最新
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-11-01-Wednesday いやはや物騒だ

10月31日の午後に埼玉県蕨市の郵便局に

拳銃を持った男が押し入り人質を取って立て籠もったというニュース。

テレビで見たら、ジャージ姿のしょぼい老人が首からぶら下げた紐で結んだ拳銃を持って警察官を威嚇している様子が映った。

エッ、刃物というならば分るが、拳銃だって?

どうして、こんな老人が拳銃を所持しているのであろうか? ワイドショーでは元警察官というコメンテーターが「拳銃はトカレフだと思う。数十年以上前に、ロシアや中国から日本に大量に持ち込まれた拳銃の様だ」とコメントしていた。この老犯人は元暴力団ででもあったのであろうか?

ニュースでは、この立て籠もり事件の前に、郵便局近くの戸田中央病院というところで、病院の外から銃弾が撃ち込まれて、医者と患者が負傷する事件とアパートが燃える火災が起きていて、関連性があるのではと疑っていたが・・・

人質立てこもりの犯人は、みたところかなり高齢な老人であるし、たった一人なのであるから、犯人の体力的に言っても7~8時間程度で犯人を確保することができる事件であろうと思うのだが、犯人が所持している凶器が拳銃であるから、死傷者が出ないかが心配であったが・・・

午後9時20分頃に「犯人確保」の緊急ニュースが出た。

新聞の朝刊で、犯人の年齢を見てビックリした。ニュース映像で老人だなぁとは思ったが、まさか86歳だったとは驚きである。

こんな老人が何故に拳銃を所持していたのであろうか? コメンテーターが言うように元暴力団員で、ず~っと昔から所持し続けていたのであろうか?

確保された犯人を見ると、なんだか認知症みたいにも見えたがなぁ。

火災があったアパートは犯人の住居であったとのことであるから、自宅に放火して、病院の外から拳銃を撃ち込み、そこから郵便局に逃げて行って籠城したらしい。

凶器が拳銃ってのが怖いよなぁ~。流れ弾に当たる可能性があるから百メートル以上は離れていないと危険であろう。

なんとも物騒な世の中であるが、コロナ禍で困窮した人達が、これから年末にかけてもっともっと増えるであろう。想像を逞しくすると、老人ホームに入れない元暴力団員が、施設の代わりに刑務所に入ろうとしたのかもしれないなぁ~。

例年、年末には犯罪が多発するが、なんだか今年は凶悪な事件が増えそうな気がするなぁ


■2023-11-02-Thursday 帯広百年記念館

蒐集物などの整理しているところだが、

祖父の勝(かつ)が明治37(1904)年に池田町利別凋寒に創業した坂本勝玉堂(しょうぎょくどう)の十勝石の商品が出てきた。

十勝石で作った「印材」や、大きな十勝石の塊から四角い石に製材する際に出る周りの部分の端材をモッタイナイからと置物に加工した商品が大量に出てきたのである。

石を切るカッタ—で切った石の切断面を磨いただけのものだ。不定形であるし、切断面以外の部分はガタガタのままの石である。ただし、切断面は平らに綺麗に磨かれているので十勝石独特の模様などが出て、飾り物になると思ったのであろう。

しかし、本来は捨てる類のものである。結局は商品価値があまりなくて倉庫に眠らせていたのであろう。

その他には、十勝石の表札や灰皿なども出てきたが、製作過程で石が欠けてしまった不良品などである。

これはもう捨てるしかないかなと思ったのだが・・・

先日、知人にその話をしたら「十勝石が好きなんです。店に飾りたいから欲しいです」と言う。活用してくれるなら嬉しいことであるから、取りに来てくれるなら無料で差し上げると言ったのである。

その受け渡し日が今日の午前中であった。

帯広百年記念館の学芸員にも、こんなものがあるけれどと連絡を入れたら、館長さんと一緒に伺うとの返事である。

今朝は、先に百年記念館のお二人が来社した。

先日、北海道の情報雑誌「HOほ」に載っていましたね。との挨拶の話題から、昔の写真の話へと発展した。

ちょうど古い写真も整理していたところであったので、古いアルバムを見せたら「貴重な写真があるからお借りしてデータ化したい」と言う。

百年記念館には以前に、私が蒐集した古地図を額装したものを数点寄贈している。それと合わせて、今回「HOほ」に載った「坂本勝玉堂」の商品などと十勝石の商品などを一緒に展示したいと言う。

倉庫の中の十勝石の「印材」「風鎮」「指輪」「帯留め」「ネックレス」などの古い商品を展示してくれると言う。その他に「紙袋」「包装紙」「しおり」「シール」なども欲しいと言う。

「十勝石の名前を日本中に広めた坂本勝玉堂の展示コーナーを企画してみたい」と嬉しいことを言ってくれる。

それなら、まだまだ、調べれば色々なものが出てくると思うから、写真も探しておきますと返事したのであった。

我が家の歴史が、百年記念館で常設展示でもされるようになったら嬉しいなぁ~。

坂本家が池田利別の凋寒から帯広に移転したのが明治38(1905)年であるから、今年で118年になるので、もう百年記念館の展示物になる価値はあるかもしれない。


■2023-11-03-Friday イノベーションの作法

本棚を整理していたら面白い本が出てきた。

以前に私のことを書いてくれた本である。

この文庫本の前にハードカバー版を著者から贈呈されたが、この文庫版でもすでに14年も前の出版である。まだ絶版になっていないことを祈るが、その一部を以下に紹介する。文庫版でも83~105頁で私のことを紹介している。北の屋台のことは自分でも何度も書いているが、第三者が客観的に評価してくれて、これほど詳しく解説されたのは珍しい。

******************************

「イノベーションの作法」リーダーに学ぶ革新の人間学

常識の壁を打ち破るブレークスルーの「作法」

2009年12 月1日第一刷発行 日本経済新聞出版社(日経ビジネス文庫版) 野中郁次郎+勝見明 著

第2章 理想主義的プラグマティズムで実現力を磨く 

清濁あわせのむ政治力やマキャヴェリズムも駆使する

オリジナル屋台による地域活性化と世界初のクロマグロ完全養殖

どんなに理想が高くても、実現する力がなくては画餅に終わる。ここに紹介する二つの事例に共通するのは、共に高い理想を掲げ、不屈の信念で追及したが、何よりもその実現力に圧倒されることである。一方は、まちおこしのための組合であり、もう一方は、大学の水産研究所である。いずれも直接的には営利を目的としない組織だが、その業績はきわめて歴史的な意義を持つ。

詳しくは物語の中で述べるが、まちおこしの組合は、絶滅の運命にあった日本の屋台文化の命脈をつなぐ画期的な方法を編み出し、北国から全国に向けて地域活性化の手法を発信した。(中略)

その実現力において一方は、人間相手にときには清濁あわせのむ政治力やマキャヴェリ的な方法論を駆使して壁を突破した。(中略)

最初はまちづくりの話から取り上げる。北海道の地方都市のある夜の風景から入ろう。

【CASE3】北の起業広場協同組合(帯広)北の屋台・・・・83p

完全遵法なオリジナル屋台を開発し、中心街活性化に成功!

「絶滅種の業態」がマジック発想で蘇った!

イノベーションの物語③

幅11メートル、長さ50メートルの元駐車場に、まん中の通路を挟んで18軒の屋台がズラリ並ぶ。業種も色とりどりだ。北の大地の旬の味覚を供する店、おふくろの味、手打ちそば、串焼きなどの和食系から韓国、中華、イタリア、欧風、ブラジル料理と国際色も豊かだ。

10人も入れば満杯のどの店からも客の声があふれ、夜が更けても客足は途切れない。北海道十勝地方の中心、帯広の街の新名所、「北の屋台」の毎夜の光景だ。テレビなどマスコミでもたびたび紹介され、今や北の屋台目当てに訪れる観光客も多い。

北の屋台がオープンしたのは01年7月。一年目に帯広市の全人口に近い15万人以上が来店し、二億円を超す総売上高を記録して、幸先のよいスタートを切ると、その後は右肩上がりで伸び続け、4年目には来客数が18万人を超え、総売上高は約3億4000万円に達した。

駐車場時代(契約車両19台・賃料合計年間456万円)に比べ、集客力は9500倍に激増し、売上高は75倍に伸びた。

この間、「あしたの日本を創る協会ふるさとづくり賞・内閣総理大臣賞」「日本都市計画家協会賞・大賞」など、地域活性化に関わる数々の賞に輝いた。

北の屋台の最大の功績は、既存の屋台が法の規制により絶滅の危機に瀕している中で、あらゆる困難と障害を克服して完全遵法な十勝型オリジナル屋台を開発し、屋台村がまちづくりの核になりうることを立証したことだ。

全国各地から視察が絶えず、全国約30ヵ所で北の屋台をモデルとした試みが進められ、屋台村による地域活性化ブームの火付け役となった。ただ、帯広以外は成功に至らない例が少なくない。それはなぜか。

北の屋台では店はあえて間口3メートル×奥行き3.3メートルのわずか三坪という狭さにこだわった。それに対し、ある地域の屋台村は「広い方が儲かる」と考え、結局、普通の飲食店と変わらなくなってしまった。また、北の屋台では共同トイレに総事業費7500万円のうち900万円を投じるほど重要視したが、別の地域の屋台村は「隣のビルのトイレを使えばよい」「トイレが金を生むわけではない」と独自にはつくらず、早々に客足が途切れた。

「いずれも表面だけマネして、大切なものを何も見ていなかったのです」

こう話すのは北の屋台の発案者で、実施主体である北の起業広場協同組合の坂本和昭・専務理事だ。05年に内閣府、国土交通省などが主催する「観光カリスマ百選」に選定された。各地での講演は5年間で延べ200回を超え、ほぼ毎週講演に飛び回っているが、なかなか屋台についての本質的なものは伝わらないという。本人が話す。

「店が狭いと、お客には不便です。しかし、その不便さがお客同士のコミュニケーションを生む。一人で来たお客さんはたいてい一番奥の席になるため、トイレに立つにも声をかけなければなりません。そこから会話が始まる。不便だから互いに相手を思いやる心も生まれる。われわれが屋台で一番大切にしたのは、そうした人と人とのコミュニケーションでした。きれいで明るいトイレをつくったのも、若い女性たちにも気軽に屋台が生むコミュニケーションの輪に入ってもらいたいと考えたからです。もしお金のことだけを考えたら、維持経費もかさむ金食い虫のトイレのことなど、あまり考えなかったでしょう」

なぜ、坂本たちはこれほど「不便さが生むコミュニケーション」にこだわったのか。答えは北の屋台誕生に至る紆余曲折の物語にある。いくつかの時期に区切ってたどってみたい。

(つづく)


■2023-11-04-Saturday イノベーションの作法②

揺籃期~陳情型から自律型へ転換

話は90年代半ばから始まる。地域活性化のため、十勝の自然を活かした環境系の大学を新設することはできないか。最初は、地元の青年会議所で大学新設についての検討が進められた。企業や自治体の環境対策をマネジメントできる人材を養成する大学だ。父親の急逝を受けて三十代で貸しビル業の三代目を継いで間もない坂本がリーダーを務め、これと思う学者や専門家などを招いて熱心に勉強会を重ねた。しかし、当時は今ほど環境問題についての関心が高なく、地元の賛同を得られないまま、この計画は頓挫してしまった。

ならば、キャンパスが必要な大学ではなく、いろいろなプロジェクトを起こしながら地域に知恵とノウハウを蓄積していこう。坂本たちは支援してくれた学者らの産学のネットワークの協力を得て、「十勝環境ラボラトリー」と名づけた活動を始めた。エネルギー、自然、民俗、食などをテーマに21世紀型の新しいライフスタイルを見つけ出す九つのプロジェクトが発足した。

大手自動車メーカーや東北大学の協賛によるガソリン以外のエネルギーで走る自動車の研究、世界的な建築家石山修武・早稲田大学教授の設計による、目が見えても見えなくても同じ体験が出来る「十勝ヘレン・ケラー塔」の建設、アイヌの物語をアレンジした絵本の出版・著名料理家を招いた十勝オリジナル料理の創作・・・等々、ユニークで意欲的な取り組みが並んだが、坂本はその中で、地方都市における中心街のあり方を探る取り組みを担当した。

帯広もローカル線が廃止になって以降、車社会化が急速に進んで住宅街が郊外に広がり、そこに大手資本による大型店が進出、中心街は空洞化の問題を抱えていた。この中心街をもう一度活性化するにはどうすればいいのか。大手資本と同じ土俵で戦っても、自分たちにはとうてい勝ち目はない。坂本たちは発想を切り替えた。

街の中心部は車ではなく、人中心でありたい。車を一定地域から締めし、そこに店舗を集約して人々が安心安全に買い物などができる空間をつくり出す。まわりの駐車場との間は公共交通機関で結び、郊外の住宅街とも結ぶ。

いわゆるパーク&ライドとコンパクトシティ(都市インフラを街の中心に高密度化することで効率化と環境負荷減を図る)を組み合わせた構想を三年がかりでまとめ、市と商工会議所に提案した。しかし、100ページを超える大作のレポートは、「車中心の帯広でこんなことができるわけがない」と目の前でゴミ箱に捨てられた。坂本が話す。

「構想は受け入れられませんでした。しかし、われわれはこの活動を通じて、まちづくりで一番大切なのは、人と人とのコミュニケーションを取り戻すことであると学びました。同時に誰かに頼む陳情型では何も変わらないことも学習しました。自分たちの資金と行動力でまちづくりをやろう。苦い経験が逆に気づかせてくれたのです」

そのころ、帯広がTMO(タウンマネジメントオーガニゼーション=中心街活性化に取り組む機関。国から補助金が出る)に認定され、坂本は作業部会の委員に選ばれた。しかし、会合が開かれたのは年二回。一般市民の委員が発言できるのは一人せいぜい一分くらいで、意見が採り入れられることなく、コンサルタントの意見がそのまま通ってしまう。運営への不満と無

力感が、他力本願から脱した自律志向へと拍車をかけた。

坂本は他の市民団体などにも呼びかけ、「まちづくり・ひとづくり交流会」を発足させた。

99年2月のことだ。問題は自分たちでどれだけ資金を用意できるかだった。メンバーは40名。医者も経営者もいたが、学生が出せる上限の一万円ずつ、同じ額を出し合った。合計40万円で何ができるか。ここで、屋台の案が浮かび上がった。

かつては生活の場だった駅前通りは、今は通行だけの場所になってしまった。そこに屋台を置き、流れによどみをつくれば、触れ合いが生まれるのではないか。屋台なら自分たちでもつくれそうだし、店主は交替で務めればいい・・・初めは獏とした思いを抱いていたメンバーたちが確信を持つに至ったのは、外国の屋台を見たことだった。

その年はたまたま海外旅行に出かけるメンバーが多くいたため、ついでに自費で視察をしてくることにした。アメリカ、台湾、韓国、シンガポール、ベトナム・・・行く先々で屋台の盛況ぶりに目を見張った。そして、そのほとんどが共通して三坪前後の広さであり、それが店主一人でも接客を可能にし、屋台独特の雰囲気を醸し出し、客の心をつかんでいることに気づいた。

それぞれ撮ってきた写真は合計800枚にも上がった。屋台関係の資料がほとんどない中で、手づくりした「世界の屋台写真資料集」はメンバーたちの努力と意欲の結晶だった。これが北海道経済産業局で市街地活性化に関わっていた担当者の目に留まり、活動が評価され、その斡旋で中小企業団体中央会から600万円の補助金が支給されることになった。

99年10月、軍資金を得たメンバーたちはいよいよ、日本国内の屋台の七割以上が集中する博多へと視察に出発した。ところが、そこで厳しい現実を知ることになる。

(つづく)


■2023-11-05-Sunday イノベーションの作法③

跳躍期~落胆の底から革新的発想へ

「博多では屋台はあと20年もしたら消える運命です」

約200軒の屋台を四班に分かれてすべて回り、歓迎ぶりに感激したメンバーたちは翌朝、市役所の担当者の言葉に衝撃を受けた。現存の屋台は現営業者一代限りと決められ、新規参入はいっさい認められていないという。「屋台でまちづくりなど無理です」と担当者の言葉は冷ややかだった。坂本が話す。

「もし、博多だけしか見なかったら、ここで諦めたでしょう。幸いだったのは、先に海外を見ていたことです。どの国でも屋台は活気を帯びていた。日本で既存の屋台がダメなら、21世紀型の屋台を十勝で生み出し、全国に広げよう。帰りのバスの中でみなで決めました」

帯広に戻り、警察署を訪ねると「祭礼などを除き、道路上での屋台は認められない」という。ならば、空き地はどうか。帯広の街は東西南北に格子状につくられていて、空洞化により、通りから隣の通りへと通リ抜けができる広い空き地がいくつもあった。これを道路のように使ってはどうだろうか。もう一度、警察に行き、聞いてみると、「民有地なら一切関知しない」と二回目でクリアできた。

難関は保健所の方だった。「食品衛生法上、民有地であっても屋台は一週間程度の臨時営業しか認めない」と行く手をさえぎられた。坂本たちは、考えるあらゆる案を持っていった。

博多を視察した帰りに「屋台通りがある」と聞いて寄った呉で見た方式をヒントにした案を考えたときは、自信満々で保健所に出かけた。空き地に上下水道と電気コンセントをセットにしたユニットを台数分設置し、冷蔵庫や流し台などの厨房機器を積み込んだ改造車をユニットと組み合わせる方法だ。しかし、担当者の返答は「車にはタイヤがついているので動く。動くものは屋台扱いになる。したがって、結論は同じである」と何の進展もしなかった。

一ヶ所での屋台の営業許可が一週間しかとれないなら、民有地を四ヵ所借り、一週間単位で移動して、一ヶ月経ったら元の場所に戻ってくるのはどうか。奇策を持っていくと、「今のあなた方にそれだけの資金力があるのですか」と失笑を買った。

十数回通っても、「同じ場所で継続的に営業するには設備の整った固定店舗が必要」とはね返され、法の壁を突き崩せなかった。

「もう一度原点に戻ろう」

行き詰った坂本は博多を再訪し、細部まで徹底して取材し直した。そして、先入観が発想の邪魔をしていたことに気づいた。屋台は“動くもの”と思い込んでいたが、博多の屋台は近くの月極駐車場から毎日、リヤカーで運んで組み立てると、指定の営業場所から1センチたりとも動くことを許されない。“仮設店舗”だった。ならば、初めから保管場所と営業場所を同じにすればいいではないか。屋台を集団化して駐車場を借り切り、上下水道、電気、ガスを引いて、食品衛生法上必要な設備を整えた小さな厨房を固定化してはどうか。

飛んで帰ると坂本は模型を手づくりし、保健所に駆け込んだ。担当者は食品衛生法の本を何度もめくりながら「厨房の大きさには規定がなく、飲食店と認めざるをえない」と眉間にしわを寄せていった。客席にも特に規定はない。ここに、固定式厨房と組立式屋台(客席部分)を融合させた日本で唯一の完全遵法な屋台のアイデアが生まれた。

飲食店である以上、新規参入は自由だ。屋台を集団化すればシナジーも期待できる。加えて予想もしない利点もあった。既存の屋台では、食べる直前に熱処理した熱い料理しか出せなかったが、メニューの制約もなくなり、刺身も生野菜も出せるようになった。

ちなみに、固定式と移動式を融合させるアイデアのきっかけになったのは、坂本の子どもが遊んでいた合体ロボットだった。自動車と自動車をつなぎ合わせるとロボットになる。合体させると機能が変わることに面白さを感じていたときに博多を再訪し、思い込みが排除されて「コロンブスの卵」(坂本)が生まれたのだった。

最初の博多視察からわずか一ヵ月、その集中ぶりに驚かされる。

(つづく)


■2023-11-06-Monday 論壇「コスパ!?」

2023年11月6日(月)十勝毎日新聞「論壇」掲載記事

「コスパ!?」

「コスパ」とか「タイパ」という言葉がやたらと耳に入って来る。何のことかと調べてみたら「コストパフォーマンス」と「タイムパフォーマンス」の略語であった。

コストパフォーマンスなら、私も経営者のハシクレであるから昔から使っている言葉だ。以前にとある審議会で私が「イニシャルコスト」「ランニングコスト」「コストパフォーマンス」という言葉を連発した際に、市民参加者から「専門用語を使われるとわれわれにはチンプンカンプン。分かりやすいように日本語で話してください」との注意を受けたことを思い出した。

「コスト」とは「費用」で、「イニシャルコスト」とは初期費用とか導入費用と訳し「事業を始める際に掛かる費用」のこと。「ランニングコスト」とは運転費用あるいは維持費用と訳し「何かを維持するために定期的にかかる費用」のこと。「コストパフォーマンス」は「費用対効果」と訳し「投入した費用に対して得られる価値やメリット」のことである。

これらの用語は経済用語で、経営者として普段から使っていたから、世間でも一般的に使用されているものだと思い込んでいた。当時は経営者らが使用する言葉であったわけだ。それがいつのまにか経営者ではない若者らが略語にして普通に使う世の中になったのだということに驚いた。

もう一方の「タイパ」という言葉は初耳だった。おそらく造語だと思うが「コスパ」が「費用対効果」の略語だから「タイパ」は「時間対効果」とでも訳し「費やす時間に対して得られる効果や満足度」との意味らしい。最近の若者はドラマや映画を早送りして見たりすることも「タイパが良い」と思っているようだ。テレビなどでは味わえない「生」の芸能を鑑賞することが大好きな私には驚愕以外のなにものでもない。芸事の上手下手は「間(ま)」に負うところが大きく、「間」が取れない人のことを「間抜け」と言った。早送りでは肝心の「間」が判らない。

愛読書にミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店刊)がある。「灰色の男たち」によって時間を奪われていく住人たちのことを「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしていることには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。」と書かれている。まさに現代人のことではないのか?


■2023-11-07-Tuesday イノベーションの作法④

雌伏期~戦略的広報活動でときを待つ

ようやく法律の壁は突破した。しかし、坂本はここで事業化を急がなかった。実はもう一つ壁が残っていた。内なる障壁、地元商店街だった。

「十勝で屋台? バカじゃないのか」

地元の人々は、屋台は南国のものという思い込みにとらわれ、提案をはなから受けつけなかった。「屋台は暑さと雨が大敵で本当は冬の風物詩だ」という博多の屋台組合長の話や、博多と帯広の気象データを比べると、帯広の方が晴天が多く、夏も夜は涼しいので一年中適していることを示しても、聞く耳を持たなかった。坂本が話す。

「人は理論だけではなかなか納得してくれません。屋台を集団で営業するには専属の出店者が必要でしたが、そんな状態ではとても集まるとは思えませんでした。強行すれば必ず失敗する。われわれの目標はあくまでもまちづくりにあり、人と人とのコミュニケーションを図ることにありました。地元を巻き込み、屋台をやりたい人をたくさん集めるには、情報公開と宣伝しかない。一年間は徹底的にPR活動にあてようと考えたのです」

翌2000年2月、実施母体の組合を設立すると、ホームページを開設。世界各国の屋台の写真をパネルにはり、毎週、人の集まる市内各所で展示会を行った。屋台のデザインを募集し、お祭りのときに一般投票で審査した。仙台の名物屋台の店主を呼び、屋台の模型を使って飲食しながらトークするユニークなシンポジウムも企画した。

「寒さ体感実験」も二回行い、真冬は気温がマイナス20度にもなる帯広でも屋台のまわりに冬囲いをすれば、厨房の熱が循環して客席もほどよく暖まることを、実物大模型をつくって地元の人々の前で実証した。

肝心の駐車場探しも参加者を公募し、いくつものグループに分け、最適地を見つけるナイトツアーとしてイベント化した。注目すべきは、これらすべての活動について地元新聞を巻き込み、三日に一度は紙面に載る目標を立て、それを実現したことだった。

特に場所探しについては、最適な場所として絞り込んだ駐車場の地主と契約内容の交渉に入る前に、新聞で第一候補地として検討に入った旨を掲載してもらった。事前に大量の情報が公開されたことで市民の注目が集まり、地主としても協力せざるをえない状況が生まれた。巧みな情報戦だった。

一年後、オープンに向けた出店説明会には116名もの希望者が集まった。市民の期待感と参加意識を高める戦略的広報活動は見事に的中した。

その後、設計段階では、「同一敷地内には同じ用途の建物は一棟しか建てられない」という建築基準法がネックになった。これも、屋根がつながっていれば一棟とみなすという法の抜け道を見つけ、屋根はひとつながりだが、見かけ上はそれぞれ独立した屋台が並んでいるように見えるデザインで問題を解決した。この間、研究者肌でもある坂本は文献を漁り、屋台の起源や歴史を調べ上げて、本を出版するほど“屋台学”を究めた。

屋台の発案から二年半経った01年7月29日、北の屋台は、ついに誕生の日を迎えた。人気の沸騰ぶりは前述したとおりだ。

(つづく)


■2023-11-08-Wednesday イノベーションの作法⑤

開花期~巧みな運営で成長軌道へ

オープン当初から、観光客、出張族、そして、地元の人々が押しかけ、予想をはるかに超える大ヒットを記録した。

店主たちは夕方出勤すると、厨房横の収納庫から客席部分を引き出し、組み立てる。客席まで固定式にしなかったのは、あくまでも「屋台」であることへのこだわりからだ。店主にとっては不便だが、逆に効果があった。

開店前に屋台を組み立て、閉店後はまた収納するのは面倒だ。できればやりたくない。だから、隣同士、お向かいさん同士で手伝い合う。屋台の不便さが店主同士のコミュニケーションも生んだのだ。北の屋台をモデルにした屋台村の多くは客席も全部建て込みにしたため、隣がいつ来て、何をしているかわからない。横の結びつきでは大きな違いが生じた。

不便さが人と人とのコミュニケーションを生む。一貫したコンセプトが、北の屋台の成長を支えている。

*    *    *    *    *

絶滅を待つだけだった既存の屋台と、新たな可能性を見つけた北の屋台はどこが違ったのか。学生時代、プロのマジシャンを目指したこともあり、マジックでは玄人はだしの一面も持つ坂本は、こんな喩えをする。

「マジックは現実にはありえないと思われることを目の前に見せて、お客を感動させます。ただ、不思議に見えるものにもタネがあります。お客から見て見え方は一つでも、演じる方のタネはいくつもある。一つのものを目指すとき、途中で無理だと諦めるか、それとも、諦めずにこの方法がダメなら、また別の方法を探そうと実現できるまで考え続けるか、その意味では、北の屋台もついにタネを探し出した一つのマジックなのです」

北の屋台では出店者とは三年契約で、固定客とノウハウを十分に身につけた店主は卒業し、近くの空き店舗に移っていく。すでに一軒が巣立った。資金のない若手に屋台を提供し、賃金を保証して一年後に正規出店者として独立させる「起業塾」からも二人の経営者が育った。

従来、十勝産の新鮮で良質な農産物はもっぱら東京に送られ、地元住民が味わう機会は少なかった。それが、北の屋台の誕生以来、農家が自分の畑の野菜を持ち込み、自らも客になって自慢話を語るようになった。評判が評判を呼んで、坂本たちのねらいどおり、客の七割は地元客が占める。地元の味に感動した地元の客が次は遠来の客に十勝の自慢話をする。

十勝産を十勝で食べる「地産地消」と地元住民の「十勝自慢」。空洞化していた街にダイナミックな動きが芽生え始めた。これまではありえなかったことを次々目の前に見せる北の屋台マジック。新たな感動は、まだ続きそうだ。

(つづく)


■2023-11-09-Thursday イノベーションの作法⑥

イノベーションの物語から何を学ぶか③

理想主義的プラグマティズムの要諦①

善悪の判断基準を明確に持つ

この章の第一の目的は、第1章でイノベーターの行動原理として挙げた理想主義的プラグマティズム、すなわち、理想を追求しながら、同時に現実的な対応や現実への目配りを忘れず、目指すものを具体化していくというイノベーターの実現力をより詳しく検証することにある。

このケースの主人公である坂本氏にも、理想主義的プラグマティズムの典型を見ることができる。

坂本氏は、まちづくりの理想を徹底的に追求している。こんなエピソードがある。あるとき、北の屋台の盛況ぶりを見た食品会社から「北の屋台ブランドの商品を開発して販売しないか」と企画を持ちかけられた。土産品にもなり、知名度も上がり、ライセンス料など大きな収入が期待できるので、通常なら乗る話だろう。坂本氏自身、本業の貸しビル業ではビル内で土産物店も経営している。

しかし、坂本氏は、「北の屋台ブランドの商品を売り出すのは大量生産大量消費の文化である。一方、屋台は店主の個性が一番重要な要素であって“人”がすべてであり、けっして規格化、標準化できるものではないからそぐわない」として断っている。ここに、表面だけをマネして失敗した他の屋台村との決定的な違いがよく表れている。

坂本氏が徹底して理想を追求するのは「何がよいことなのか(What is good?)」という善悪の判断基準を明確に持っているからである。真・善・美の価値基準といってもいいだろう。

失敗した他の屋台村は、客席が多い方が客が入るだろうと屋台の本質を理解せずに店を拡大したり、収益とは直接結びつかないトイレへの投資を惜しんだりと、理念なき金儲け主義が先行した。

これに対し、坂本氏はまちづくりという公共善を志向し、人と人とのコミュニケーションが何より重要であるという価値軸が一貫して揺るがなかった。北の屋台の成功に至る経緯を見ると、善悪の明確な判断基準があらゆるプロセスを下支えしていたことがわかる。

北の屋台では出店者とは三年契約であり、第一期が終わって四年目に入る際、坂本氏は何軒かの屋台と契約を打ち切っている。実は第一期では、個人だけでなく、企業の参加もあった。

企業が経営する屋台は社員が店主として派遣された。個人経営者と比べ、当事者意識が希薄になり、顧客とのコミュニケーションの取り方にも不十分な傾向が見られた。これでは一緒にチームを組むことは難しいと判断し、契約を打ち切ったのである。ここにも、明確な判断基準が垣間見える。

このようにイノベーターは何よりも不屈の信念で理想を追求する理想主義者でなければならない。これは最も基本の原則である。

(つづく)


■2023-11-10-Friday イノベーションの作法⑦

理想主義的プラグマティズムの要諦②

「何がよいことなのか」はっきりするとミクロの直観力がつく

善悪の判断基準力はイノベーターに求められるあらゆる能力を根底で下支えする。例えば、「何がよいことなのか」が明確であるとミクロの直観力が鍛えられる。

坂本氏も海外で屋台のある現場を見て歩き、屋台は世界中どこでも平均三坪の広さであり、その狭さがコミュニケーションを生むという本質を直観的に見抜いた。

実は当初、屋台のアイデアが交流会のメンバーから出た時点では、「あまり乗り気ではなかった」。それが現場に行き、屋台の可能性を直観したのは、「人中心のまちづくりを目指すには人と人とのコミュニケーションを取り戻さなければならない」という強い問題意識があったからだ。

人は問題意識が明確であるほど、見えないものが見えるようになる。その問題意識を生み出すのは、脳裏から消えることのない「よいこと」を追求する思いにほかならない。

北の屋台では厨房部分は固定式だが、客席部分は組立式になっており、毎日、出し入れをしなければならない。固定しなかったのもワクワク感やドキドキ感の直観によると坂本氏はこう話す。

「人間はあまりに完全なものより、どこか少し不健全であったり、猥雑さのあるものにあやしげな魅力を感じてワクワクドキドキします。屋台も同じで、昼間は何もないところに夜忽然と店が現れる。その非日常性に引かれ、高揚感を覚える。客席部分を組立式にしたのは、あくまでも屋台の仮設性を残して、非日常性を演出したかったからです」

一方、北の屋台をマネしたところは、リーダーが不在なまま、「店の設計はプロに任せよう」ということになり、設計のプロは「客席も固定式にして広い方が便利だろう」と考え、結果、屋台でなくなり、客は何のワクワクドキドキもしなくなってしまった。「何がよいことなのか」が明確であると、「不健全さ」「猥雑さ」の価値が見えてくるのである。

このように北の屋台では、屋台の本質をつかんだことで、屋台村によるまちづくりが正当化され、強い説得力が生まれ、その後、立ちはだかった数々の壁を突破することができた。他方、北の屋台の表面だけをマネして失敗した他の地域には、善悪の明確な判断基準がなかったため、本質が見えなかった。この違いはきわめて教訓的である。

(つづく)


■2023-11-11-Saturday イノベーションの作法⑧

理想主義的プラグマティズムの要諦③

「よいこと」を実現するためには手段を選ばず

理想を追求しながら、その一方では現実の状況に対しても的確に対応し、目指すものを必ず実現する。坂本氏の場合、もう一つ目を見張るのが、ときとしてリアリズムに徹する実現力である。

法律の壁に突き当たれば、行政担当者に対してしつこいまでにネゴシエーションを重ねながら、法律のグレーゾーンを巧みについていく。法律は本来は公共善のためにあり、グレーゾーンは善とは対極にある目的で利用されることが多く、それを「法の抜け道」と呼んだりする。

しかし、法律が本来の精神と離れ、きわめて官僚的で硬直的に運用された場合、逆にグレーゾーンをついて、非合法なものを合法化させる。法の改正という正攻法をとった日には、いつ屋台が合法化されるかわからないような状況においては、徹底して現実的な対応をとる。右手でビジョンを掲げつつ、左手で法律の抜け道を探るところにイノベーターの真骨頂がある。

また、屋台村によるまちづくりについて地元を説得する際、「理論だけではなかなか納得してくれない」と現実を直視してことを急がず、一年間を広報活動にあてるという戦略的な判断を行っている。本来なら「客観報道」を原則とするマスコミを取り込み、ある意味、意図的に利用しながら世論をじっくりと喚起していった手腕は特筆すべきである。

特に駐車場の地主との交渉は、固定施設を設置するとなると権利関係も絡み、そう簡単ではないことは、自身不動産業を経営している坂本氏は十分予想できたはずだ。そこで場所探しをイベント化し、一般参加者を募って話題性を高め、マスコミを動員してあえて情報をオープンにすることで世論を味方につけ、それを一種の錦の御旗にして、地主との交渉に臨み、契約へとこぎつけるという巧みな戦術には感服するばかりである。

これは物語では述べられていないが、中小企業団体中央会から600万円の補助金を支給される際、任意団体である「まちづくり・人づくり交流会」では支給対象から外れるため、坂本氏は最初、地元商店街の振興組合連合会や商工会議所に形だけ受け皿になってくれるよう要請した。しかし、屋台についての理解が得られず、摂り付く島もなく門前払いを食わされた。

ほかに頼める組織はない。ここで諦めたら流れが止まる可能性がある。坂本氏は商工会議所の副会頭を直接自宅へ訪ねて事情を訴え、賛同をとりつけることで状況を一転させた。軍資金が当初の一人一万円計四十万円から三ヵ月後には600万円とゼロを一つ増やすことができた要因として“ボス交”による副会頭からの根回しで壁を突破できたことも見逃せない。

「よいこと」を実現するためには、清濁あわせのむ政治力や、いい意味で手段を選ばないマキアヴェリ的知恵も駆使するイノベーターの行動原理をここに見ることができるだろう。

(つづく)


■2023-11-12-Sunday イノベーションの作法⑨

理想主義的プラグマティズムの要諦④ (102頁)

人の本質がわかる人間は目的実現のシナリオが書ける

こうした行動原理がヒットを生み出した例は数多くある。例えば、ヤマハのヒット商品に「光るギター」という電子ギターがある。(以下略)

実践的知恵の醸成⑦ (341頁)

「ライオン」の力と「キツネ」の知略を持つ

強い思いを持って現場に行き、見えない本質や真実をつかみ、直観的に新しい仮説を浮かべ、それを言語化し、形式知して、説得する。ここから真に実践的な〈知恵〉を身につけるためには、第三のステップとしてもう一つ試金石がある。

物語を語り、相手を説得するときには、対話を通して全身全霊をかけて自らの思いをぶつけながら、自分なりの論理も駆使しなければならない。しかし、新しい仮説だけに、それでもなお説得が難しい場合も少なくない。

マツダ・初代ロードスター、サントリー・伊右衛門、北の屋台の事例などは、その典型だろう。(中略)

北の屋台の仕掛け人である坂本氏は、広さわずか三坪という不便さに屋台の本質を見抜き、「人と人とのコミュニケーションを取り戻す」というまちづくり構想の中にしっかりと位置づけた。しかし、地元帯広の人々は、「帯広の冬は極寒→屋台は暑い地方のもの→帯広には向かない」「屋台は地味→まちおこしにならない」という考え方に縛られ、当初は受け入れなかった。

新たな未来を創造するには既存の論理の鎖の延長上ではなく、新しい仮説を創出して一つ次元が上の出発点を生み出す必要があるが、いくら物語を語り、新たな論理の出発点を示しても、既存の論理の鎖に縛られている人々にはなかなか通じない。俗にいう、「言葉が通じない」とはこのことだろう。

このギャップを突破するには、目指すものを実現するため、どれだけ理想主義的プラグマティズムを実践できるかどうかにかかっている。すなわち、マキアヴェリ的な清濁あわせのむ政治力や方法論を駆使できるかどうか。これが第三のステップである。(中略)

北の屋台の仕掛け人坂本氏は、屋台村によるまちづくりという構想に地元の理解が得られていないと見るや、一年間は情報宣伝活動に徹する作戦をとり、その過程で、本来、偏りのない客観報道を原則とする新聞媒体を巻き込んで、意図的かつ徹底的に「利用し」、地元市民の関心を高めた。特に設置場所の駐車場探しでは、候補地を報道に載せることで、地主も協力せざるをえない状況をつくっていった。はたして、これらイノベーターたちの政治力や手練手管は非難されるべきか。(中略)

北の屋台の坂本氏の場合、警察や保健所などの行政や法規制を恐れることなく果敢に行動に出ながら、法律の抜け道を見つけて壁を突破すると、次は遠回りの道も苦にせず、チャンスの到来と見ると打って出た。

論理や言葉での説得が難しい場合、状況に応じて、マキアヴェリ的な方法や戦術も駆使して、目的を実践していく。大切なのは、この経験を繰り返し、思考と行動のクセをつけることである。〈知識〉がどんどん〈知恵〉化し、血肉化されていけば、ここぞというときに、勝負に出る勝負師のカンも磨かれていくことだろう。

(おわり)

**********************************

以上、9回に亘って転載したが、368頁もの文庫本版では、「マツダ」「サントリー」「近畿大学水産研究所」「新横浜ラーメン博物館」「KDDI」「シャープ」「ソニー」「NTT」「サッポロビール」「トヨタ」「アルビレックス新潟」など等、日本が世界に誇る錚々たる企業の中に、北海道の一地方都市帯広の「北の屋台」が取り上げられたことは驚きであった。

私が自分で書いたのではなく、赤の他人である学者とライターがわざわざ帯広まで取材に来て協働で執筆してくれたのだ。しかも、北の屋台というよりも坂本和昭個人のことを面映ゆくなるほど持ち上げてもらった文章である。改めて読み返してみると赤面ものであるが嬉しいことでもあった。


■2023-11-13-Monday 真実か?虚実か?

いやはや・・・

もうこの世の中、何が本物で、何が偽物なのか、まったく分からなくなっている。

写真やビデオの映像証拠でさえ、修正や編集が素人でも簡単に出来る時代になってしまった。

先日ニュースになった岸田首相のフェイク映像も生成AIによるフェイク映像だった。

もうこうなると、今、世界を騒がせているイスラエルとハマスのそれぞれが発表する相手を非難する映像も、いったいどちらが真実なのか、ニセモノなのか、我々には全く判断がつかない。

かつては、録音テープや写真が動かぬ証拠であった時代があった。

そして、ごく最近ならば、ビデオ映像が動かぬ証拠であった。

それらが、ド素人が簡単に入手出来るソフトによって、

写真やスマホの映像などを簡単に加工や編集出来る様になって、誰でも簡単に音声や写真や映像を加工、修正、編集やらが出来てしまう世の中になってしまった。

少し前なら、自分の顔写真の目だけを大きく修正した不自然な写真が、テレビのニュース報道でも、犯人の顔写真だとして出された時に、そのような明らかに修正したであろうことがハッキリ分かる写真が出て来て笑ったことがあったが、今や、ソフトで顔の見た目の年齢を若く加工したり、年寄りに加工したり、果ては性別まで変化させるソフトが出回っている。YouTubeでその顔の変化を見せる一般人まで大勢居るようになった。

いったい我々はこれから何を信じたら良いのであろうか?

面白可笑しく加工している分には、楽しいのかもしれないが、それが犯罪の証明やら、それらの裁判などの証拠として有効か否かなんてことになったら、それこそいったいどんな世の中になってしまうのか見当もつかないなぁ~。

それなのに、世の中はそれらの技術を益々発展させる方向に進んでいる様に感じる。

私の趣味は不思議を見せるマジックである。

マジックは不思議なことをやって見せて観客を楽しませる芸能だと思っていたが・・・

もはや、画面を通しては、マジックの不思議さは一般の人々には通じない世の中になってしまったのかもしれない。

眼の前で直接見せる以外にマジックが生き延びる術はもうないのかもしれない。でも逆にそれは喜ばしいことだと歓迎もするが・・・

テレビ画面での不思議さが「サクラ」やフェイクかもしれないと思う人たちが増えたのならば、逆に生の眼の前で演じるマジックの「不思議さ」との差が表現し易くなるのかもしれないなぁ~とも思い始めている。

さてさて、これからいったいどんな世の中になっていくのであろうかなぁ~?


■2023-11-14-Tuesday 詐欺?

最近の新聞を読むと・・・

北海道でも、各地で特殊詐欺みたいな事件の報道がされている。十勝管内でも

老若男女が詐欺の被害に遭って、数百万円~数千万円まで騙し取られているみたいである。

私のPCに入れて使用している「Outlook」という通信ソフトに毎日、数十件の「迷惑メール」が入って来る。

車に搭載してもいない「ETC」の料金の件、帯広には支店すらない「銀行」の口座、所持してもいない「カード会社」のモノ、「国税局」を名乗るモノからの税金滞納の通知、外国人名からのモノなどが、毎日毎日数十件、しかも、同じ文面のモノが複数入ってくる。毎朝、この迷惑メールを削除することから一日が始まる。

もしも間違って開いてしまったら、どうなるのであろうか?

迷惑メールの中にも、万が一本物が混じっていたらと思って心配になることもある。

詐欺に引っ掛かってしまう人たちの中には、この種の判断が難しい(迷惑もしくは詐欺)メールを開くことによって巧みに誘導されてしまったのであろうなぁ。

マジシャンも裸足で逃げ出すやり方である。

今の世の中、いったい何を信じて生きていったら良いのであろうか?


■2023-11-15-Wednesday 不思議本の重複

私は小学生の頃から「不思議」なことに興味深々であった。

加えて、大の読書好きなものだから、その関係の書籍を読み漁ったし、蒐集もしてきた。

私が蒐集した不思議関係の書籍類(超常現象、超能力、UFO、UMA、魔法、妖怪など)1万6千冊は、昨年11月にルスツ・リゾートにマジック・ミュージアムの収蔵品の内のひとつとして寄贈したのだが・・・。

2007年から、私がマジック・ミュージアムを造り始めたことで、全国各地の同好の士から、マジック関係だけに限らず、不思議関係の書籍類の寄贈も受けていたのだ。

しかし、当然のことながら、私が既に所有していた書籍とかなりな部分で重複することになった。

ルスツ・リゾートに寄贈した書籍と重複する書籍は、誰か他の同好の士に差し上げようと坂本ビルの書庫に保存しておいたのであるが・・・。

隠居するにともなって、それらの書籍類も整理することになったのである。

しかし、重複する書籍も、その量は膨大なものになる。

「ムー」「トワイライトゾーン」「「マヤ」「ワンダーライフ」「AZ アズ」「UFOと宇宙」「パワースペース」「ゴッドマガジン」「不可思議」など等、既に廃盤になっている雑誌ばかりが重複しているのである。

その他にも、大陸書房の本や大道芸関係や魔法使い関係の書籍の重複も多い。

さてさて、こんなことに興味を持っている人で読書が好きな人で、もらってくれる人はいるのであろうか?

今となっては、結構貴重な本だと思うのであるが・・・。

捨てるのは簡単なことなのだが、捨てるのは忍びないしなぁ~・・・。


■2023-11-16-Thursday ポイントカード

帯広の有名菓子店の本店に行った。

昼食を外食で済ませた食後に、よくケーキとコーヒーをデザートとして楽しむのである。

支払いをするときに、この店のポイントカードを出したら「ポイントカードのシステムが変わります。カードを廃止して、今後はスマホでLINEのともだち登録を・・・」云々と説明されたのである。

私は、いまだにスマホが使いこなせていない根っからのアナログ人間であるから、チンプンカンプンなので妻に任せた。

まぁ、財布の中に、色々な店のポイントカードを複数枚入れてあるから、お札よりもポイントカードの方が量が多くて困っていたので、ポイントカードをいちいち持ち歩かなくて良いならそれも良いかなと思う。

立食でデザートを食べるついでに、店員さんの説明を聞きながら、何やらスマホを操作をしている。設定が完了したと言うので、私はよく理解しないまま、店を出た。

翌日に、市内のショッピングセンター内のその菓子店の支店に出向いた。昨日のスマホのポイントで、クリスマスケーキを予約してみようということになったのである。

やり方を店員さんに教わりながら、クリスマスケーキの予約をしたのだが、妻のスマホからはポイントが引き落とされない。

私のスマホの方で確認してみると、私のスマホのポイントが引き落とされている。

確か、昨日の本店での説明では、妻と私のどちらでも同じ画面を共有出来ると聞いたはずなのに・・・。この支店の店員さんの説明では、そうはならないのだと言う。

まだこのシステムを2~3日前から始めたばかりのようで、店員さんもよく分かっていないみたいなのである。

まぁ、どちらでも良いのであるが・・・

今の世の中、便利なようでも、何だか不便に感じるなぁ~。

でも、まだスマホを持っていないお客さんもいるだろうから、そういうお客さんはどうするのであろうかなぁ?

そのままポイントカードでもOKならば、私はそっちの方が良かったかもしれないなぁ。


■2023-11-17-Friday 大嵐

スゴイ強風と大雨である。

天井から雨漏りが起きてしまった。たま~に、強風と大雨の時に雨漏りがする。

飾ってあった写真立ての上から雨漏りしたものだから、写真が濡れてフニャフニャになってしまった。被害はそんな程度であったが、まだ天井の梁の部分からポタポタと雨漏りがしている。

以前に大工さんに見てもらったところ、屋根のトタンの立上がり部分と二階の壁とのわずかな隙間から、強風に拠って吹き付けられた雨が染み込んで来るのだと言う。隙間にシリコンを打って直ったかに思っていたのであるが、シリコンが劣化してまた隙間が出来たのであろうか?

何度かメンテナンスはやっているのであるが・・・、なにせ、昭和42年に父が建てた古い家であるからなぁ~。

それにしても、すごい強風と大雨であった。もしも、気温が低くて雪にでもなっていたら、40~50㎝は積もったくらいの大雪になっていたかもしれない。まだ雨で良かったくらいである。

なんだか、今冬は大雪に悩まされそうな予感がするなぁ~。


■2023-11-18-Saturday 変な天気だなぁ

今朝の帯広は昨日の大雨は収まって、

風は強いが晴れている。

しかし、ニュースを見たら九州地方や鳥取辺りや広島の山間部では積雪である。

北海道の帯広が晴れで、九州が雪だって?

変な天気だよなぁ~。気候変動も極まれりか?

我が家の中も寒いから暖房を入れることにした。合わせて冬の対策を行った。

庭に面した場所にある水道管の水を落としたり、加湿器を出したり、タイヤ交換をした。

タイヤ交換は、20歳代の頃は自分でやっていたのであるが、体力的にはもう無理である。つい先日もタイヤが外れた事故が札幌市で起こったばかりであるし、帯広でもタイヤが外れた事故のニュースが新聞に載っていた。私もナットを締める力が弱っているからシッカリ締めることが出来ないと感じているのでお金を払って専門業者に任せている。

今年は何でも値上がりがヒドイが、石油製品も値上がりしている。十勝では冬の間は、ズ~ッと灯油のボイラーを点けっ放しにしていないと寒くて暮らせない。

北海道の冬の生活態度というと、真冬にセントラルヒーティングで家中を温めて、半袖Tシャツ姿でアイスクリームを食べるというのがテレビで紹介されたこともあったが、今やそんなことをやってる家はないであろう。今年は、室内の温度を例年よりも低く設定してドテラでも上に羽織る必要があるのかもしれないなぁ~。

そういえば、東京で暮らした学生時代に使っていたドテラは何処にやったかなぁ~?学生時代から比べたら、体重が25㌔位は太ったから、あったとしても着られるわけはないか!

昔は綿入りの重たくてブ厚い服を着てモコモコになって過ごしていたが、今や、ヒートテックだのダウンだのと軽くて薄くてしかも温かい服が売られているから、冬もスマートに暮らせるかも。

こういうところは昔よりもかなり快適になったと感じ部分であるなぁ~。


■2023-11-20-Monday 断捨離or整理?

会社のモノも自宅のモノも、

断捨離なのか、それとも整理なのかは自分でも分からないが、今、片付けをしている最中である。

我が家の遺伝子なのであろうか? 兄弟姉妹もモノが捨てられない性格が似ているようだ。

祖母は、お菓子の紙袋、包装紙、紐、果てはブリキ缶を封印していたビニールテープまでを取っておいた人である。

その性格をそのまま引き継いだ父も、何でもかんでも保存することが好きな人であった。

平成4年に父が64歳で亡くなった時に、膨大な遺品整理は途方に暮れてしまってほとんどが手付かずのまま最近まで保存してあった。

父は十勝観光協会と帯広観光協会の会長を長らく務めていたから、観光関係のパンフレットやら時刻表やら雑誌類なども全て集めていた。

ただし、父はただ集めるだけの人であって、整理整頓や保存をする人ではなかったから、その役目は主に母が担っていた。

私が22歳で父の会社に入社してからは、その役目が私に回ってきたのである。

しかし・・・・・・・・・・・・

かつてはどこに何を保管しているのかを、しっかり記憶していたのに、最近は記憶力に陰りがみえてきた。

今回、整理を始めたら・・・・・

坂本ビル内には倉庫がやたらと多いのである。使わなくなったビルの場所を倉庫に改造してモノを運び込んだのであった。

整理をしている内に「アレッ、こんなところから、こんなモノが出て来た!」「あらら、こんなモノもあったんだぁ~」の連続である。

今日は、昭和20年頃の、父の高校の教師の免許やら中学校の教師免許、ダンス教師の免状、ダンスホールの営業許可証、図面などが出て来た。

父は北大の臨時教員養成所を卒業して教師の免許を持っていた。卒業後にしばらく三条高校や第三中学校で教師をしていたことがある。

このまま捨てるのは偲びないなと思って、帯広百年記念館の学芸員に連絡をしたら「貴重な資料なのでぜひ百年記念館で保存します」と言う。

百年記念館で保存してくれて「坂本勝玉堂」「坂本ダンス会館」「サニーデパート」などの展示コーナーでも造ってくれたら、祖父も父も喜んでくれるであろう。

倉庫を整理するたびに、面白いモノがどんどん出てくる。少しは整理が楽しくなってきた。


■2023-11-21-Tuesday 平面図

倉庫を整理をしていたら・・・

今度は、火事になる前の昭和40(1965)年頃の店舗兼自宅の平面図が出てきた。火事になったのは昭和42(1967)年の事であるから、その直前に改装した時の平面図である。

当時、西2条南9丁目16・18番地で営業していたのは「坂本民芸品店(1階)」「坂本ダンス会館(2階)」「アサヒビアホール(2階)」「ダンスレッスン場(別棟2階)」である。その他に貸店舗として「天狗屋草履店(1階)」「パチンコ屋(1階)」「喫茶モーラ(東側)」「洋食ドラゴン食堂(東側)」「おでんと寿しの弁慶(東側)」などに貸していた。

自宅も同じ場所にあって、住み込みの従業員も数人が同居していた大きな自宅であった。それぞれの部屋にはやたらとドアやふすまが多くて、どこにでも移動が出来る迷路みたいな家であったことを思い出した。

火事になった当時は、私は小学4年生であったから、かなり記憶に残っているが、丁度見つけた時に来社していた4歳違いの弟に見せたら「あまり覚えていないなぁ」と言う。

倉庫の更に奥の方から十勝石のネックレスが100本以上、カフスボタンのセットも大量に出てきた。

こんなところに在庫を仕舞い込んでいたのか!

いったい何年間眠らせていたのであろうか?

昔はそれくらい売れていたということなのであろう。土産品が売れなくなって、仕舞い込んだ在庫もそのまま忘れて眠らせてしまったのであろうなぁ。

貴重な資料は帯広百年記念館が展示品として保存してくれるというので、廃棄するモノとは別にして保管してあるが、不要なモノは捨てるしかない。でも、毎日、毎日面白いものがたくさん出てくる。

坂本家は明治37(1904)年には十勝に入っているから119年の歴史がある。来年は創業120周年になる。

古い写真や紙の資料を見ながら分別しているとやたらと時間が掛かるのであるが、他の人には分からないだろうし、分からずに何でもかんでも捨ててしまうのは、今までせっかく保存してきたのにモッタイナイ!と感じる。

活用出来るものはなるべく未来に残したい。

さて、明日はいったい何が出てくるかな?


■2023-11-23-Thursday 断捨離

テレビを見ていたら「断捨離」のことを

あるタレントが自分にとっての断捨離は「断じて、捨てない、離さない」の意味だ。みたいなことを言っていた。

私の場合もまさにそれである。

言い得て妙と感心して、声を出して大笑いしてしまった。

整理をしていたら、古い資料が次から次へと出て来るわ、出て来るわ。

これらの資料を元にして坂本家の歴史を書きたくなってきた。

祖母から聞かされていたこと、父から聞かされていたこと、母から聞かされていたこと等と出てきた資料の内容が合致しているから、改めて記憶が鮮明に蘇ってきたのだ。

おそらくは、私を三代目にするべく、坂本家の歴史を私に言い聞かせていたのであろうと思う。

妻のお供で買い物に行った店で、中心街に住んでいた同じ町内会の昔馴染みの友人の母親にバッタリと出会った。

「坂本です。こんちわ」と挨拶したら「アラ~ッ、カズアキちゃん」と呼ばれたのだ。すぐさま「あらまぁ、ごめんなさいね!ついついカズアキちゃんなんて名前で呼んでしまって、70歳になろうとしている大人をつかまえてカズアキちゃん呼ばわりはないわよね・・・」と言う。私の年齢を間違えてはいるものの、名前はハッキリと憶えてくれていた。

それくらいイタズラっ子として町内でも勇名を馳せていたのであろうなぁ。

でも、この年齢になっても名前で呼ばれるのは親しみを感じて嬉しいことである。

整理をしていて困っているのは表彰状や感謝状などの額である。引退するなら過去の栄光など必要もないし、自宅に飾るほどの悪趣味でもないし、第一、自宅には飾るスペースすらない。

残しておきたいなぁと思ったのは「観光カリスマ」の認定証やつくば大学などで務めた非常勤講師の任命書などの類くらいかなぁ。

子どもたちに証拠として残しておきたいなぁと思ったのであるが・・・

でも結局はゴミにしかならないのであろうなぁ~。なかなか全部は捨て

られないものであるなぁ。


■2023-11-24-Friday 駒大同窓会

駒澤大学の同窓会十勝支部の三役会を開催した。

来年は十勝支部設立25周年の年にあたる。この記念する年の総会を持って私は支部会長を引退することを表明している。

本来、私は今年度をもって引退して、25周年は新しい支部会長の元で開催してもらいたかったのであるが、十勝支部は残念ながら会員数の減少と高齢化が進んでいて新支部会長を選任することが能わなかったのであった。

十勝支部は、全国57ヵ所ある同窓会支部の内、会員数が下から4番目という少数の支部である。お隣りの根釧支部の方が十勝支部よりも1名少なくて下から3番目の会員が少ない支部なのであるが、なにせ北海道は広すぎて十勝と根釧を合併させることは距離的に難しいのだ。

だが、ここ数年の情勢では、十勝も根釧も駒澤大学への入学者数は増えていないのだ。入学者が増えないことには、すなわち卒業生も増えないわけで、同窓会員が増えないのは道理なのである。

年々、同窓会員の平均年齢が上がっていくのは宿命なのである。私よりも若い同窓会員が少ない状況では、なかなか支部会長のなりてを探すのは難しい。

今回の三役会で検討しているのは、来年10月20日(日)に開催予定の総会と駒大寄席の運営方法のたたき台を作ることである。

次回の日程は、前回の総会時10/8(日)に会員の都合を聞いて候補日をいくつか決めていた。

会員にはお寺(曹洞宗)のお坊さんが多いことから、「友引」の葬儀が行われない土曜日か日曜日という条件で候補日をいくつか探していたのである。だから2024年10月20日(日)は「友引」なのだ。

設立25周年といえば「四半世紀」の記念すべき総会になる。

十勝支部は弱小支部ではあるが、これまで全国57支部のお手本になるような総会事業を行ってきた支部である。

同窓会本部が派遣してくれる「派遣講師」の中から落語家を選んで「駒大寄席」として、同窓生以外の一般客にも15年以上も開放して開催してきたのである。

来年は、更に面白い企画を考えているところなのだ。


■2023-11-25-Saturday ゴジラ

映画「ゴジラ−1.0」を観てきた。

ゴジラ映画の第一作目の「ゴジラ」は昭和29(1954)年の上映作品で、翌1955年に制作された第2作目の「ゴジラの逆襲」も生まれる前であるから、当然リアルタイムでは観ておらず、リバイバルでしか観ていない。「ゴジラ」は怪獣映画ではあっても、子ども向けの作品というよりは、社会派の作品であった。

私が子供の頃に見た最初のゴジラ映画は、おそらくは昭和37(1962)年公開の「ゴジラ対キングコング」なのであろうが、これはまったく記憶が残っていない。

映画大好き人間であった父には幼少の頃から映画館によく連れていってもらったものだが、東宝映画が掛かっていた帯広劇場の株主優待無料券が毎月分あったものだから、東宝の映画は特に数多く見ている。森繁久彌の社長シリーズなども子供が見るような映画ではなかったが、ほとんど見ていたのだ。

東宝の怪獣映画にはモスラとかラドンとかもいるが・・・

記憶に残っているゴジラ映画といえば昭和39(1964)年に公開された第5作目の「三大怪獣 地球最大の決戦」からである。キングギドラの印象が強烈であった。

この映画のゴジラは、モスラに諭されて、人間の味方みたいな怪獣になっていくが、その当時には、まだだ第一作目のゴジラ映画を見ていない子どもの私にとってはゴジラの怖さというのは少なくて、むしろキングギドラの方が怖い怪獣であった。

私も成長するにつれて怪獣映画は子供っぽく感じて何だかバカバカしくなってきて見なくなったのだった。

私も結婚して子供が生まれてからは、子どもを連れて怪獣映画を再び見るようになったが、子どもの付き添いという感覚でしかなかった。

ゴジラ映画を子ども連れでなく観たのは「シンゴジラ」が久し振りであった。

今回の「ゴジラ−1.0」は批評の採点が高かったので見る気になったのである。

1200円で楽しめる映画は、コストパフォーマンス的にも満足できる娯楽である。このゴジラ作品は子ども向けの作品ではないところが良かった。観客も子どもは少なくて大人ばかりであった。

一点だけ気になったのは、ゴジラに襲われる群集の中に俳優の「橋爪功」が映った様に思ったのだが、終演後に妻に聞いても判らなかったと言うし、物語の中にはまったく橋爪功は出てこないし、エンドロールにも橋爪功の名前が無かったのだ。

ただの友情出演だったの?


■2023-11-27-Monday 自己嫌悪

この題名でブログを書くのは何度目であろうか?

またまたやってしまった!

昔のことは良く覚えているのに、ごく最近、特に直前のことを憶えていないというのか、はたまた忘れているのだろうか。

忘れない様に、スケジュールをすぐに手帳に書き込む様にしているのに・・・

手帳には、27日(月)の欄に「18:00~受付開始、北海道ホテルでJCOB会」と書いてあった。間違えないように自宅を出る前に手帳をしっかりと確認している。

案内をもらった時に出席に〇を付けてFAXを返信した記憶はある。すぐに手帳に予定を書き込んだ記憶もある。

会場である北海道ホテルと我が家とは徒歩で5~6分くらいの距離である。いつもなら歩いて行くのであるが、今晩は気温が低いので、ちょうど18時過ぎに帰宅してきた息子の車で送ってもらった。

ホテルに着いたが、ど~も雰囲気が異なる。この時間帯ならばJCOB会員が玄関先でたむろしている筈であるのに・・・、ホテルのイベント案内版を見たら「JCOB会」の表示が無い。

アッ、また会場を間違えたか!と思って、すぐに自宅にいる妻に電話して確認したら「手帳には北海道ホテルと書いてあるよ」と言う。

JCOBの友人に電話して確認したら「OB会は明日だぞ!」と言うではないか!

あれまぁ、またやっちまった!

すぐに息子の携帯に電話して北海道ホテルまで戻ってもらって帰宅したのであった。

どうやら、手帳に書き込む曜日の欄を間違えてしまった様なのである。

今年はやたらとこの手の間違いが多い。ゴルフの最終戦では集合時間を間違えて1時間早くに会場入りしてしまった。遅刻せずに着いたからまだ良い方の間違いであったが・・・

天気予報では明日の十勝は雪である。

除雪作業をやったら疲れてしまって、夜の飲み会には参加できないかもしれない。今日であったら良かったのに・・・


■2023-11-28-Tuesday キャンセル

朝、窓の外を見たら雪が積もっていた。

今冬の初積雪で、4㎝ほど積もっている。

冬の5時半はまだ太陽が昇っておらずに真っ暗の中、除雪作業を開始した。

積雪初期の頃は、なるべく除雪する場所を拡げておきたいのだ。

路面を出しておけば昼間の太陽熱で融けてくれるからだ。この初期の除雪をサボって狭い範囲だけの除雪をやってしまうと、雪を残した場所が根雪になってしまう。

以前にもブログに書いたが、我が家の除雪面積はやたらと広い。

今朝の雪は4㎝と少ないが、しかし湿っていて重たい。まずは物置から除雪道具を引っ張り出すことからやらねば・・・。

北海道では、日本海側の地方では、つい先日にいきなり初雪が45㎝もの積雪だった地域があったが、帯広のこの程度の積雪量ならば、スコップ状のモノよりも、押して除雪するタイプのラッセル型の除雪道具が便利である。

積雪量はたったの4㎝であっても湿ったシャーベット状の雪は押していくと団子状に固まって重たくなる。

まずは自宅の玄関先、通路、歩道、車庫前の除雪をやって、次に庭、母の家の前と順番に除雪をやっていった。

今冬初の除雪であるから、まだ身体が作業に慣れていない。腰が痛くなってきたし、足がつりそうになってしまった。やはり運動不足である。

かなり汗をかいたし、体中の筋肉が悲鳴をあげてしまった。

昨日のブログで心配したように、今晩のJCOB会には参加出来そうにない。結局、キャンセルしてしまった。昨日だったら良かったのになぁ~。


■2023-11-30-Thursday 今年も残りひと月

明日から師走である。

今年も後ひと月で終わりだ。年々月日が経つ体感スピードが早くなっている気がする。

帯広は積雪が少ないのだが、東北や北海道の日本海側では大雪のニュースが流れている。

お蕎麦で有名な道北の幌加内町では積雪量が早くも1mを超えたというニュースである。この時期に1m以上も積もったら嫌になるだろうなぁ。

帯広もこのまま今冬の積雪量は少なめであってほしいのだが・・・

右肩が痛い。以前にやった五十肩のような症状である。これは先日の除雪作業のせいなのか、それとも会社の書類整理のせいなのか?

坂本ビル創業以来55年分の書類の山を片付けるのは、けっこう大変な仕事である。

中身を確認しながら、シュレッダーにかけるモノと、そのまま捨てるモノとに分けなければならない。紙ってのは纏まると重たいから段ボール箱の上げ下げだけでもかなりな重労働である。

夜のニュースでは、札幌の冬季オリンピック招致が絶望的になったとの報道である。

私は、最初からオリンピックや万博などの巨大イベントで街を整備しようなどという考え方は、時代遅れで成熟した国家がやるべき政策ではないと述べてきたが・・・

札幌市民も、ようやく先の東京オリンピックの不正や不祥事の連続などで、開催の意義に疑問を持つ人が増えたのであろう。

これを機に、もっと異なる政策を立案するべきであろう。