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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2024-01-01-Monday 元旦

新年早々に・・・

早朝の電話で起こされた。

直ぐに来いとの電話である。

外に出たら数㎝の積雪。車のエンジンを温めてる間だけ玄関と車庫の前だけサッと除雪をして駆け付けた。

お神酒を飲む前の電話であったから良かった。

重大事ではなかったから、またすぐに帰宅して除雪をした。

その後で、元旦のお雑煮を食べたのだが、お神酒は舐める程度にしておいた。

昨日の大晦日と同様に、なんだか元旦という感じがまるでない。こんな落ち着かない正月は初めてである。

午前中に再度、直ぐに来いの電話である。

再び駆け付けたが、また大事ではなかった。

帰りに、帯広神社に初詣に行くことにした。

ここ数年は、元旦には初詣には行っていない。元旦の神社は参詣客で混んでいて、寒い中並ぶのが嫌いなので2日に行くことにしているのだ。

今日は晴れていて温かいから、参詣して行くことにした。

神社は意外にも空いていて拍子抜けした。

かなり並ぶことを想定して覚悟して行ったからだ。

例年の2日の参詣よりもはるかに空いていたので、まったく並ぶことなく参詣できたので驚いた。元旦の午前中の方が空いているんだなぁ~。

試しにおみくじを引いたら「大吉」であった。それも、これから段々と良くなっていく大吉であったので少しホッとした。神頼みするほど気弱になっているのかもしれない。

帰宅してから残っていた除雪作業をした。新年早々に除雪ばっかりかぁ~。

自宅を離れる訳にもいかないから。自宅で新聞や読書をして過ごしていた。夕方にテレビを点けたら、石川県で震度7の大地震の速報が出た。

震度7だって!

私は、震度5強までしか体験したことがないから、震度7ってどんな揺れの強さなのであろうか?

テレビではどのチャンネルもこの地震による津波の発生があると警告を発し続けている。

元旦だから、家族で温泉宿に行っている人達もいるであろう。それこそ普段の旅行と違って、温泉でノンビリする為の宿泊であろうから、着替えもたいして持っては行かないであろうから、被災したら大変であろう。

大きな津波や火災が発生しないことを祈る。

今年の正月の楽しみといえば、我が母校駒澤大学の箱根駅伝の優勝が唯一の楽しみである。頑張れ駒澤!


■2024-01-02-Tuesday 今年は!?

今年は幕開けから何て日だ!

昨日の石川県の大地震の被害が、夜が明けて少しづつ明らかになってきた。私がショックだったのは輪島市の7階建てのビルの倒壊である。ニュース映像を見たら横倒しになっていた。

このビルが、何年の建築なのかの情報がまったく無かったが、旧耐震構造なのか、新耐震構造なのかは私にとっての最大の関心事である。

私のマジックの旧友が、地震予知研究の第一人者の東海大学の長尾年泰氏である。2年前に帯広のマジック・ミュージアム見学のついでと言ってはなんであるが、当時、私が会長を務めていた帯広ビルディング協会の行事として長尾氏に地震の講演を依頼した。

その時の講演で、能登半島が危ない、そして次に危ないのは北海道の道東沖であるとの講演内容に愕然としたことをハッキリと覚えている。

地震予知などあまり信じていなかったのであるが・・・

今回の能登半島の大地震を見て、やっぱり地震予知研究は進んでいるのだと云うことを認識した。

この地震のニュースは、昨日の夕方16時過ぎのテレビで知ったから、もう陽が落ち始めていて被害の様相が判明していなかった。

一夜明けて、朝のニュースで被害状況を見て、その被害の大きさにビックリしたのである。

特に、輪島市の7階建てビルの倒壊にはショックを受けた。

頭で理解することと、実際に見るのとでは衝撃の大きさは桁違いである。

今日2日の私の関心事は箱根駅伝での母校駒澤大学の活躍でしかなかったのに・・・。

その駒澤大学は1区、2区と順当にトップを取ったものの、3区でライバルの青学に逆転されてしまった。

当初の予定通りの勝ちパターンが崩されると焦りが生じてしまうものだ。

往路は2位に終わった。

何だか釈然としない状況である。

夕方のニュースを見ていたら、今度は羽田空港で飛行機の炎上する映像が映った。かなり後になってから、新千歳空港発の飛行機が、着陸寸前に、海上保安庁の飛行機と衝突して炎上する事故であったことが判明した。

この時期の北海道から東京への飛行機の便での事故である。誰か知人でも乗っていやしないかと心配になった。

少し後に、乗員全員が無事に脱出したという報道に一安心したが、この時期に帰省して、帰京する人間の中にはペットを連れている乗客もいたであろう。人間は全員無事に脱出できても、貨物室に入れられているペットはどうなったのであろうか?

滑走路上での衝突事故?

着陸する日航機にはミスは無かろう。問題があるとすれば、管制官の誘導ミスか、衝突した海上保安庁のパイロットが管制官の誘導を無視したかのどちらかであろう。

なぜに今年は正月早々にこんなに大きな災害が起こるのであろうか。

今年は大丈夫なのか?


■2024-01-03-Wednesday その後の様子が

元旦の能登半島での大地震と

2日の羽田空港での日航機と海上保安庁の飛行機との衝突事故の詳細が徐々に明らかになってきたが、その被害の大きさに愕然とする。

地震では、震度7の揺れによって、輪島市の7階建てのビルが横倒しになったニュース映像を見ると一階の根元から折れているように見える。一階の強度が上部の重さに対して弱い様に見えた。しっかりとした強度計算の上で設計されているビルなのであろうか?

いつ頃建てられたビルであるのかの情報を知りたい。

津波の被害、火災の被害、土砂崩れの被害、建物倒壊の被害など、日が経つにつれて、その被害の大きさに驚く。建物の下敷きになっている人の救助には72時間の壁があると云うから、一刻も早く助け出して欲しいものであるが、道路もあちらこちらで陥没やら崩壊やらしているから、重機類が現場に入れない状況の様である。人力だけではがれきを排除するのは難しいであろうし、余震も何度も続いているから二次被害も心配である。

羽田空港の衝突事故は、羽田空港を中心にした航空網の脆弱さを露呈している。今回の様に羽田空港で事故が起きたら、日本中の航空網に混乱が生じてしまう。

帯広空港のように、羽田便しかない空港は全便が欠航する事態になっているようだ。帰省客の帰京が出来なくなって大混乱に陥っている。

しかし、日航機の乗員乗客全員が大した怪我もなく脱出できたのは奇跡的なことであった。

箱根駅伝の方は、6区で差を縮めることを期待して7時からテレビを点けていたが、逆に差を拡げられてしまったので、興味を失ってしまった。青学の箱根駅伝での強さは特別だなぁ。駒大は1,2区まではほぼ予定通りの展開であったものの、3区での思惑違いですっかり歯車が狂ってしまった。その後は、それを挽回するべく気負い過ぎてしまって空回りしてしまった感がする。やっぱりスポーツというのは精神状態が大きく左右するものであるなぁ。

普段から、あらゆる場面を想定してシミュレーションをしておいて、どのような場面になっても対応できるようにしておかないと、ポジティブシンキングだけで勝ちパターンの想定ばかりの良いイメージだけを作っておくと、その勝ちパターンの設定が崩れた瞬間にもろくも崩れてしまうことがあるようだ。

人生と同じで「人間万事塞翁が馬」である。


■2024-01-05-Friday 母逝去

母の隆子が5日に亡くなった。

満92歳、享年94歳であった。

長男の私が喪主を務めるので、これからやたらと忙しくなるので、死生観、死に様など思うところは葬儀終了後に書くことにして、ここでは報告のみとする。

去年の12月2日に、入居していた介護付き有料老人ホームでインフルエンザA型に感染し肺炎を発症。音更町の徳洲会病院に入院していたが、5日午後3時29分に肺炎のために死去した。

年末年始に、大勢の方々が亡くられていて会場に空きがなく、

葬儀日程は

通 夜 9日18:00~

告別式10日10:00~

会場は帯広公益社メモリアルホール 

〒080-2473 帯広市西23条南1丁目132−10 TEL0155−37−9000 

にて執り行います。


■2024-01-13-Saturday 母逝去の顛末

12月2日(土)に入居先のシルバーシティから電話が入った。

「簡易検査をしてコロナもインフルエンザも陰性であったが、発熱があるから音更の徳洲会病院に連れて行く」と言う。

昼頃に母を連れて行った看護師から、徳洲会病院の発熱外来に来て欲しいとの電話があり病院に向かった。

医師からの説明では、検査の結果インフルエンザA型の陽性であり、肺炎の疑いがあるから、このまま入院させるとのこと。

インフルエンザであるから面会は禁止とのことで、病室に入るまでの廊下でしか母の姿を見られなかった。

すぐに兄弟姉妹に連絡を入れて病院に集合し、医者からの説明を受けた。検査の結果、肺炎を発症していて高熱があり、高齢でもあるし体力的には母の命はもって年内との宣告を受けた。

母は満92歳と高齢でもあるし、元々痩せているから体力がないと思われたのであろう。

ところが、医者もビックリの驚異の心臓の持ち主であったのだ。

入院時に撮ったMRIの画像では、肺は真白で肺炎はかなり進行していて高熱が続いていた。

「病院からの呼び出し電話があった時には直ぐに他の家族に連絡して駆け付けてください」と言われたのである。

一進一退、一歩進んで二歩下がるような状態が続いた。

年の瀬が迫ってきて、年内かぁ~、思わず祖母が大晦日に亡くなった時のことを思い出してしまった。

私の父方の祖母は昭和59年の大晦日に満89歳で亡くなった。

大晦日の死去というのは大変であった。

当時は、正月三カ日は火葬場が休みであったから、遺体を自宅に安置するのに大変な思いをしたことを思い出したのだ。

4人の兄弟姉妹は毎日、病院に行って母に面会をし続けた。

病院の面会は12月29日までで、30、大晦日、元旦、2、3日までは面会は出来ないとのこと。

面会は出来ないが、容態が急変したら電話するからすぐに病院に駆け付けてほしいとのことであった。

30日、大晦日には病院からの連絡は来なかったが、連絡が何時入るかもしれないのでユックリと過ごすことは出来なかった。大晦日の紅白歌合戦もまともに見る気にもならないし、お酒を飲む気分でもなかった。

元旦の早朝に病院から電話が入った!

アッチャ~元旦かぁ~。と思って病院に四家族が駆け付けたが持ち直した。一旦帰宅した数時間後に再度の呼び出しの電話。いよいよかと病院に行ったがまた持ち直したのである。

驚異の心臓である。その後も2,3,4日と毎日見舞ったがどうやら持ち直した様にみえた。

5日の早朝にまた呼び出しの電話が入った。駆け付けたがまた持ち直した。

5日は仕事始めの日である。会社に戻り仕事をしていたら、昼過ぎに再度の呼び出しの電話。

そして、遂に5日の15:15分に心電図が0になりアラームが鳴った。看護師が医師に連絡を入れる。

私も死亡報告のメールを打っていたら・・・、再度の復活!

と思ったら、数分後に完全に0となってしまった。

医師が駆け付け臨終を確認したのが15:29であった。


■2024-01-14-Sunday 母逝去の顛末2

1月5日15:29に母の隆子が亡くなった。

すぐに葬儀会社に連絡を入れた。葬儀日程などを決めるためである。

ところが・・・

年末、年始に帯広では大勢の方が亡くなっていて、葬儀会場が満杯なのである。

9日(火)は「友引」なので告別式は出来ないから、したがって8日の通夜も出来ないことになる。最短で9日通夜、10日の告別式という日程しか空いていなかったのだ。

すぐにその日程で会場を抑えてもらった。

葬儀会社は17:30頃に病院に遺体を引き取りに来る。

母も自宅に戻りたかったであろうから、5~9日の通夜までは母の自宅に遺体を安置することにした。

母の戒名を祖父、祖母、父と同列の立派なものにしてあげたいと思い。菩提寺の曹洞宗永祥寺のご住職にお願いして母にピッタリな「隆徳院彩照清婉大師」という立派な戒名を授けていただいた。

いまの季節は真冬である。最近の北海道の家というのは家中が暖かいセントラルヒーティングシステムになっている。母の家も同様だ。

和室に4日間以上も遺体を安置することにしたのだが、ドライアイスで冷やすものの、部屋を暖かくする訳にはいかない。

我が家の宗派の曹洞宗では葬儀まではロウソクと線香の火を絶やすことは出来ない。

線香は、蚊取り線香を細く長くしたような円形のモノがあって、その丸い線香だと8時間位は火が保たれる。これは随分楽になったものである。

ロウソクは太いものを使っても5~6時間程度しか持たないから夜間に一度はロウソクを交換しなければならない。

母の遺体の傍に居てロウソクの火を絶やさないようにしなければならないのだ。部屋の温度は低めにしてあるし、線香の煙で喉や眼が痛いし・・・。

そんな中で8日のニュースで田中角栄の目白御殿が線香の火が原因で全焼したという報道があった。やっぱりろうそくや線香に火を着けたら誰かがずっと見ていなければならないのである。4人の兄弟姉妹が交代で番をして最後のお別れをしたのであるが、グッスリとは眠れないし葬儀が終わるまでは落ち着かない。

葬儀社は帯広の公益社さんに依頼した。

実に細やかに、親切に対応してくれる会社である。

他所の地域の葬式にはあまり参列したことがないから、他所の地域の葬儀事情は詳しく分からないが、帯広では葬儀の際に「メモリアルメッセージ」という故人の生前の写真をDVDにして流すことが多いし、「会葬御礼のはがき」にも家族の言葉で独自の文章を作成することが多いようだ。

両方とも、母に相応しいものにしてあげたいと考えた。

DVDの写真の枚数は25枚までと言われたのであるが、兄弟姉妹4人で選んでいる内にドンドンと増えてしまい、そこから省いても省いても結局31枚にもなってしまった。DVDのBGMには小椋佳の「愛燦燦」の弦楽四重奏版を選んだ。出来栄えがとても素晴らしくて観ていて思わず涙が出て来てしまったほどである。他の家族からもぜひとも欲しいとの依頼があって結局11枚もの焼き増しをすることになったのであった。

会葬御礼のはがきも何度も推敲をして決めた。

9日の通夜の前に「湯灌」をするのだが、自宅の玄関には棺桶が入らないから、会場のメモリアルホールに遺体を運んで、そこで湯灌をしてもらうことにした。

棺桶に遺体を収めた途端に涙が出てきた。

会場のメモリアルホールには、母の書道の作品や家族写真など多数を公益社さんが綺麗に飾ってくれたので、きっと母も満足してくれたであろうと思う。

2019年3月に妻の母を亡くしているが、コロナ禍以来、帯広でも葬儀は様変わりして縮小傾向にあるようだ。

家族葬も増えている様だが、後日に「お参りしたかった」と言われることもあると云うから家族葬というのも善し悪しがあるのだと思う。

メモリアルホールは、比較的こじんまりとした会場であるし、まだ新しい葬儀場で綺麗であるので、雰囲気も良かったから、ちょうど母の葬儀には相応しかったと思う。


■2024-01-15-Monday 母逝去の顛末3

1月5日に亡くなった母の葬儀を

9日の通夜、10日の告別式と行った。

10日の告別式では参列者の人数が通夜よりも格段に減る傾向にあるようだ。

これは北海道独特の特色なのではなかろうか?

北海道以外の地域の葬儀には、これまであまり参列したことがないからよくは知らないのだが、テレビや映画などでの葬儀の模様を見る限りでは、告別式がお別れの儀式なのであるから、通夜よりも告別式の方に参列するのが本来なのではないかと思うのである。

平日の午前中の告別式では仕事のある人は、仕事を休まなければならなくなるから、それならば仕事が終わった後で参列出来る通夜に出た方が合理的と云えば、合理的である。

北海道の葬儀には、本州方面とは異なる慣例も多々あるようで、お香典に対して領収証を発行するという習慣も本州方面の方々には驚かれる。

古い風習の無い北海道ならではの合理的な葬儀の形態なのであろう。

火葬場に遺体を乗せて運ぶ車も、そういえば最近は霊柩車というのを見かけなくなったなぁ。昔は街中で霊柩車を見かけたら親指を隠せなんて言われていたことを思い出してしまった。

遺族ら数人と小型のバスに乗せて一緒に火葬場まで運んでくれるというのも合理的な方法ではある。

10日の火葬場も満杯であった。

遺体を焼いている間の待合室は全室が埋まっていた。

この待合室もほんの2~3年前までは、靴を脱いで座る畳敷きの部屋であったのだが、今回は椅子席に変わっていた。

年を取ると座布団に座るのが辛くなるから、要望に合わせて変更されたのであろうなぁ。

以前の帯広の火葬場では、軽食を取れるような売店があった。急な変更で用意した弁当の数が足りなくなった時などには都合が良かったのであるが・・・、よくは見なかったのだが、自動販売機とスナック菓子が販売されている程度ではなかっただろうか。

遺体が骨と灰になってしまうのを見るのはとても寂しい光景である。まだ熱い骨を拾って骨箱に入れていく。係の人が棒で骨を崩す光景は遺族としては何とも複雑な心境である。

喪主としてその骨箱を膝の上に抱いて式場まで戻る時間もまたとても複雑な心境であった。

ついさっきまで冷たかった遺体が、焼かれて骨と灰になり、まだ温かいその骨のぬくもりを膝に感じながら乗せていると何とも言えない感情が湧いてくる。

葬儀の最後のセレモニーである忌中引きであるが、告別式よりも更に参列者数が減るのは当たり前で、告別式の後、一旦会社や自宅に戻って、その数時間後に再度式場まで顔を出すというのはよっぽどのことがないと参列はしないであろうなぁ。

この風習も、コロナ禍によっておおきく様変わりしたのではなかろうか?

合理的と云われる北海道の葬儀であるから、今後きっと簡素化されるのではなかろうかなぁ?

母が逝去したのが5日であるから、告別式の翌日の11日が初七日になる。

これから四十九日の法要まで七日毎にお坊さんにお参りしてもらうことになる。

今回の母の葬儀日程はやたらと混んでいて、告別式の翌日が初七日であったが、もしももっと待たされた場合は、初七日が告別式の前なんて事態も生じるのであろうなぁ。やがて団塊の世代の大量死の時期が到来するが、人手も足りない中で、物理的にも葬儀を簡素化しなければやれない時期が近いのであろうなぁ。

身内が死亡すると各種の手続きなどやらねばならないことがたくさんある。

父の葬儀が32年前であるから、もうすっかり忘れてしまったし、そのころとはやり方もかなり変わっているであろう。

ゆっくりできるのはまだまだ先のことにようだ。


■2024-01-16-Tuesday ライフスタイルの変化

日本人のライフスタイルがコロナ禍をキッカケにして

かなり激しく変化をしたように感じる。

戦前の「家制度」が崩壊して「個人主義」に変化しだしたのは昭和40年代くらい頃であろうか。

私は、日本人の性格には「家」を中心にした方が合っていると思っている。

大家族が核家族になって、日本人の精神性に大きな変化が現れてきた。

「儀式」や「伝統」が横文字の「セレモニー」になってしまった感じがする。

そのセレモニーもどんどんと簡素化されている。

「北の屋台」を創った時にも思ったことだが、古来より長い間残ってきたモノには、それなりの残ってきた理由が存在する。

その存在理由を考慮することなく、単に面倒だとか、煩わしいとかいうだけで簡素化してしまうと、本来持っている大切な意味を失ってしまうのではないだろうかと危惧している。

北海道民は、全国各地からの寄せ集めであるから、先祖が元々住んでいた地方の風習が混ざり合っている。それが段々と合理化されてきたのは必然だったのであろう。

もはや、町内会の人が葬儀の手伝いをすることも無くなって、下足番も、会計係も、炊き出しもしなくなった。葬儀会社が全てやってくれるのはとても便利であるし、とても助かることだ。こんなにありがたく感じたことはめったにないことだ。

しかし、確かに面倒臭さは無くなったが、今回の能登半島の震災などの様に、何か非常事態が生じた際には、近所の助け合いが必要な場面が出てくるであろう。隣に誰が住んでいるのかも知らないような町内会では心もとない。普段からのご近所付き合いというのも必要なことではなかろうかと思う。

この変化は「個人主義」が大手を振って日本に蔓延ったから生じたものであろう。

その変化のスピードに「コロナ禍」が拍車を掛けた。

義父、義母の葬儀をほんの数年前に経験しているのだが、コロナ禍以前とコロナ禍以後では、まったくと言っていいほど変わってしまった。

テレビで能登半島地震のボランティア活動をしている方々のニュース映像を見ると頭が下がる思いがする。

体力に自信が無い私にはとても出来ないことだ。

ボランティア元年と云われているのは、29年前の1月17日に発生した阪神淡路大震災からだという。

若い人達がボランティア活動をしている姿を見て感心しているが、一方で被災地で詐欺やら泥棒が頻発しているという許しがたいニュースも報道されている。

果たして日本人は、ボランティア活動をする善人になっているのか、被災地の人から金品を奪おうとする悪人になっているのか、いったいどっちなのであろうか?


■2024-01-17-Wednesday 裏金問題の違和感

ここ数日のワイドショーを見ていると

政治資金の裏金問題のことばかりをやっているように感じる。

この種の問題が出てくるといつも違和感を覚える。

捕まえる側の人間、検察だとか警察だとかのルールと運用の問題がいつもしっくりこないのである。

どうにも腑に落ちないというのか、納得できないというのか・・・

一応、私は法学部法律学科を卒業している法学士なのであるが・・・、日本の法律ってのは何だかオカシクないか?といつも思っているのだ。

日常の生活の有り様が、厳密に言うとほとんどが法律違反になるような厳しめの仕掛けになっているのだと感じるのだ。

現実の生活を営んでいく中では、法律を厳守することが出来ないようにあらかじめ厳しく設定されていやしないか?と云うことなのである。

例えば道路交通法のスピード違反。

日本にいったい何人の運転免許証を持っている人間が居るのか知らないが、免許取得以後一度も違反をしたことが無いというドライバーなど唯の一人も存在しないであろう。

速度制限が40km/hの道路で一度も速度をオーバーしたことが無いドライバーなんてのは日本人には皆無であろう。

日本の法律を、あらかじめ万人が守ることが難しい様な厳しい設定にしておいて、誰もが違反をしているのは承知の上で、それを捕まえるのは、捕まえる人間側の恣意的な意思や運用によって、捕まえたり、捕まえなかったりをやっているようにしか思えないのだ。

お上(おかみ)権利意識丸出しで、こんなことでしか自分たちの存在価値を世間に知らしめられないかのような振る舞いである。

確かに厳しい規定とは云えども違反しちゃったことは事実なのであるから、捕まった人間側は運が悪かったなぁとか、杓子定規な奴(警察官)に捕まっちゃったなぁとか、法律違反をしたことを全然反省しているわけではなくて、捕まったことの不公平さに腹を立てたりするだけである。だから違反が減らないのだ。

今回の裏金問題だって、政治家はこれまで半ば公然とやってきたのであろうし、検察官だって当然ながら知っていたであろう。

政治家側にしてみれば、最初は恐る恐る100万円くらいの少額の裏金作りだったのが、検察が何も言わないのだから良いのだろうと考えて、やがて200万円に、そうして今度は500万円に、1千万円にと段々と大胆になっていったのではないだろうか?

それが今回5千万を超える奴が出てきたりした辺りで、そろそろ捕まえるかみたいな構図に見えてしまうのである。まるで検察官の存在感を演出したいが為に・・・

テレビではコメンテーターがあれこれと、やれ派閥を解消しろとか、脱税だから捕まえろだとか言っているが、政治家も検察官も最初から構図が分かっているのだから、政治家側だって、いつ捕まってもいいように端から仕組みを構築しているに決まっているではないか。

どうせ大山鳴動して鼠一匹で、会計責任者というポジションに就けている尻尾切り用のとかげ用の人間をあらかじめ用意してあって、そいつに全責任をおっかぶせて、政治家はさも知りませんでしたが責任は感じていますなどのコメント発表で終わるだけであろう。こんなくだらない茶番劇に時間を掛けてるよりも他にもっとやるべきことがあるだろうに・・・


■2024-01-18-Thursday 日本の歪み

日本は一応、三権分立の国家であることになっているが・・・

三権とは、国会の立法権、内閣の行政権、裁判所の司法権のそれぞれが独立していることを指す。

権力が一ヶ所に固まると独裁国家となる危険性が高いから、この三権をそれぞれ独立した機関が担うことで、建前としては健全な国家運営を図っているはずなのである。

どうも最近の日本ではかなり歪みが生じているように感じる。

安倍晋三が首相だった頃は内閣が強くて、国会も検察も内閣の意向を「忖度」していたように感じていた。安倍晋三が暗殺された途端に、それまでのウップンを晴らすかのように、裏金問題が出て来た印象がある(あくまでも私が抱いた印象であるが・・・)。

日本人の心情として、昔の「大岡裁き」とか「一休さんの頓智話」みたいな講談や落語の話が好きな傾向があるように思う。

杓子定規な四角四面の裁きよりも人情裁きが好きなのである。また、一休さんのように威張っている役人を頓智や機知でやり込めるような話も好きなのである。

古来から法律なんてものは有って無きが如きもので、裁く人間のその時々の気分次第や裁量で如何様にでも変わるものであると日本人は思っているのではなかろうか。おそらくDNAに刷り込まれているレベルなのであろうなぁ。

官僚が杓子定規で、上からの命令に絶対服従する人間ばかりというのも恐い世界だ。

ハンナ・アーレントが書いた「エルサレムのアイヒマン」という本には、ナチスの幹部で逃亡していたアイヒマンが捕まって裁判にかけられた時に、彼はいかに正確にアウシュビッツに向かう列車を運行するかに腐心していた凡庸な官僚であったことが書かれている。

つまりアーレントが言う「凡庸な悪」とは自分には悪いことをやっている自覚がまったくなく、上司などの命令にただ盲目的に忠実に従っていると結果的に悪事を働いていることになってしまうことを指摘しているのだ。

社会善とは何のか、社会悪とは何なのか、自分で考えることを止めてしまうと悪のドツボにハマってしまいかねない。

今の官僚にはその傾向がありはしないだろうか?

今回の裏金も、政治家は派閥の長から言われたから従ったとか、慣習だから受け取ったとかの言い訳ばかりが目立つ。自分の頭で考えて行動しないような人間ばかりが政治家になっているのでは日本には先がないだろう。

凡庸な政治家や官僚が国を亡ぼすことになるのではないかと危惧している。


■2024-01-19-Friday 二七日

昨日は今月5日に亡くなった母の二七日であった。

仏教では亡くなった後、七日毎にお坊さんが読経をあげに来る。これが7週間四十九日まで続くのである。

我が家の宗派は曹洞宗で禅宗のひとつである。曹洞宗ではこの間毎日仏前に「御霊供膳(おりょうぐぜん)」と云う白飯一汁三菜からなる精進料理を供えることになっている。

我が家ではずっと「おりくぜん」と言っていたが、これは「御霊膳(おりょうぜん)」がなまったのではないかと思う。

いわゆる精進料理であるから、肉、魚、玉子は使わずに野菜や海藻、穀類、豆を基本食材とする。野菜でもいわゆる五辛(ごしん)(ニンニク、ラッキョウ、ネギ、ニラ、はじかみ)は使用しないことになっているし、もっと厳密な御霊供膳の決まりでは、調味料としても鰹出汁や煮干しなどの生き物である魚の出汁ではなく、椎茸や昆布の出汁を使用することになっている。さらにもっと些末なことを言うと、お新香は二切れ供えるのが基本で、三切れは「身を切る」とされて忌み嫌われている。日本人特有の言葉遊びというか、同音多義語に意味を見出すことがこんなところにも表れている。

御霊膳を毎日供えるというのは現代社会ではかなりシンドイことであろう。

我が家の菩提寺の永祥寺からは、毎日供することはないですよとは言われているのだが、やはりこういうことはやっておきたいと思うのである。

毎日供えなければ、それはそれで少しは楽だなとは思うのだが、何となく儀式にはある程度のしきたりがあった方が有難味を感じてしまうのは、私が古い人間だからなのであろうかなぁ~。でも、実際には私が作っているわけではないのだが・・・。

妻の実家は浄土真宗で、この宗派には「御霊供善」のようなしきたりはないというが、妻が毎朝作って供えてくれているのである。


■2024-01-20-Saturday 派閥解散?

昨日のニュースで

岸田首相が宏池会の解散を検討していると発表したことが波紋を広げているが・・・。

アレレッ?

確か、岸田首相って、つい先日に宏池会から離脱することを発表したばかりだったんじゃなかったっけ?

所属してもいない派閥の解散を勝手に発表するってどうゆうこと・・・

しかも、ご丁寧にも、他の派閥のことをとやかく言う立場にないと言っているが、それがとんでもなく矛盾している発言だと気が付かなかったのであろうか?

どうしてそんな勝手なことが出来るのであろうか?

実は派閥からの離脱と云うのは単なるポーズだけなのであって、実はまだ派閥の領袖のままだったのかなぁ?

他の派閥のことをとやかく言えない立場ならば、派閥を離脱した人間が、何故に元所属していた派閥(宏池会)を解散しますなんて発表できるのであろうか? いったい何の資格、どんな権限があるというのだろうか?

自民党総裁としての立場としての発言であったならば、他の派閥のことも解散しろと言えるはずだし、こんなに矛盾している発言を公然と記者の前で述べるなんて・・・

岸田首相の言ってること、やってることって、論理的にはまるで支離滅裂だよなぁ~。

もうよっぽど精神的に追い詰められているのだろうか? 誰かに相談したのであろうかなぁ?

単なる思い付きで言ったのかなぁ?

こんな論理が噛み合わないことを、さも派閥解散を宣言する俺って偉いだろうみたいな気分で、これで支持率でも上がるとでも考えたのであろうかなぁ。

おいおい大丈夫か?

岸田文雄!


■2024-01-21-Sunday 書店が無くなる

今日の新聞の夕刊に書店閉店のニュース

今年3月20日でイトーヨーカドーの宮脇書店が閉店するという。

昨年12月に市内最大の駅南の長崎屋の喜久屋書店が閉店したばかりである。自宅から徒歩5分以内の場所に市内最大の本屋があったことは最大の幸福であったのに・・・。

その本屋が去年12月に閉店してしまって途方に暮れていたのに・・・

帯広市内から書店がどんどん無くなっていく。

たしかに、最近の若者は本を読まなくなったよなぁ~。スマホの情報を見ることに忙しくて、紙の本を読む暇が無いとでも言うのであろうかなぁ~。

でも本当にそれで良いのだろうか?

活字中毒患者を自認している私としては、本屋が帯広市内から無くなってしまうことは、ほとんど「死」を宣告されることに近い意味であるというのになぁ・・・。

本を読まない人達にとっては、別段苦にもならない些末なこととしか思わないのであろうなぁ~。

私はこれから、いったいどうしたら良いのであろうか?

私は本はネットで買うのは性に合わない。書店で実際に手に取ってパラパラとめくって観なければ良い本なのか、読むに値しない本なのかの判断がつかないのだ。

ネットで買うと、一応買ってはみたけれども、面白くなくて読まずに積んで置くだけの本というのも増えてしまう懸念があるであろうなぁ。

数日前には十勝管内在住の河﨑秋子さんが直木賞を受賞したという朗報に接したばかりなのに・・・。

2021年には、池田町出身の西條奈加さんが直木賞を受賞している。

せっかく十勝の関係者が連続して作家として売れ出しているというのに、肝心の本屋が無くなっていくのは悪い冗談としか思えない。

十勝の文化は消滅の危機に瀕していると思うぞ!

誰か何とかしろよ!


■2024-01-24-Wednesday 金魚絵師

金魚絵師と名乗る

深堀隆介の展覧会「水面のゆらぎの中へ」を道立帯広美術館で開催しているので見学してきた。

招待券を頂いていたのであるが・・・、

開催日時が12月2日~1月28日までとなっており、初日の12月2日に母が入院したので12月中は行く機会を失っていたのである。

年明けも1月5日に母が亡くなり、その後の葬儀やら手続きやらで暇がなくてなかなか行けなかったのである。

今週中に行かなければ、もう見られないと思い、なんとか時間を作って妻と二人で鑑賞に行ってきたのであった。

当初、想像していた創作方法とは若干違っていた。私が想像していたのは薄く延ばした透明アクリルに絵具を乗せ、それを繰り返すことで少しずつ立体化していくのだと思い込んでいたのであった。

それが、作品を横から見てみたら薄い平面の金魚がアクリルの中にある。金魚自体は薄い平面の絵なのである。複数の金魚が重なっていたり、葉が浮かんでいたりという構図にズレがあって、作品全体が立体的な表現になっている。面白い!

平面の絵は、トリックアートの様に、3D化して見える。おそらく「錯視」の技法を使っているのであろう。作者は「2.5D」と表現していたがなかなか面白い作風である。

平面の絵画もあったが、私好みの「トリック」を使用した作品であった。

造形作家は、パラノイア(偏執狂)的気質がないと出来ない職業ではないだろうかといつも思っているが、この深堀隆介もそうとうなモンなのであろうなぁ~。

コレクションギャラリーでは「プレイバック平成☆十勝美術の30年」と題する十勝ゆかりの作家の作品を展示していた。知人や友人の作品ばかりが並んでいて、これまた面白く鑑賞することができた。

帯広市としても、道立美術館だけではなく、市立美術館を隣に建てて私のマジック・コレクションなどを展示するようなスペースでも造ってくれたら帯広の文化度も上がって良いだろうになぁ・・・。


■2024-01-25-Thursday 吹き出した!

自民党の裏金問題で

4300万円の裏金を不記載にしていたと略式起訴された長崎三区選出の谷川弥一衆院議員(82)が辞職した。

先月に記者からのしつこい質問に対して「頭悪いねぇ~」と記者を罵倒したときも飲んでいたお茶を思わずプッと吹き出してしまったが・・・

今回の辞職会見の記者からの「これまでどのようなことを考えてきましたか?」との質問に対して、「失敗したよな~、まずかったよなぁ~・・・・・・・まぁいいや、もう一切言いません。私が悪いんです」と後は「私が悪いんです。すみませんでした」の一点張り。

「まずかったよなぁ~」の後の数秒間の「間」が全てを語っている。

思わず本音を吐きそうになった瞬間に逡巡したのであろうなぁ~。

ヘンなお笑い番組よりも、よっぽど笑える!絶妙な「間」の取り方であった。さすがベテラン議員である。この「間」の取り方は素晴らしい!

こういう人物が国会議員で、しかも当選を7回もしているベテラン議員だというのだから呆れてしまう。

82歳という高齢で、しかももう議員を辞職するのだから、逆に一切合切全てを話してしまえば良いのに、安倍派の誰に義理立てしているのか知らないが、墓場まで持って行くことがカッコイイとでも思っているのであろうか?勘違いも甚だしい。

国会議員はいったい誰に選ばれて国会に選出されているのかすらも理解していない。こんな程度の低い人物を7回も当選させてきた長崎三区の住民もその民度を疑われるぞ。

あぁ~ぁ!情けない!

政治家にはまったく期待が出来ない。


■2024-01-26-Friday 汗牛充棟

「汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)」

所有している書物が非常に多いことのたとえ。

車に載せれば車を引く牛が汗をかくほど重く、家の中で積み上げれば天井の棟木に届くほど書物が多いという意味から。

「牛(うし)に汗(あせ)し棟(むなぎ)に充(み)つ」とも読む。

私は山本夏彦のコラムが好きである。

会社の書庫に私の膨大な量の蔵書があったのだが、それを去年の12月に泣く泣く処分した。中に読み返したい本があったので数冊自宅に持ち帰ったのだが、その内の一冊が山本夏彦のコラム集「毒言独語」であった。

雑誌週刊朝日に連載していたコラムを昭和46(1971)年9月に実業之日本社から刊行した本である。

今はトイレに置いていて、毎日数頁ずつ読み返しているのだが、50数年前に書かれたコラムなのに今読んでもとても新鮮なのである。

まるで、昨日今日のニュースのことを書いているのではないかと錯覚するほどに、普遍的なことを辛辣な筆致で書いてある。

たとえ世の中は変わっても人は変わらないということなのであろう。まさにコラムとはこうあるべきものだとお手本にしたい内容なのである。

山本翁を見習ってこのブログも、何年後かにまた読み返される様に研鑚を積みたいと思わされた今日この頃である。


■2024-01-27-Saturday 氷まつり

今、帯広の緑ヶ丘公園で氷まつりを開催している。

今日は土曜日で会社も休みであるし、天気は晴れで気温も高い。私が青年会議所(JC)の現役会員であった30歳台の若い頃は、JCが氷まつりの雪像造りやイベントなどに関わっていたこともあって、子供たちを連れて行ったものであった。

自宅から緑ヶ丘公園までは徒歩で30分程度の散歩には最適な距離であるし、今日は3月下旬並みの温かさであるから、久し振りに氷まつりの見学にでも行こうかと思ったのであるが・・・

結局行かずじまいに終わってしまった。

いざ、出掛けようとすると急に億劫に感じてしまったのである。

高齢者になってから、冬道で滑って転倒して骨折でもしたらと思うと出掛けるのが極端に億劫になるのである。

子どもは風の子と言うが、昔の子どもは寒さなんて気にしなかった。現代の子どもはどうなのであろうか?

家でニュースを見ていたら、過激派のメンバーで指名手配されていた桐島聡が確保されたという。

この顔には見覚えがあるなぁと思ったら、銭湯などに指名手配の犯罪者の顔写真が掲示されているが、そこでよく見かけていた顔であった。約50年間も逃走を続けていたという。年齢も70歳だというから私とたった4歳しか違わない。

「死ぬ時には本名で・・・」と言っているらしい。

恐らく偽名で逃亡を続けていたのであろうが、自分のアイデンティティを隠して、いつ捕まるのかとビクビクしながら50年間も暮らすなんて・・・。きっと最後の最後くらいは、桐島聡本人としてアイデンティティを確認して死んでいきたかったのであろうなぁ。

50年も逃げ続けていて時効ってのは無いのかなぁ~。いったいどんな罪だったのかは詳しくは分からないが、むしろサッサと捕まって刑務所に入っていたら、今頃は刑期を終えて出所していたかもしれないのに・・・。

どんな逃亡生活であったのか、この間の心境などには興味がある。きっと、誰かが小説やドラマなどにするのであろうなぁ。


■2024-01-28-Sunday 愛犬が・・・

我が家の愛犬トイ・プードルのナナちゃんが・・・

最近、飼い主に似て太り気味である。

太っていることに気が付いたキッカケは、息子が買って来た犬の散歩用の服のボタンが止まらずに着せられなかったことであった。

最近、寒い日には散歩に行きたがらないので、調べてみたら、トイ・プードルという犬種は寒がりなのだと云う。それでなくても冬は運動不足になりがちであるからと散歩用の服を購入してきたのであったが・・・

息子が購入してきたのはトイ・プードルの成犬の普通サイズの服であったのだが、腹回りのボタンがまるで止まらないのだ。

家族からは、私がちょこちょことおやつを与えるからだと非難轟轟である。

最近、妻の買い物に同伴することが増えている。一緒にマーケットの中を歩いている時に、ついつい犬の好きな、サツマイモや鶏のささ身などを買い物籠に入れてしまうのだ。

犬としても、犬用の食事よりも、人間が食べるモノの方が美味しいに決まっている。

だんだんとトイ・プードル用の食事を食べなくなって、私におやつを迫るようになってきた。

おやつを与える時の「待て!」「よし」などに忠実に従う様子はカワイイことこの上ない。私の命令に素直に従ってくれるのは、もはや愛犬のみなのである。だからついつい甘やかしてしまう。

しかし・・・

このまま太り続けたら、それこそ成人病になってしまうかもしれない。ここは心を鬼にしておやつを制限しなければ・・・

ナナよ!お前にだけ辛い思いはさせないぞ!

先月辺りから私の体重も増加傾向にあるから、これから一緒にダイエットしような!


■2024-01-29-Monday 誕生日

今日は私の66歳の誕生日。

去年の誕生日には、父が逝去した年齢の64歳を超えたんだという感慨があったのだが、今年は1月5日に母を亡くして、両親ともに死んじゃったという喪失感の方が大きかった。

一方で嬉しかったのは、孫からのビデオ電話である。

親を亡くして悲しみ、孫からの誕生祝いの「じいじ、おたんじょうび おめでとう」の言葉に喜ぶ。

この時の過ぎ様に、こうして時代が進んでいくのだなぁとの何とも言えない感慨を抱いたのであった。

嬉しい知らせも今日届いた。ロサンゼルスの島田晴夫(世界的なマジシャンで2022年4月30日に亡くなった)師宅に赴いているルスツリゾートの社員から、島田師の遺品の衣装や道具類などを今春ルスツリゾートに造る予定であるマジック・ミュージアムに収蔵する契約を、キーリー夫人と締結した旨の報告が入ったのだ。

島田晴夫師が2018年10月29日に、帯広の私が設立したマジック・ミュージアムを訪問してくれた。そして取材に来た2社の新聞記者の前で「坂本さんとの縁を感じた。私が引退したら私の道具類全てをこのマジック・ミュージアムに寄贈する」と宣言されたのである。

驚いたのなんのって・・・。島田師が使用した「四つ玉(指の間で増えたり減ったり色が変わったりする古典的なマジック道具)」のひとつでも寄贈していただけたら嬉しいなぁくらいにしか考えていなかったのに・・・

衣装からドラゴンイリュージョンという大がかりな道具まで、その全てを寄贈するなんてまさに青天の霹靂であった。

これは大変なことになったぞ!!!!!

マジック界の大ニュースとなったのである。

日本のプロマジシャンの協会である「日本奇術協会」から、ことの経緯を説明して欲しいとの依頼があり、2019年2月4日に東京会館で開催された協会の親睦新年会の席上で名だたるプロマジシャンたちを前に私が講演することになったのであった。

その後2019年2月17~20日にはロサンゼルスに渡米して、島田晴夫師邸に宿泊しながらインタビューと下見に行き、構想を練ったのであった。

そうしたら・・・・・・・・

2020年の2月から長~いコロナ禍が始まったのである。

マジック・ミュージアムの運営もままならなくなってしまい。島田師との約束も果たせない状況に陥ってしまったのだった。

2022年4月下旬に入院中の島田師から電話が入った。「自分は海外で名を成したマジシャンであるが、最後は日本に自分のミュージアムを造りたいと思っていた。坂本さんとの縁によってその夢が実現できると思っていた。私の命はまもなく尽きるが、今後のことはキーリーと相談してほしい」との遺言を託されたのである。

マジック・ミュージアムを造ったのも、ジミー忍師の遺言であったことを考えると、私にはマジック界に貢献しなければならない宿命があるのかもしれないと考えたのである。

私が帯広の自社ビル内に造ったマジック・ミュージアムの展示品は全て、留寿都村のルスツ・リゾートに寄贈した。

ルスツ・リゾートを運営する加森観光㈱の加森公人氏との縁で、ルスツにマジック・ミュージアムを造ることになったのである。

2022年10月17日、東京の如水会館で「島田晴夫先生を偲ぶ会」が開催され、全国各地から島田師を慕うマジック関係者が集まった。キーリー夫人も来日するので、この機会にとルスツリゾートとキーリーさんとの縁を繋いだのである。

それが今回実って、私の誕生日に契約を締結できたというのも何かの縁であると感じた。

ルスツリゾートのマジック・ミュージアムは今春に完成する予定である。「島田晴夫コーナー」が出来ることで私も島田師との約束が果たせることになった。

とても嬉しい誕生日プレゼントとなった。


■2024-01-30-Tuesday 地位と肩書

世の中には地位とか肩書とかをやたらと欲しがる人がいる。

その地位に就いたり肩書を得ることで、何らかの目標や目的を果たすというのであればまだしもだが、そんなものなど何も無くて、ただ地位や肩書だけが欲しいという御仁がいることが、周りの人々を不幸にする。

そういう御仁には、立ち回りだけが上手くて、その地位や肩書に相応しい実力が伴っていないケースが多いからだ。

ましてや、もちろんのこと「志(こころざし)」なんてものはかけらも存在しない。

以前にこのブログにハンナ・アーレントの「凡庸な悪」について書いたことがあったが「凡庸な悪」とは自分には悪いことをやっている自覚がまったくなく、上司などの命令にただ盲目的に忠実に従っていると結果的に悪事を働いていることになってしまうことを言っている。

それと同じことで、地位や肩書に就いたことだけで満足して、その地位にふさわしいことを何もしないのは社会「悪」であると思う。

そういう人物がトップになった組織は、それこそ、リーダーシップなどありはしないのであるから、遅かれ早かれ悲惨な結末を迎えることになる。

あえて何処の誰とは書かない。

人それぞれによって、当てはまると思われる人間があちらこちらに散見できることであろう。


■2024-01-31-Wednesday 桐島聡

桐島聡が29日朝に死んだとのニュース

本名を名乗ってから、ほんの数日で死んでしまった。もう少し早くに名乗り出てキチンと証言すれば良かったのに・・・、どこまでも迷惑を掛ける人間だなぁ。

それでも少しなりとも分ったこともあるようで、内田洋という偽名で、神奈川県藤沢市内の工務店で数十年にわたって働いていて、住居は工務店から数キロ離れた古い共同住宅だったという。

偽名が「内山田洋とクールファイブ」のリーダーと似ていることに何か意味があったのであろうかなぁ?

桐島聡の手配容疑というのは、1975年4月に中央区内の韓国産業経済研究所の入り口付近に爆発物を仕掛け発動させたという「爆発物取締罰則違反」の罪で、関与がこの事件だけならば数年の刑で済んだのであろうが、余罪があれば死刑もありえる罪だという。これだけ逃げ回ったことを考えると死刑もありえる余罪があったのであろう。

時効が停止になっている理由は、東アジア反日武装戦線の他のグループの共犯者がいまだ海外に逃亡しているためだという。そういえば何年か前に「超法規的措置」とかで、捕まっていた過激派の大道寺あや子らが海外に出た事件があったなぁ~。

遺族が桐島聡の遺体の受け取りを拒否しているというが、そりゃそうだろうなぁ~。桐島の家族にしてみれば、もう世間からは忘れられた存在だったのだから、名乗らずにひっそりと死んでくれていれば、家族のことなどほじくり返されなくて済んだのに、なんて余計なことを・・・と思っているのであろうなぁ。

桐島容疑者は1954年1月に広島県の名家に生まれ、尾道の高校から明治学院大学に進学したという。過激派組織「東アジア反日武装戦線」の思想に共鳴し、同戦線の「さそり」グループのメンバーとして活動したという。

大学では映画研究会、同和研究会に所属するも、すぐに退部。その後、東京・山谷の日雇労働者らの「越年資金闘争」に参加。東京都や台東区らを相手取り、闘争に明け暮れていき、この闘争の場で、ほかの「さそり」メンバーと知り合い意気投合したとみられるという。

この当時は学生運動が盛んであった。左翼の過激派学生たちが日本に共産主義革命を起こそうとしていた。

桐島聡は最後に「後悔している」と言ったというが、いったい何を後悔したのであろうか?

皮肉なことに、その後の日本は、世界で一番マルクスが理想とした国家に近い国になったと言われているし、現代の世界を見渡せば、ソ連は崩壊し、中国は共産主義国というよりは、単なる独裁国家に変貌している。

内ゲバで仲間たちを殺し、理想とした国は無くなり・・・・

公安や警察から逃げ続けて、いつ捕まるかとビクビクしながらの50年間、身分証明書が無いから、満足な仕事には就けないし、満足な生活などもすることが出来ない。ましてや自分のアイデンティティを消しながらの生活というのは、虚しく決して幸せな生活ではなかったろう。

惜しむらくは、どうせ死ぬのなら、この間の心情を全て公にしてから死んでもらいたかった。ただそれだけである。