮮明になったのであった。

私は、地遊舎よりも北の屋台の運営の方に力点を置いていたから、屋台を地遊舎で運営するよりは、やりたいという人がいるならその人にやらせるのが本来の北の屋台の姿だと考えたのだ。

T社長にとっては、もともと赤字覚悟で運営しているSFCは別にしても、儲けるはずだった「オーベルジュ・コムニ」が思う様な収益を上げられなかったこともあって、儲かる北の屋台の運営でその赤字分を埋めるつもりでいたのだろう。

T社長は北の屋台の副理事長で地遊舎の社長という立場であるが、地遊舎の方を優先したし、私は北の屋台の専務理事で地遊舎の取締役という立場であるが、北の屋台を優先したのである。

地遊舎は個人の会社であるし、一方の北の屋台は、国や市や商工会議所から補助金を頂いて始めた、いわば公的な仕事である。私にどちらを優先するのかと問われれば北の屋台を優先すると答える。しかし、T社長にとっては、それが彼に対する裏切り行為に感じたのだろう。私に言わせれば、貴方も北の屋台の副理事長という立場なのだから少しは立場ってものを考慮して欲しいということなのだが・・・。私とT氏との軋轢は深まっていった。

私は、自分が北の屋台と地遊舎の二足のわらじを履いて歩いていくことは不可能だと考えて、地遊舎の役員を降ろさせて欲しいと願い出たのだが、なぜだかT社長は認めないのである。その後もズルズルとこの態勢を引きずったまま続いていくことになるのだが、これが後々に不幸な事態となっていくのである。(つづく)


■2011-01-28-Friday マイヒストリー44

北の屋台の第一期目の集計は

2001年7月29日〜2004年6月30日までの約3年間の総来客数は46万6485人で総売上額7億円超と(1年目15万3041人で総売上額2億1141万円・二年目は微増の15万3378人で総売上額2億3060万円・3年目は16万0066人で総売上額2億5894万円)と右肩上がりに増えていった。

この3年間で本州、四国、九州、沖縄など全国各地の140か所以上から1300名以上の視察者が訪れ、私の講演回数も150回を超えたのであった。この成果の詳しい内容は「北海道浅井学園大学生涯学習研究所研究紀要、生涯学習研究と実践の第8号(2005年3月発行)」に16ページに亘る論文を私が書いているのでそちらを参照されたい。

2004年は2ヶ所から表彰を受けた。

6月27日には「十勝場所と環境ラボラトリー」が日本都市計画家協会(会長:伊藤滋早稲田大学教授)から第2回「都市計画家協会賞の市民・NPO部門の大賞」を受賞した。東京渋谷区の建築会館で行われた贈呈式には私が出席した。晴れがましい席なのでS会長が出席したいとの希望であったが、協会側からの旅費は一人分しか出ないし、表彰式ではプレゼンをしなければならないので、S会長では無理だったので私一人だけで出席することになったのである。

11月10日には「北の屋台」が「あしたの日本を創る協会」から「ふるさとづくり賞の内閣総理大臣賞」を受賞した。東京渋谷区の国立オリンピック記念青少年総合センターで行われた表彰式には、今度はS理事長(S会長と同一人物)が、総理大臣から表彰されるなら絶対に自分が出ると言う。今回も旅費は一人分しか出ないし、平日であるから医師のS理事長が出るのは難しい、それに、やはり表彰式でプレゼンをしなければならないのだ。S理事長は自分の分の旅費は自分で払うから出ると言うので私と2人で出席してきたのであった。

表彰式では残念ながら総理大臣、官房長官は急遽、閣議の為に欠席となり、代わりに内閣府の審議官が表彰することになったのだった。S理事長はかなりガッカリした様子であった。

北の屋台では03年に1ヶ月間だけ試験的に導入した「夕焼け市(地元の農家が採れたての野菜を直接販売する市場)」が好評だったので、この年は野菜が採れなくなるまで続けることにした。近所の街中に居住する人たちが大勢買いに来るようになったのである。野菜の金額はスーパーマーケットで売っているものと大差ないか、若しくは若干高いぐらいだ。しかし、一個づつの販売であるから、二人暮らしや独居老人にとっては大量に買って腐らせてしまうことがない分かえって割安になる。それよりも作っている本人が売っているのだから安心なのだろう。

この「マイヒストリー」を書くにあたって、日付けなどの正確性を期すために、私がスクラップブックに切り抜きをしている新聞などを参考にしているのだが、その新聞記事の数の多いことに驚く、ほとんど毎週の様に北海道新聞や十勝毎日新聞に記事が掲載されているのだ。つまり、それだけ情報発信に力を入れていたということだ。北の屋台の理事会にも新聞記者に同席してもらい、その会議の内容を掲載してもらっていたのだ。

その他にも「北の屋台通信」という独自の広報誌を私が書いて、2002年8月からVOL5まで発行して屋台で無料配布していた。

税金である補助金を受けての事業であるから情報公開をするのは当然の義務であるし、情報をオープンにすることで市民との一体感を持ちたかったのである。

最近の北の屋台は、情報発信力が欠如しているのか、それとも秘密主義になったのか、どうも情報発信がなされていないように感じる。独裁国家の北朝鮮でもあるまいし、隠す必要など何もないはずだろうに、公開すると都合が悪いことでもあるのかしらん。何故、公開しないのだろうか?

2月末には、第4期の入れ替え時期だというのに、1か月前の今日現在、未だに誰が入居するのかすらも一般に発表されていないし、屋台店主らにも一部の人間以外には知らされていないようなのだ。3〜4人もの事務局員がいて、一体どんな仕事をしているのだろうか?(つづく)


■2011-01-29-Saturday マイヒストリー45

2004年9月2日から

世界ラリー選手権WRC(World Rally Championship)が十勝で開催された。

自動車は安全に走れば良いとしか考えていない私は、自動車レースのことには全く関心がない。以前(1998年3月19日)に、十勝環境ラボラトリーの公開講座に、ホンダF1チームの監督だった桜井淑敏さんをお招きした時も「誰?その人」と言ったくらいだし、その桜井さんが講演終了後に、「坂本君がモナコグランプリを観戦したいなら○万円で手配してやるぞ!」と言われたときも、「ヘェ〜そんなに高いんですか?興味ないから止めときます」とアッサリお断りしたのだが、自動車レースが大好きな友人が「○万円で観戦できるなら俺なら絶対に行ったのに、何故、俺に言ってくれなかったのだ!」と悔しがられたことがあったほどだ。だからWRCとF1の区別もつかなかったのである。

日本で初めてWRCのレースを、この十勝で開催すると言われても全然ピンとこなかった。どうせ大したレースじゃぁないだろうとしか思っていなかったのだ。

7月中旬頃から関係者の外人スタッフが何人も北の屋台を訪れてはいたが、まだまだ大したことはなかった。

その認識が変わったのは9月2日の開幕式であった。帯広市の駅前のメインストリートである平原通りに、朝から人がマットや椅子持参で場所取りをしている。開幕式は夕方からの開催なのにだ。近年の帯広市で開催される催しで一番人を集めているのは8月の13日に開催される勝毎花火大会だろうが、これは十勝川の河川敷で開催されるので人の混み様が異なるから比較はできない。だが、翌14・15日に平原通りで開催される盆踊りに集まる人に比ではないくらい大勢の人がいて歩道をまともに歩けない。しかも、ほとんどが十勝以外から来たラリーファンの人達だ。外人も大勢いる。海外の報道関係者も多数が来ていて、上空には取材のヘリコプターまでビルの真近に降りてきて撮影している。

8丁目の藤丸前の道路で、車やドライバーなどを1台ずつ紹介し、その紹介された車が駅前の12丁目まで走って、駅でUターンして、そのまま愛国の会場まで走っていく演出だ。

おそらく、帯広でこんなインターナショナルな催しものが開催されるのは初めてではなかろうか?

私も自分の認識の甘さに愕然としたのだった。

北の屋台は、このWRCの関係者達やメカニックの人達が、大会前から出入りしていた。屋台の風情が外人に受けたようなのである。北の屋台に外人が大勢固まって飲んでいるからか、フランスのテレビ局のレポーターが北の屋台にちょんまげのかつらをかぶって取材に来たりもしたほどだ。だが、外人はビール一杯で2時間以上ももたせるような飲み方をする。そんな外人に北の屋台を占拠されてしまうと、日本人観光客が入るスペースがなくなってしまうのだ。言葉の問題もあった。まともに英語を話せる人間がいないのだ。ペラペラなのは「順香(しゅんしゃん)」のママのかおりさんだけである。単語を並べるだけなら私でもなんとかなるかと思って助っ人に出たのだが、結局、私は何一つ役立たずに終わってしまったが、もう少し事前にメニューなどもキチンとした対応を考えておくべきであった。

一方、ラリーのファンの日本人はお金が無い人が多いようだ。北の屋台に来た客は500円玉一枚を差し出してこれで何か食べさせて欲しいというような若い客が多かった。宿泊先もホテルではなく、帯広市が急遽用意した帯広市体育館で寝泊まりしていると言う。普段から節制して金を貯めてラリーの観戦をしているのだそうだ。かわいそうになって、ご馳走してあげたのだった。(つづく)


■2011-01-30-Sunday 誕生日

昨日は私の53回目の誕生日。

夫婦二人きりだと祝う気にもならないものだ。

妻は氷まつりの手伝いで10時から出て行ってしまい。自宅には私一人だけ、久し振りにゆっくりと読書をする時間ができたが、もともと本を読むスピードは速い方だ。ヤフーオークションで落札した超常現象関係の本を読み始めたが、アッという間に2時間で4冊の本を読み終えてしまった。

昼食を食べに、一人で贔屓の「みどり」蕎麦屋に行ってもり蕎麦と天ぷら蕎麦を食べてから、長崎屋の本屋に新たに読む本を物色しに行ったが、面白そうな本が無かったので、週刊誌と伊予柑を買って帰宅した。

15時に妻から「氷まつり会場まで迎えに来いという」電話が入ったので迎えに行ったら、これから映画を見に行くという。今日は私の誕生日だから私のリクエストに従ってあげるというので16時20分からの「グリーンホーネット」にした。

私は映画は何も考えずに笑って観られる単純明快なものが好きなのである。観客は10名ほどしかいない。妻も最初は眠っていたようだ。すぐに起きてその後は面白いと観ていたが・・・。

子どもの頃に、ブルース・リーがカトー役で出ていたテレビ番組を見た記憶があるが、内容はまるで覚えていない。グリーン・ホーネットのコスチュームが緑色だというのを初めて知ったが、当時はまだ幼くてグリーンという英語が緑色なのだということも判らなかったし、第一、白黒放送であったからコスチュームの色までは判らなかったのだと納得した。

キャメロン・ディアスという女優は、あまり美人ではないが、結構売れている女優だなぁ〜と思って観ていた。前日にスマップの中居君が出ているテレビ番組で、先のM-1グランプリで準優勝したスリムクラブの前栄田というボケ役の方が、誰かに似てると言われないか?との質問に「自分で鏡を見ていたらキャメロン・ディアスに似てると思った!」と言って、彼の顔をアップで写していたが、確かに似ていた!思わずその光景を思い出し、キャメロン・ディアスが場面に登場したとたんに噴出してしまった。

映画を観終わった後に、今度は食事までご馳走してくれると言う。馴染みのイタリアンレストランのセンナリに行ったが、店は混んでいて私たち2人が坐ると満席になった。

美味しい料理を食べ終え、久し振りにカラオケにでも行くか?と誘ったのだが、今日は帰ると言う。疲れているのかと思ってタクシーで戻ったらまだ20時である。0時からサッカーを見なければならないのに、時間があり過ぎる。ついついコンピュータの前に坐って、ネットオークションをやりながら焼酎を飲み過ぎて具合が悪くなってしまった。

サッカーは前半戦を見たところで眠くなってしまい。1時には消灯して寝てしまい肝心の得点シーンは翌日の朝に見ただけであった。

何だか、変な誕生日の過ごし方であった。

今日は、また映画に行くと言う。今度は「相棒」である。去年の10月に雑誌「PRESIDENT MOOK]から「相棒」杉下右京に学ぶ「謎解きの発想術」という本が私の元に送られてきた。著者は勝見明さんという方で以前にプレジデント誌や、「イノベーションの作法 リーダーに学ぶ革新の人間学(野中郁次郎・勝見明共著)日本経済新聞出版社刊」という本の取材を受けたジャーナリストだ。その方が、この本の中で私の発想法と杉下右京の発想法について言及してくれているのである。是非とも観なければいけないと思っていた映画なのだ。

映画館は満席で、私たち二人はバラバラに分かれて坐ったのだった。この映画館が満席になるのを見たのは初めてである。「ガンツ」という映画も満席の札が掛かっていた。やはり人気のある映画は満席になるのだなぁ〜。私たち夫婦が観たいものと他の人が観たいものとが、なかなか合致しなかったのだろうなぁ。私は「相棒」はなかなか面白いと思ったが、妻は面白くなかったと言う。どうやら映画への感想も合わないようである。


■2011-01-31-Monday 寒〜い!

今朝はとても寒かった。

早朝犬の散歩で外に出たら、自宅の前なのに空気が凍ってキラキラと輝くダイヤモンドダスト現象が見られたのだ。

自宅近くのラブホテルや温泉などの排水が流れ込む下水のところから湯気が立ち上っているが、その水蒸気が凍ったのだろうか?快晴だから朝日に照らされて、とても綺麗にキラキラと空気中を漂いながら輝いていた。

我が家の愛犬バニーちゃんは御年15歳の黒のラブラドールレトリバーのメス犬である。人間なら100歳ぐらいになろうかというおばあちゃんである。去年の暮れに足腰が立たなくなって、もうダメかなぁと諦めたのだが、動物病院で注射してもらったら回復した。正月に動物病院が休院中にもしも具合が悪くなったら困るから薬を処方してもらっていたのだが、それを使うこともなく、食欲も旺盛で、いまだにピンピンしている。

しかし、今朝の寒さは犬にも厳しかったらしく、足裏の肉球が冷たいのか、散歩に出てオシッコをしたらすぐに自ら引き返してしまった。

今朝の気温は−16℃であった。やはり−15℃を超えると景色が変わる。

朝のワイドショーはサッカー一色だ。ザックジャパンになってから負け知らずだという。この世界は結果が全て、勝てば官軍である。

昨晩、温泉から帰ってテレビを点けたら「Mr.サンデー」という番組が映った。髪の毛を乾かしながら見るとはなしに聞いていたら「AKB48」を仕掛けた秋元康氏が大阪版の「NANBA48」とかいうのを新たに仕掛けているとの特集である。

このご仁は確か「おにゃんこクラブ」を仕掛けた人間ではなかったろうか?

メンバーには12歳の小学6年生もいる。皆、アイドルになりたいらしい。

メンバー同士で競争させているらしいが、コンセプトは「一人一人は大したことないが固まれば売れる」というらしい。らしい、らしいと書いたが、この手の芸能には全く興味がないので真剣に聞いていなかったから不確かなことを書いているかもしれないからだ。

日本の芸能界は幼い。まるでロリコン芸能だ。

こんな学芸会程度の踊りや歌を見て喜ぶ、未成熟でオタクッポイ青年たち、それをプロデュースして金儲けする厭らしい業界人たち。アイドルなんて使い古しにされるのがオチなのは過去の歴史を見たって分かりそうなもんだが、親がそれを後押ししている。

12歳からの大事な青春時代をこんなアホらしいことに費やすよりも、もっと人生を考えた方が良くはないか?

チヤホヤされたい、目立ちたい、注目されたいという自己顕示欲の表れか?この子たちの人生を喰い物にして金を稼ぐ、このプロデューサーは自己嫌悪に陥らないのだろうか?

どうやら日本は、政治も、メディアも今日の気温以上に、お寒いことになっているようである。