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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-08-01-Sunday ゴルフ

このところ来客や出張が続いて

ゴルフは7月15日以来やっていない。

来週もいろいろな行事が続くので、この辺りでゴルフをやっておかないと実戦感覚が悪くなると思ったので、十勝カントリークラブの月例会に急遽、参加申込をしたのだ。

1日午前7時のスタートである。天気は曇りであるが、湿度と温度が高くて汗が止まらない。

同伴競技者のハンディは3.7と10.1と11.3と私が8.7の4人である。Aクラスはバックティからのプレーだ。皆、ものすごく飛ばす人達で、普段は飛ばす方だと思っている私が20〜30ヤードも置いていかれる。230ヤードを4番アイアンで打てるなんてプロ並の飛距離でうらやましい限りだ。こちらは同じ距離を3番ウッド、スプーンで打つというのに・・・。しかし、緊張感のあるゴルフもなかなかよいものだ。

虫が多いのにも辟易である。身体中に虫除けスプレーをかけたがまるで効き目がない。

イン・スタートの11番でパットをしようと構えたら左手の甲をアブに刺されて、仕切り直してから何だかパットがオカシクなってしまった。

蚊であろうと虻であろうと、痒くならない(病気をうつさない)のなら、何ぼでも血くらい吸わせてやるものを・・・。例え1000匹の蚊に血を吸われても、献血よりも少ない量だろうから。

10mくらいの超難しいラインがスコンと入ったり、30cmを外したりとまるで安定しなかったのだ。スコアはインコースが41打であった。

後半になると、ドライバーも曲がり出して後半は44打とガタガタに崩れてしまった。

汗をかき過ぎて、シャツもズボンもグチャグチャである。熱中症にならないように気をつけなければならないなぁ〜。


■2010-08-02-Monday ニュースから

最近、同じような事故が続いている。

小型飛行機とヘリコプターの墜落事故のことである。

小型飛行機の事故は、6月13日に茨城県、7月25日に長崎県、7月29日に北海道で起きているし、ヘリコプターは7月25日に埼玉県秩父、8月1日には熊本県で起きた。

この種の航空機事故は続いて起きる傾向があるように感じるのだ。事故のシンクロ二シティなのだろうか?

この種の事故が起きた時には、整備士は点検はいつもよりも厳重にするだろうし、パイロットも操縦は慎重に行うのではないかと思うのだが、何故に続いて起こるのだろうか?

大阪で23歳の母親が育児放棄をして3歳と1歳の2人の子供を死なせた事件があった。

23歳で3歳の子供がいるということは、19歳の時にイタシタ行為で出来た子供ということだ。

離婚したというが、旦那の方にも責任があるだろう。女性に子供を押しつけて離婚して、後は知らぬ顔というのは無責任過ぎる。

育てる気がないのならお互いに生SEXなんぞしてはいけないだろう!

生んだ以上はキチンと育てるべきだ。

こんな小さい子供をマンションに置き去りにする神経が理解できない。放置したらどうなるかなんて判り切っていることだ。この母親には殺人罪を適用してもよいのではないかと思う。

親と上司は選べないと言うが、実に可哀相な子供たちである。

杉並区で113歳のおばあさんが死んでいたという。これまた先の足立区の111歳のおじいさんと似た様な事件だ。生きてるか、死んでるかなんてすぐに判りそうなものだが、明らかに区役所の怠慢であろう。

こんな事件は続いて欲しくはないものだ。


■2010-08-03-Tuesday ニュースから2

今日の新聞にも同じ様な事故の話が載っていた。

北海道の日高山脈のヌカビラ岳で12人の登山パーティから救助要請があったとのニュースだ。

最近、この種の山岳事故が多過ぎないか?

昨日書いた、埼玉県秩父のヘリコプター墜落事故も山岳救助中の事故であった。

今回のヌカビラ岳の近くのトムラウシ岳では、丁度1年前に中高年の登山者の山岳事故があって、ついこの間慰霊祭が行われたばかりだというのに・・・。

このヌカビラ岳も12人の内8人が50〜60歳台の中高年の客で、4人の山岳ツアー会社のガイドが付いていたというが・・・。

このツアー会社はまるで先のトムラウシ岳の教訓を生かしていない。

なにせ、登山口にあるゲートが通行止めで鍵で閉鎖されていたというのに、札幌で購入した合鍵で開けて無断で入ったというのだ。

通常、このゲートを通るには事前に申請が必要で、申請して鍵を受け取るシステムになっているとのこと。このゲートは27日から危険の為、通行禁止にしていたという。

中高年の定年退職してから趣味でハイキングを始めたような素人を連れて、このような行為をするとは、生命を何と軽視している会社であろうか。このような危機管理能力が著しく欠如している会社には、今回の救助に掛かった経費を全額請求するべきだ。

自然の恐ろしさをまるで理解していない会社が山岳ツアー会社をやっているなんてとても信じられないことだ。


■2010-08-04-Wednesday 山本薩夫監督

一昨日と昨日NHKのBS放送で、

日本映画の「金環蝕」と「不毛地帯」を見た。

どちらも今年生誕100年を迎える山本薩夫監督の作品である。

最初は見るつもりがなかったのに、見始めたら面白くなって最後まで見てしまったのだ。

見ている内に、どちらの映画も映画館で見た記憶があることを思い出した。「金環蝕」が昭和50(1975)年、「不毛地帯」が昭和51(1976)年作品と表示されていたから、たぶん帯広劇場で見たのだと思う。

当時、父が帯広劇場の株主で、毎月何枚かの株主無料招待券が送られてきていたから、東宝系の映画は「社長シリーズ」「若大将シリーズ」「ゴジラ」等などの映画を映画好きだった父に連れられてほとんど全て見ているのだ。

公開時、私は高校3年生と大学1年生の時ということになるから、現代政治には関心が薄かった当時としてはつまらない映画であったように思う。石川達三原作の「金環蝕」は内容もほとんど覚えていなかったが、最後の方で高橋悦司扮する新聞記者が殺される場面を覚えていた程度であった。

映画の初めに「この映画はフィクションであり、登場する人物には特定のモデルは存在しません」というような断わりが出るので笑ってしまった。

登場人物の名前は変えてあるものの、役者がモデルと思しき政治家にソックリなメーキャップをしているのだから・・・。

高校3年生の時には政治家の顔なんぞ知らないからつまらなかったのだろうが、今見ると、ア〜これは池田隼人だな、これは佐藤栄作だな、これは田中角栄だなとすぐに判る。

この歳になって改めて見てみると、政治や経済のドロドロした内容がとても面白く感じたのだ。やはり、映画は見る年齢にも左右されるものだとつくづく思う。

「不毛地帯」は小説の方が面白くて4巻買って読んだものだが、昨日の映画の方も改めて見てみると面白かった。

山崎豊子の小説には現実のモデルが存在していることは有名な話だが、仲代達矢演じる主人公、近畿商事の壱岐正のモデルが瀬島龍三だということは当時から言われていたことだし、田宮二郎が演じた東京商事の鮫島辰三のモデルは、かのロッキード事件の時に登場した日商岩井の海部八郎だと言われている。

同じ山崎豊子の小説で映画化された「沈まぬ太陽」の中にも瀬島龍三と思しき人物が登場するが、山崎豊子は瀬島龍三が嫌いだったのだろうか?

この山本薩夫監督の2本の映画に描かれているものは、政治家の汚さや商社の汚さであるが、誇張して描いているのか、それとも実態なのか?

こんなものを見てしまったら、ますます政治不信に陥ってしまう。

昨今の政治家の金の問題にしても大なり小なり似たようなことを繰り返しているのだろうか?

こんな事は小説や映画の中だけにしておいてもらいたいものだ。


■2010-08-05-Thursday とかちむら

昨日、帯広競馬場で「とかちむら」のプレオープンが行われた。

「とかちむら」は帯広市単独開催になった「ばんえい競馬」(以前は北見、旭川、岩見沢、帯広の4都市で開催されていたが2007年から帯広市単独開催になった)を賑やかにする為に出来た複合商業施設である。

競馬というとギャンブルというのが、すぐに頭に浮かんでしまう。

私もそうだが、ギャンブルが嫌いな人は、競馬場には行ったこともないという人が多いので、そのギャンブルの暗いイメージを打破する為に造られた施設だ。

ばんえい競馬をやらない人達にも来場してもらおうということだ。

「とかちむら」は飲食・スィーツ・物販の3部門からなる。

設計に携わったのが沖縄の名護市庁舎の設計で有名な「象設計集団」である。社長の町山さんが今年2月初旬に我が社を訪ねて来て「とかちむら」のコンセプトに「北の屋台」のコンセプトを活用したいので教えて欲しいとの依頼を受けたのが縁で昨日のプレオープンにご招待をされたのだ。

一言で言うと、さすがは、象設計である。これまでの帯広にはなかった洒落た空間が出来た。落ち着いた雰囲気と寛げる空間設計が心地良い。これならばんえい競馬以外の人も行きたくなるだろう。

惜しむらくは、足である!

公共交通機関が無いから、移動手段が不便なのだ。帯広競馬場は帯広の街中に存在する競馬場であるが、駅から歩いて行くには30分近く掛かるし、駅と競馬場の間の道は殺風景で一寸遠くて暗い。

お酒を飲ませるからには自家用車で移動させるのは一寸つらいだろう。この種の施設は観光客目当てで運営すると、観光のオフシーズンの営業が辛くなるから、地元客に多く利用してもらう必要があると思うのだ。

駅と中心部と競馬場を無料で循環する小型バスを運行させるような工夫が必要だと思う。

帯広市も批判は出るだろうが、中途半端な支援ではなく。帯広の馬文化を守る為に必要だとして、積極的に支援してあげなければ、せっかく造った施設が生きてこないだろう。

「とかちむら」を帯広の名物にするくらいの意気込みでやってもらいたいものだ。


■2010-08-06-Friday アンケート調査の是非

最近、政治に関するアンケート調査がやたらと多過ぎやしないだろうか?

内閣の支持率が何%だの、政党の支持率が何%だのと、新聞、テレビなどのマスコミ各社が毎月のように発表しているが・・・。

どこの社の結果も概ね似たような数字になるのだから、こんなに各社が一斉に、しかも頻繁にやる必要が果たしてあるのだろうか?

最近の日本の首相がたったの1年しかもたないのと、アンケート調査が頻繁化したのには相関関係があるのではないかと感じている。

国民の意見を聞くのは決して悪いことだとは思わないが、政治家がアンケートの結果を気にし過ぎて、それによって意見が左右されるのは、ポピュリズムに繋がるのではないかと危惧している。

その結果、手短な国民の人気取り政策に偏ってしまい、長期的な(国民に不人気だが必要な)政策をないがしろにしてしまっては日本国が国として成り立たなくなると心配しているのだ。

どうも大衆はブームというのか、雰囲気というのか、何となくの気分に流され易いし、自分に直接利益になることに流され易い傾向にあると思うのだ。

せっかく何十億円もの多額の費用を掛けて選挙をおこなって政治家を選ぶのだから、国民の負託を受けた政治家は、その任期中は信念を持って政治にあたってもらいたいものだ。

いちいち、国民の目を気にしながら人気取りの政策やパフォーマンスばかりをやられたのでは選挙の意味がなくなてしまう。

アンケートで政治をやるなら国会議員なんて必要なくなる。

新しく大臣になると、やれ事務所費の使い方だの何だのと、やたらとマスコミの追求が厳しくなるが、政治家は、「李下に冠を正さず」で疑われるような行為はしてほしくない。

普段からキチンと会計処理しておくのは、税金で活動しているのだから当たり前の話である。

発覚すると「秘書が・・・」と言い訳して逃げるが、そんな秘書を雇っているのは他ならぬ政治家本人なのである。

政治家には国家を運営するという大きな仕事があるのだから、事務所費の使い道なんて細かいところまで政治家がいちいち目を通すことまでは必要ないと思うが、任命する秘書に、オカシナことは絶対にするなよと厳命することはできるだろう。

自分の秘書すらまともに使用できない人間が、国家を動かせるはずもないだろうと思う。

政治家に対する国民・マスコミの態度も考え直さなければならないだろう。

今の日本人で政治家を尊敬できるという国民がいったい何人いるだろうか?それこそアンケートを取ってもらいたいと思う。

職業に貴賤は無いと言うが、政治家という職業を賤業にしてはいけないと感じる。


■2010-08-07-Saturday 7日の深夜は

7日(土)の深夜に、

札幌のテレビ局HTBで「朝まで生テレビ」の北海道版「朝まで生討論」に出演する。

5日の十勝毎日新聞の記事でも、私が出演することが報じられたし、HTBの番組内で事前の告知が行われ、私の顔写真が一瞬映っただけなのにそれを見た方から「頑張ってね!」との励ましの電話を頂いたりした。

今回の司会は全国版と同じ田原総一朗氏、有名な出演者としてはジャーナリストの手島龍一氏、ホリエモンこと堀江貴文氏、政治家の町村信孝氏、北大教授の山口二郎氏ら私を含めて11名である。

討論の題材は大きく次の3つで①民主党政権と北海道、②北海道はどんな地域を目指すのか?、③北海道の成長戦略 である。

付け焼刃の理屈を言っても見透かされるだけだし、かねてからこのブログにも書いている持論を展開するしかないだろうと考えている。

北海道新幹線や開発局の問題などで、ストレートに表現すると政治家には反発されるだろうなぁ〜。

しかし、人口が増えていた時代の田中角栄の列島改造論の「国土の均衡ある発展」政策を切り変えずに、これからの人口減少社会にあてはめようとしても無理があるというのが持論だから、そこはシッカリと述べてみたい。

北海道は、人の住む場所と農業や酪農をする場所、それと自然を残す場所とのメリハリをつけていく必要があると思うのだ。

北海道の隅々や山の中にまで、インフラ整備をする必要はないと思うのだ。

高速道路はこれ以上外側に延ばす必要はないと考えている。内側で繋ぐだけにとどめておいた方が良いだろうと思う。

まぁ、他人の話も聞きながら、議論が交わせたら良いと思うことにしよう。


■2010-08-08-Sunday 朝まで生討論

ウ〜ン言いたいことの十分の一も発言できなかったなぁ〜。

札幌に昼に到着する列車で行って、「馬鹿(うまか)もん」に参加してもらっている北の屋台出身の中華料理店の「順香(しゅんしゃん)」に寄って昼食を取り、「馬鹿(うまか)もん」の今後について説明をしてきた。離れているとなかなか連絡が上手くいかないから顔を出してコミュニケーションしておくことが必要なのだ。

札幌はこの日も蒸し暑い天気で路上を歩くと汗が滴り落ちてくる。14時半にホテルに入ってシャワーを浴び、睡眠導入剤を飲んで21時くらいまで眠ることにしたが、ああ言おう、こう言おうと考えていると頭が冴えてきて結局一睡も出来なかった。

ゆったりとお風呂に入って気分を一新し、夕食を取りに出ようかと思ったら今度は外は大雨、洋服が濡れても困るので夕食を取るのも止めて資料に目を通すことにした。

23時にホテルから平岸にあるHTBの社屋までタクシーで向かう。

メークアップをしてもらい控え室へ、出演者が集まり出してくる。

24時から出演者の自己紹介と簡単な打ち合わせ、この種の討論会は大体の流れしか打ち合わせしない。事前に話し過ぎると本番がつまらなくなるからだそうだ。

本番のスタジオ入りするが、中が暑い。クーラーがあまり効かないようだ。

最初は政治の話だから、政治家以外の人間は話すことがない。農業の話になって私にも発言が振られてきた。

農業から地産地消、そして北の屋台へと話を展開しようと思ったのだが、話の途中で切られたり、割り込まれたりして、話が思う様に続けられない。

再び観光のところで振られてきたので、ここでまた自分のやってきたことを交えて話をしようと思ったのだが・・・。

もっと、強引に自分の話をしなければ、この種の討論会ではダメなんだということは判っているが、どうも他人の話に割って入ることが不得手なのだ。「他人の話は最後までキチンと聞きなさい」という風に育ったものだから・・・。

司会の田原総一朗さんも随分私に話しを振ってくれるのだが、すぐに他の人に割り込まれて話が別の方向に行ってしまう。

やはり、少しズーズーシーくらいでなければダメなのかなぁ〜。

自宅で妻が寝ないでテレビを見ていたようで、終わってから電話で「何故、あそこで話に入っていかないの!」「チャンスは何回もあったのに!」と私の姿勢にもどかしさを感じたようだった。

私ももう少し妻との会話で妻の話を遮れるようにならなければ・・・。

まぁ、私としては初めての経験だし、これで雰囲気も対処の仕方も学んだので、次回はもう少し話が出来ると思う。

普段行っている講演会は90分間自分のペースで話せるが、こういうテレビの討論会は短く的確に且つ面白く言わなければならないし、相手がいるから自分の組立て通りにはいかないものだ。

話の内容も政治の話が多く、農業問題も観光問題も北海道特有の状況には深く入っていけなかったように感じた。

もう少し、北海道の特殊な話を際立たせても良かったかなと思う。

多少の欲求不満は残ったが、今回は本当に貴重な経験をさせてもらい、とても勉強になった。ありがたいことである。


■2010-08-09-Monday 朝まで生討論2

真夜中の番組なのに結構大勢の方が見てくれたようだ。

いろいろとお叱りやら慰めのメールが届いた。

一番多かったのが、北海道の話が少なかったとの指摘だ。それは私も感じていた。確かに中央の政治の話が多くて北海道の諸問題に触れる時間が少なかった。

司会が田原総一朗氏だから、どうしても中央政界の話になってしまったようだ。

ある友人からは、司会を手島龍一氏にした方が良かったのではないかとの指摘もあった。

私も、手島氏や寺島実郎氏のように北海道出身者で世界的に活躍されている方を入れた方が北海道の未来の話をするには良かったかなぁ〜と感じた。

私への感想は「もっと話に割り込めよ!ホリエモンに負けているぞ!」との指摘が多かった。

北海道の実情を知っているからこそ、常識的な発言しか出来なかった部分がある。常識を踏まえた上で、あえてそれを逆手に取る発想をするのが私の方法なのだが、あの短い時間の中ではそこまで話が辿り着く前に他人に割って入られてしまうから、常識的な数字の話や一般論をしたところで私の話が終わってしまって、普段の私を知っている方は、もどかしい感じがしたのだろうと思う。

やはり、まず自説を述べてから、説明に入る手法でなければいけないのだろうが、そうなるとテレビを見ている方にしてみると乱暴な意見に聞こえてしまうのだろうと感じる。普段の討論と違ってテレビというものはなかなか難しいものなのだ。

3時間というと、やる前は長いなぁ〜と思っていたが、実際にやってみるとアッと言う間に終わってしまった。11人という人数は多過ぎるかもしれないなぁ〜。

一日経ったが、なんだか身体がダルイ。慣れないことをした緊張感と徹夜が身体のリズムを狂わせているのかもしれない。そこにこの暑さが追い打ちを掛けているようだ。


■2010-08-10-Tuesday 飲んべ親父の会

帯広青年会議所OBの酒好きが集まって、

飲み会やらゴルフコンペなどをする会があり、私もこの会に入っている。

10日はゴルフコンペとその表彰式と称する飲み会があったので参加した。

天気予報では帯広は曇りであったのだが、朝から快晴で、気温も30℃まではいかなかったが、かなり蒸し暑かった。

汗かきの私は、すぐに全身から汗が噴き出てきて、スポーツタオル2本がビチャビチャになるほどの量の汗をかいた。

以前のこの会は、ビールを飲みながらゴルフをラウンドしていたのだが、道路交通法の飲酒運転の罰則が厳しくなってからは、スポーツドリンクを飲みながらのプレーになった。その分、表彰式で美味しいビールが飲めるというものだ。

去年まではゴルフのスケジュールを最優先していたから、去年のこの時期にはすでに25回のゴルフをやっていたのだが、今年は今日で13回目と、去年の半分しかプレーしていない。

雨降りは嫌だ、強風は嫌だ、暑いのは嫌だと、もともと私は我儘なプレーヤーだから、今年は雨降りと暑い日が多いからプレー回数が少ないのだろう。

この日はシングルぺリア方式のプレー方法なので、上がってみなければハンディが判らない。

帯広国際カントリーの東コースと中コースを回ったが、回数が少ない割には良いスコアで回れた。東は42打、中は2番でOBを打った後から奮起して3番から7ホール連続パーで上がって39打であった。

ドライバーの調子が悪かったがアイアンが切れてほとんどパーオンしていく、5〜8mくらいのバーディパットが残るのだが、グリーンが重くてことごとく30㎝ほどショートしてのパーばかりであった。

表彰式では、私のハンディが4.8になってしまい、残念ながら入賞は出来なかった。

ビールや焼酎が美味しくて、ガブガブと飲んでしまい。身体も汗で乾いていたのか、ドンドンと入って行く感じである。

歩いて帰宅したのだが、自宅目前で突然に膝がガクッと折れて道路にゴロンと転がった。

酔っ払っていても運動神経が良いからか、丁度、柔道の受け身みたいな感じで上手く転がってスッと立てたのであった。

帰宅してからなんだか急激に酔いが回って来て完全に酔っ払ってしまった。

昼間にゴルフをやって夜に酒を飲むと酔い方が激しくなってきた。身体が疲れていたのだろう。やはり、もう若くはないなぁ〜。


■2010-08-11-Wednesday 海外旅行

アメリカで海外旅行中の日本人ツアーが交通事故にあった。

9日の18時40分(現地時間)にユタ州の高速道路で、日本人ツアー客14人と運転手1人が乗ったバスが中央分離帯に接触して横転し、3人が死亡、12人が怪我をしたという記事が新聞に載っていた。

運転手はアメリカの大学に通う26歳の日本人の学生で本人は軽傷とのこと。

現場は直線道路で当日は道路も乾燥しており、ブレーキ痕もないことから「居眠り運転」か「脇見運転」の可能性が高いとのことだ。

私も何度か、アメリカで運転したことがあるが、アメリカの道路は比較的運転がし易い。道路幅が広いし、直線道路が多いからだ。

だが、巷間言われる様に、直線道路は単調で「居眠り運転」を誘発し易いという欠点があるという。

それでも、私が運転した時は、私の脳みそは時差ボケでさぞや眠たかっただろうに家族や知人を乗せている緊張感と見知らぬ道路を運転している緊張感が重なって、眠気など微塵も感じずに1日で600㎞も運転したものだ。妻や子供達は車の中でグッスリ眠っていて、現場に着いたら起きてくるが・・・。

それにしても、ニュースを見ると、大手旅行会社の「日本旅行(8)」「近畿日本ツーリスト(2)」「IHS(4)」の3社で14人の旅行客を、孫請けの現地ツアー会社に任せて案内させている実態を見て愕然とした。

26歳の日本人学生が運転手というのでは、非常に心もとない。詳細はまだ判明していないが、この学生は夏休みのバイトだったのではないのか?

第一、ガイドなんてできるのだろうか?

おそらく、海外旅行の実態なんてこんな程度のものなのだろう。事故が起こらずに無事に戻って来られる方が圧倒的に多いのだろうが、実はヒヤヒヤものだったということがあるのではないだろうか。

旅行費用を安くする為に素人同然の人間に運転手やガイドを任せるのだとしたら問題だ。

参加する方だって、そんな危険があるから料金が安いとは思ってもいないだろうし、業者も「安い分危険だ」なんて事は事前に告知はしないだろうから。

今回も運転手が軽傷で済んだのは本人が事故を起こす直前に身構えているからだ。客は安心して眠っていただろうから事故に備える暇がなかったことだろう。

巻き込まれ型の事故ならベテランの業者でも防ぎ様がないかもしれないが、自損事故はいただけない。

日本でも、運転手の給料を安く抑えて酷使するから、運転手の疲労が溜まって事故を起こすということが、これから増えるだろう。

デフレ経済は生命の危険を承知の上で安さを認めているのではない。

客の生命の安全は、値段が安かろうが高かろうが、価値に変わりはない。


■2010-08-12-Thursday 風向計(読売新聞)

読売新聞北海道版「風向計」2010年8月12日掲載

「人口減」目を背けるな

帯広市の人口は2000年の17万5105人をピークに減り始め、08年には遂に17万人を割り込み、今年6月末には16万7387人になった。

2000年度からの「第五期帯広市総合計画」では09年の帯広市の人口を18万8000人と想定した。計画策定の会議に出席していた私は「統計上から見ても、今後帯広市の人口は減ることはあっても、増える要素はない。想定人口と実際の人口とにこれだけ乖離が出てきたら、これから立案実行する計画との間にギャップがあり過ぎて、政策自体が無意味なものになりかねない危険性がある。素直に人口が減ることを想定してはどうか」と提案した。だが、「人口が減るなんて縁起でもないことを言ってはいけない」「もしかしたら増えるかもしれないではないか」という意見が出て却下されてしまった経験がある。

今年度からの「第六期帯広市総合計画」では19年の想定人口を「概ね17万人」と第五期よりは減らしたものの、増やそうとしていることに変わりはない。

帯広市議会では「人口維持はまちづくりの根幹」として、「人口減、少子高齢化は不可避ではなく政策的・政治的課題」「増加を目指す姿勢で目標設定を」「市の本気度が足りない」などの意見が与野党双方から出ているとのこと。

会議がまるで、「言霊」に支配されているかのようだ。人口減は不吉なことなので口にするのもはばかられる、とでも言いたげな印象すら受けるのだ。日本全体の人口が右肩上がりに増えていた時代の拡大政策と、減っていく時代の縮小政策では、ベクトルの方向性は逆のはずなのに・・・。

設備は造ったらお終いではなく、維持していく保守費がかかる。減っていく人口では膨大な費用を払っていけない。いつまでも、列島改造論時代の「地域の均衡ある発展」政策を実行できる訳がない。

北海道では札幌近郊への一極集中が指摘されているが、将来的には札幌も人口が減ると推測されている。地方の村落はすでに高齢化社会になっているが、団塊の世代が大勢流入している札幌近郊でも、ここ数年で急激に高齢化社会になることが予想される。

病院・学校・商店などはある程度の人口数がなければ成立しないから、これまでの仕組みの延長線上で考えていては運営するのに無理がある。一刻も早く頭を切り替えなければ、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。人口減少社会を前提としたコンパクトシティ化を進めた方が、活性化を維持し、観光や視察に訪れる交流人口を増やすことにも繋がるだろうと思うのだが・・・。


■2010-08-13-Friday 鳩山前首相

鳩山前首相がオカシイ!

このオカシイは「可笑しい」でもあり「変だ」という意味でもある。

もともと「宇宙人」と言われていたくらいだから、常人とは思考回路や行動が異なるのだろうが・・・。

首相を辞めたら政界を引退するとハッキリと堂々と公言した人が舌のネも乾かない内に前言を翻し、ロシアとの外交に力を入れるとのたまわって恥じない神経は私にはまったく理解不能だ。

首相を辞めてからテレビに映る姿を見ていると、以前にも増してキョロキョロと目が定まらないし、言動があまりにも軽過ぎる。

菅首相を支持すると言ってみたり、かと思ったら批判してみたり、更には小沢派と組んで追い落としを画策しているかの様にも報道されている。いったいアンタはどっちなんだ!

この方はひょっとして精神を病んでおられるのではないだろうか?

ロシアと北方領土返還の交渉をするとか言っているが、自ら火を着けた沖縄の普天間基地問題は解決したのか?首相を辞めたらもう関係がないのか?

あまりにも無責任過ぎるだろう。

こんな無茶苦茶な超無責任人間に北方領土返還交渉という重大な問題なんぞ任せられる訳がないではないか!

もし、菅首相が、民主党代表選挙での鳩山派の票欲しさに、鳩山に外交を任せたとしたら、民主党は日本国民から完全に見放されるぞ!

政治家にはもっと、日本の国益の為に政治をやってもらいたいものだ。

鳩山由紀夫よ、潔く政界を去れ!アンタは見苦しいだけじゃなく、日本の国益を損ねる存在だ!


■2010-08-14-Saturday お盆あれこれ

お盆前に墓掃除に行こうと思っていたが、

スケジュールが詰まっていたり、行こうとしたら雨が降ったりで、結局13日まで行けずにいた。

正午頃に母と子供達を連れてお墓まで出掛けたが、前日が台風接近の為の大雨だったので、前日に行けなかった人達でお墓は大混雑であった。

しかも、運転が下手な人が多いのか、墓苑内で衝突事故を起こしてパトカーが来ていたりして更なる渋滞を引き起こしていた。

墓苑内の道路も狭いのに両側に駐車しているから行き交う車が往生している。どうも帯広の運転手はマナーが悪いようだ。

外は快晴で気温も30℃を超えている。汗だくになりながら、我が家と妻の実家のお墓を掃除してお参りをした。

私の祖母が生前に音更のすずらん公園に、お地蔵さんを寄進しているので、そこにもお参りしに行ったのだが、帰りの道は、勝毎花火大会があるので、各地から来ている車が一杯で、音更から帯広に入るのにも大渋滞をしていた。今夜の観客は多そうだ。

家の近くの長崎屋のファミリーレストランで食事して、母が買い物がしたいと言うので荷物持ちをしに同行する。

母は扇風機が欲しいというが、この暑さで帯広中の電気屋から扇風機が無くなったという話を聞いていたので、もうないだろうと思ったが、行ってみたら案の定1台も無かった。

スーパーで食材を買った後に自宅に戻る。一服してから会社に戻り、明日から始まる「北の大地de大道芸フェスティバル」に参加する大道芸人を迎える。今年は9組の精鋭が来ているのでとても楽しみだ。

17:30から家族で十勝川の河川敷の花火大会会場に向かう。大会関係者の発表によると来場者数は帯広市の人口よりも多い18万人だ。

打ち上げ数2万発で、「スマ・ステーション」だかという香取慎吾が司会している番組の花火大会のランキングで日本第2位にランクされたので全国各地から見物に来ているのだ。

確かにものすごい人数だ。帯広に毎日、これだけの人が居たら・・・。

やはり花火は真近かで見るのに限る。遠くで見るのもまた良いが、光と音の差が気になる。真近かで見ると首が痛くなるがやはり迫力が全然違う。去年は天候で1日開催がズレたので会場では見られなかったから1年振りに素晴らしい花火を堪能した。

花火の終了後に戻るのがこれまた大変だ。

さすがに18万人が一斉に駅の方の繁華街に向かって歩いて行くから、道路が人・ひと・ヒトで溢れ返っていて、少しも前に進まない。これが疲れるんだよね〜。

夜の繁華街はどこの店も満杯だろうから自宅に戻ってビールを飲んで寝ることにした。

何だかこの日は歩きづくめでとても疲れた〜。


■2010-08-15-Sunday 大道芸

十勝毎日新聞2010年8月14日掲載

「ノリ」よく盛り上げ楽しんで

さぁ、今年も大道芸の季節がやって来た!帯広の大道芸は今年9回目(北の大地で大道芸フェスティバルとしては7回目)を迎え、すっかり夏の風物詩として定着してきた。

2002年にたった1組の「ファニーボーンズ(当時はクリスピークリス&キャプテンケーボーと名乗っていた)」からスタート。今では小規模ながら、すばらしいパフォーマーたちが訪れる日本有数の質の高いフェスティバルに成長している。

芸人たちも帯広に来ることがとても楽しみだという。その理由の一つは「観客の質が高いからだ」そうだ。大道芸は芸人と観客が一体となって作りだす路上のエンターテインメント空間なので、観客も芸を見るだけではなく、場を盛り上げる”ノリの良さ”が重要になる。芸人から「お手伝いを!」と頼まれたり、芸の中でいじられたりしたときは恥ずかしがらずに快く対応してもらいたい。そうすれば、もっと楽しく見ることができると思う。

大道芸には劇場という箱がない。いわば路上の空間すべてが劇場だ。箱がないから見る前に入場料という決まった金額を前払いすることがない。

大道芸の最大の特徴は「投げ銭(なげせん)」という後払いシステムにある。

「投げ銭」とは演技が終わってから、見ているお客がお金を出すことを指す。出すも、出さないも、金額の多寡も観客の自由だ。これはスゴイ芸だと感心したら財布ごと全部出したって構わないし、つまらないと思ったら1円も払わずに立ち去るのもこれまたOK。芸の評価を何円に換算するかは客次第なのだ。

欧米の大道芸は芸が終わったら、演者が帽子を持って客席を回るのが慣例になっている。基本的に投げ銭が収入のすべて。この投げ銭集めも立派な芸の一つ。投げ銭を集めることが下手だと、いくら芸がすばらしくても生活ができなくなってしまうからだ。大道芸人は音響係から集金係まで、すべてを兼務しているパフォーマーなのである。

一流の芸人が集まるこの帯広でも路上のパフォーマンスは、この「平原まつり」の時以外では基本的に見られない。ぜひ、この少ない機会に大道芸を楽しんでもらいたいと思う。

「大道芸人殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降れば良い」という戯れ歌がある。平原まつりが開催されるは14〜16の3日間、雨が降らないことを祈ろう。


■2010-08-16-Monday 平原まつり

今年の平原まつりにも雨が降った。

このところ10年ぐらい連続して、平原まつりには必ず一日雨が降るようだ。今年も15日に雨が降ってしまいスケジュールが大幅に変更になってしまった。お天気次第の行事ではあるのだが・・・。

どうやらまつり関係者に強力な雨男がいるらしい。

それも、雷さまが背中にしょってる楽器を演奏する日に限って雨が降るのだから困ったものだ。きっとその楽器を鳴らすと雨を呼ぶのだろう???。

その楽器を激しく鳴らされると音が大き過ぎて、周りでは何も他のアトラクションが出来なくなる。それなのに何故かいつもど真ん中の9丁目広場で演奏するのだから更に困るのだ。

端っこの7丁目とか11丁目でやってくれれば、迷惑の度合いも少なくなるというのに・・・。

この団体の会長氏は、もう少し、他のアトラクションにも気配りする必要のある「おまつり」のポジションにも就いておられる方なのになぁ・・・。

14日と16日は暑過ぎるくらいの天気であった。

帯広の「北の大地de大道芸フェスティバル」は今年で7回目(フェスティバルになる前から数えると通算では9回目)を数えるが、今年参加してくれた大道芸人は、ファニーボーンズ・ダメじゃん小出・クラウンロト・だいち・UN−Pa・GABEZ・RYU・セクシーダビンチ・森田智博の9組11名で、いずれも超一流の芸人ばかりである。

北海道でも札幌や旭川などでも大道芸の催しがあるが、これだけ超一流の芸人が揃うのは帯広だけなのである。他の都市の関係者が「どうして帯広にはあんなにすごい連中が集まるのか?」と視察に来たり、私に秘密を尋ねに来たりするほどなのである。

それもこれも、芸人との信頼関係のなせる技なのだ。

プロマジシャン志望だった私は、芸人の気持ちが良く判るから、彼等とは単なる主催者、若しくは招聘者と芸人という関係ではない。

一緒になってまつりを盛り上げていこうとする同士なのである。

だから、彼ら芸人のネットワーク間で「お盆は帯広の大道芸フェスに行って盛りあげようぜ!」とお互いに認め合う超一流の芸人が誘いあって帯広に来てくれるのだ。

帯広には最初から超一流の芸人しか来ていないから、帯広の観客は一級品の芸しか見ないという贅沢な思いをしている。

他の都市の大道芸も見て、いかに帯広の大道芸が素晴らしいのかを感じてもらいたいと思っている。

また来年も素晴らしい芸人を招聘したいと思っているが、帯広のまつり関係者の中には大道芸にあまり良い感情を持っていない方がおられるようだ。これだけ市民に支持されている催しなのだから、演技する場所などをもう少し配慮してもらいたいものである。


■2010-08-17-Tuesday 衝撃の・・・

昨日で北の大地de大道芸が、

演技者も観客にも怪我など無く、無事、盛会裏に終了した。まずはめでたしめでたしというところだが・・・・。

打ち上げの会で(私にとって)衝撃の事実が知らされた。

来年の大道芸の開催がひょっとすると出来なくなるかもしれないのだ・・・。

帯広の大道芸は2002年8月初旬に旧知のマジシャンから「面白い大道芸人がいるんだが、帯広でも演技を披露させたいので、大道芸をする場所を確保してくれないか?」という一本の電話から始まった。

この面白い芸人というのが現在の「ファニーボーンズ」で当時は「クリスピークリス&キャプテンケーボー」という名前だった。

お盆の前日の13日に帯広入りした彼等と私は一緒に酒を飲んで芸能談義に花を咲かせて意気投合したことが、今日の「北の大地de大道芸フェスティバル」へと繋がっていくのであるから、人の出会いと云うものは正しく「縁」」なのであると感じる。

ご存じない方が多いと思うので、ここで言及しておくが、大道芸は屋台と同じ様に普段の日には道路上や公園などで勝手に演技を披露することが出来ない法律(道路法・道路交通法・公園法)があるのだ。

警察や行政によると、道路は通行する為のもので、商売をしたり、大道芸をしたりする場所ではなく、通行の妨げになるものはやってはいけないという無粋な決まりがあるのである。

東京都は「ヘブンアーチスト」という条例を作って、認可(実技試験)を受けた大道芸人が東京都の指定する広場や公園などで大道芸を披露できる仕組みがあるが、北海道ではまだそれが出来ていない。

帯広では「平原まつり」の期間中は道路から自動車を排除するので、この間だけ大道芸が披露できるのである。

私は、平原まつりの9丁目の担当者に頼み込んで、9丁目の坂本ビル前の一角を確保し、14・15・16日の3日間、クリスとケーボーに大道芸を披露してもらった。

帯広を気に入ってくれたクリスとケーボーとユキナ(彼等の社長兼マネージャー)は翌年から仲間達を誘って帯広に来てくれるようになったのである。以来、今日まで9年間、この大道芸は続いてきたのだ。

それが、実は・・・。

今回、ファニーボーンズは帯広入りする直前までイタリアの大道芸フェスティバルに参加していた。彼等の芸はヨーロッパ人に受けて、来年のヨーロッパ中のフェスティバルからオファーが来たのである。

その開催時期が帯広の「北の大地de大道芸フェスティバル」とまったく重なってしまうのである。

つまり、早い話が「来年、ファニーボーンズは帯広の大道芸を一回お休みして、ヨーロッパ各地を回って歩く」ということなのである。

何が大変かっていうと「帯広に来てもらっている大道芸人さん達は、ユキナさんやファニーボーンズが誘ってくれるから来てくれている」という事なのだ。

ファニーボーンズなしで、果たして来年の帯広の大道芸フェスが開催可能なのか?ということだ。

ウ〜ン、これは困った!

昨日聞かされた話だし、私もまだ頭の中がまったく整理出来ていない。

ファニーボーンズが世界に羽ばたくことはとても嬉しいことだし、またファンの一人としても応援を惜しまない。

帯広の「北の大地de大道芸フェスティバル」も7回目(通算9回目)を数えて、そろそろ自立心を芽生えさせることも必要だろうし・・・。

ウ〜ン複雑な心境である。

さ来年には帯広に戻って来ると言ってくれているから「来年一回だけ休止」するという選択肢もあるのかなぁ〜。でもなぁ〜。

まつり推進委員会の中には大道芸に対してあまり良い感情を持っていない方もおられるというし、一回休止することで・・・・。

ウ〜ン、これもまた・・・。

ビミョ〜だなぁ〜・・・。

14日に勝毎に掲載された「北の大地de大道芸によせて」という私の寄稿文を読んで、「大道芸の見方が判ったよ!」とか「楽しみが倍増したよ!」とおまつり会場で声を掛けてくださる市民の方が多かったから、また近い内に勝毎に寄稿して、市民の方に聞いてみようかしら?(あ〜ら、セクシーダビンチの口調が移ってしまったかしら?)


■2010-08-18-Wednesday すごい反響!

昨日の私のブログを読んだ方から、

すごい数のメールやら電話やらを頂いたのでビックリしている。

昨日のブログには書き切れなかった問題点を今日のブログで書くことで市民が協働して「北の大地de大道芸フェスティバル」について考えていき、今後の運営に生かしたいと思う。

まず大きな問題点を3つ上げる。

①予算面(特に交通費問題):予算は元々少ない中でやりくりしているが、航空運賃の問題が来年発生する。飛行機運賃はお盆と正月には割引料金が無い。これまではJALの「株主優待券」を活用して少しでも安く入手していたが、JALの破綻によって、株主優待券そのものが無くなったから、来年からは高額の正規料金になる。

②マネジメント問題:これまでは、ユキナ&ファニーボーンズに芸人の選定から交渉まで全面的にお願いしていた。来年はファニーボーンズがヨーロッパのフェスティバルに参加する為に日本に居ない。事前の交渉等はともかくとしても当日のマネジメントが可能かどうか?

③まつり実行委員会側の対応:新参者の大道芸を軽視している状況にある。空いてる場所で演技すればよいくらいの認識しかしていない。大道芸は観客とのやり取りが重要な芸であるから、音響が激しい催し物が近くにあると演技ができない。音の出る催しとの場所の調整が必要だが、それがまるで出来ていない。特に急な雨天時の対応が今年は滅茶苦茶だった。また、大道芸が始まる直前まで、他のアトラクション(店が単独でおこなっているもので、事前の大会運営側との連絡調整がまるでされていない)がやっていて、観客や演技者に心配を掛けた。

以上、まずは大きくこの3点が問題になっている。

「平原まつり」という催しである以上は、他のアトラクション(踊り・太鼓・楽器演奏他)と共存していかなければならない点が大きい。

他の都市の大道芸フェスティバルの様に、大道芸単独の催しなら、音や場所の問題は発生しないが・・・。

帯広も大道芸単独でフェスティバル化が出来ないか模索する必要があるだろう。この場合の問題点は、

①資金面:現在の平原まつりから運営資金を援助してもらっている。その分を単独でスポンサーを見つけなければならない。

②開催日時:平原まつりは夏休み期間&お盆の3日間、前日には勝毎花火大会があって集客が見込めるが、別の日程を組めるかどうか?

③開催場所:上記②の場合に開催場所を何処にするか?平原通を使うことが可能か、否か?

④芸人のスケジュール:上記の3点をクリアした場合に、芸人さんとのスケジュール調整が可能か、否か?

ざっと考えただけでもこれだけの問題点が出てくる。

細かい点を考慮し始めたら、問題はもっと、もっと出てくるだろう。

いずれにしろ、早急に今年の反省会を開催して、来年の対策をすぐに始める必要がある。

このブログを読んで、問題を共有してくれた方はどんどん参加してもらいたいと思う。


■2010-08-19-Thursday 大道芸!

お盆が過ぎたというのに、まだ暑い日が続いている。

ここ10〜15年間で十勝の気候も随分と変化しているようだ。以前はお盆の翌日には長袖シャツが必要なくらい寒くなったものだったが・・・。

一昨日と昨日の私のブログを読んで、私に電話を掛けて来た方が数人いた。

中の一人は「平原まつりで今年初めて大道芸を見て感激した。特にファニーボーンズのクリスさんが気に入って、来年も是非見たいと思って、クリスさんに話しかけたら、来年は帯広には来ないと言っていたように聞きとれた。私は英語が得意ではなく、確認したかったので、坂本さんにお電話した」と言う。

しかもその後「クリスさんの目の色は、グリーンだったかブルーだったか?」「クリスさんの髪の毛は金髪か?天然パーマの様だが?」「出身地は?」「年齢は?」との質問が矢継ぎ早に出てくる。

私もクリスとの付き合いは9年になるが、目の色や髪の毛の色などをジックリ観察したことがないので、良く判らないが・・・と答えるしかなかった。

ファンというのはありがたいものだが、フェスティバル当日だけの見学ではなく。フェスティバルの準備段階からの支援もお願いしたい。

何せ、太鼓や踊りや楽器演奏などの芸能に対する感情と違って、大道芸に対してはある種の偏見のような感情を持っておられる方々がお偉方に大勢おられるから、大道芸の扱いが異常に軽いと感じられるのだ。

十勝で芸能活動をされておられる方々の発表の場という性格が「平原まつり」にあることは私も十分に承知している。

私が考える「まつり」は同じ芸能でも「ただ見せる、発表する」、そして「それを、ただおとなしく見学する」ものから、大道芸のように観客と一体となって「場」を盛り上げるタイプの芸能も必要だと思うのである。

帯広の姉妹都市の徳島市の「阿波踊り」の文句に「踊る阿呆に、見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃ損、損」とあるが、「まつり」とは正しく見るだけではなく、一緒に楽しむものでなくてはならないと思うのである。

その点で大道芸というのは、見るだけではなく。観客と一緒になって盛り上げることが出来る数少ない芸能だと思うのだ。

私は大道芸によって、マンネリ化してきた平原まつりに新風を注ぎ込んだと自負しているが、そう考えていない方が多いのもまた事実である。

今回の問題は、まつりを良い方向に向ける為に、市民が一体となって考え、活動するキッカケになってほしいと思う。


■2010-08-20-Friday 大道芸フェスティバル

大道芸に関して十勝からだけではなく、全国各地からメールを頂いている。

こんなに全国各地に私のブログの愛読者がいてくれるとは・・・。

岐阜県と愛知県と奈良県の方からは「初心に帰って、規模を縮小して1組・二組で再スタートしては・・・」というご意見も頂いた。

また東京都と千葉県と十勝の方からは「大道芸サポータークラブを作って会費を集めたり、寄付金を募って運営しては・・・」「ファンクラブを作ってバッジを会員証にし、本番終了後に立食パーティに参加出来て芸人と交流させては・・・」という内容のご意見もいただいた。

十勝の方からは「一回、休止しても良いのでは?その方が次の年に期待が高まるかも・・・」というご意見も来た。

「坂本は何故、大道芸、大道芸と言っているんだ?」「まだ大道芸を見たことがないから・・・」というメールも頂いた。

まぁ、見たことがない人には大道芸の面白さは実感できないだろうなぁ。大道芸はただ周りで見ているだけでは面白さは半減してしまう、芸人と一緒に大道芸そのものに参加してみて初めて楽しみが判るというものだから・・・。

読者の皆さんからご意見を頂けるのは、大変にありがたいし、励みにもなるから、もっとドンドンとご意見を頂きたい。

近日中に、「北の大地de大道芸フェスティバル」の反省会を開催するので、おおいに参考にさせていただく。

ここ最近の帯広の大道芸は芸人さん任せの部分が多くて、運営上も手詰まり状態になりかけていたきらいがあったと思う。

より良い「大道芸フェスティバル」にできるように、考える時期に来ていたんだなと、今回の問題発生を前向きに捉えていこうと思う。


■2010-08-21-Saturday 来年の大道芸

イャ〜こんなに大勢の方が大道芸に関心を持ってくれているなんて嬉しいなぁ〜。

帯広の方からかなり長文のメールを頂いた。

「市民からの寄付BOX設置」「HPなどに募金バナーの設置」「まつりの委員は柔軟な考えの方に変わるまで待った方が・・・」

「子供達の思い出つくりの為にも夏休み期間(お盆)の平原まつりの日程が望ましい」「イトーヨーカドーやとかちプラザなどで開催してみては・・・」「東京都のヘブンアーティストの様な制度を帯広に作る為の嘆願書・・・」などのご意見を頂いた。

大道芸に関して、市民が自分達の手で何とかしたいと考えて下さることが第一歩であろうと思う。

今後も皆さんの意見を参考に、いろいろな方法を検討していきたいと思う。

ただ、私個人の思いとしては「大道芸は道路上で行うもの」という考えを持っている。

道路は本来、人間のモノであったはずだ!

たった100年前程にフォードがT型フォードの大量生産型の自動車を世に送り出してから道路が自動車のモノになってしまった。

その昔、私がまだ幼かった昭和30年代後半〜40年代前半には平原通りは人で溢れていたし、その頃の道路には生活の匂いがあった。

傷痍軍人がハーモニカを吹いて募金(?)をお願いしていたり、将棋を指している人、サンマを焼いている人、子守りをしている人、戸板の上に商品を並べて売っている人、チンドン屋、いろいろなモノが道路に溢れていた。

道路を自動車中心にして、生活の場から通行する為のものに変えたことから中心街の衰退が始まったと私は考えている。

だからこそ「中心街復活」の一つの方策として大道芸を考えていたので、なるべく中心街で開催したいという思いがあるのだ。

大道芸フェスティバルを単なるイベントとして捉えているのではないのだ。中心街の意味を市民が考え直すキッカケにしたいと考えている。


■2010-08-22-Sunday じゃがいも

青年会議所のゴルフコンペのじゃがいもが、

22日に帯広国際カントリークラブで開催された。

この日は17:00から自宅の町内会の懇親会が我が社のビル内にある居酒屋で開催されることになっている。

12:50頃のスタート予定だから1組目に出させてもらうことを条件にすれば、間に合うか若干の遅刻で済むだろうと考えて申し込んだ。

しかし、日曜日の午後からのコンペが時間通りに進むはずもなかった。

スタートがいきなり30分も遅れて、13:20になってしまったのだ。

「じゃがいも」はコンペ終了後の表彰式に出席しなければ商品が当たらない決まりになっている。全員が上がってくるのを待っていたら19:00近くになってしまう。

こりゃ〜ハーフで止めて帰らなきゃならないかなぁ〜と考えながらプレーした。

中からのスタートで、ティショットはフェアウェーのど真ん中、芝がこのところの晴天で枯れ始めている。芝の根切りの為に3〜5㎝間隔ほどにカッターで芝に切れ目が入っている。その切れ目のディポット状のところにティショットのボールが入っていた。小さな穴にスッポリと沈んでいる状態だ。

ノータッチというルールだから、そのまま打つしかないが、全ホールともフェアウェーがずっとこの状態なら、いいスコアは期待できない。案の定、2打目はトップしてガードバンカーに入れてダボスタートであった。

2番パー、3番でバーディを取って、さぁこれからと思ったら・・・。

4番でゴルフをやってから初めての大チョンボをやってしまった。ティショットはフェアウェーのど真ん中、残り100ヤードのところで連続バーディでもと思ったのだが・・・。同伴競技者のショットがトップしてOB方向に飛んで行った。私が「アッ危ないぞ!」と言ってボールの行方を見ながら横にズレたら、自分のボールを蹴っ飛ばしてしまったのである。こんなチョンボは初めてだ。この4番ホールはボギー。

次の5番ホールは谷越えのミドル。頭に来た私は、無謀にもワンオンを狙って打っていったが、届かずに手前の林の中に落ちた様だった。他の3人は左に安全に打っている。

近くに行ったら、バンカーにボールが刺さっていた。「あぁやっぱり届かなかったかぁ」と言って打ちだしたら、他人のボールなのである。

以前のルールなら「バンカー内の誤球は無罰で打ち直せるのだが、ルールが変更になって2打罰になったのだ」。私のボールは林の中にあった。つまり、私達の組以外の前にプレーしていた人間のボールがそのままバンカーに放置されていた訳である。しかも、フェアウェーからハッキリ見える場所のバンカー内にである。

3人が左に安全に打っていて、私一人がこのバンカー方向に打っているのだし、球は少し埋まっているからボールの番号が見えない位置にあった。新ルールでは、確認の為に拾い上げて戻すことになっているのだが、まさか前の人のロストボールだとは思わなかったのだ。結局この5番はトリプルを打った。

2ホール続けてのチョンボに怒りを通り越して、笑ってしまった。結局このハーフは42打、入賞はとても無理である。

このハーフを終了した時点で時刻は15:30。どう考えても17:00には間に合わないからハーフで止めて帰ろうかとも思ったが、前を行くパーティがいないから、スムーズに回れるだろうし、他の3人にも悪いしと考えて、後半に突入した。

後半は暑さと気合の無さで、ダラケたゴルフで44打であった。

すぐに自宅に戻って、シャワーを浴びて、坂本ビルに向かう。到着したのは18:00丁度であった。

町内会の人達は22名の参加でかなり飲んでいた。私もビールが美味しくて駆けつけ3杯をジョッキで飲んでしまった。汗を大量にかいた後のビールはスイスイと入っていく。

19:00に解散したが、男性4人が残ってもう一軒飲みに行こうということになった。飲み足りなかったので私も参加して飲み。町内会だから皆が近所なので、歩いて自宅まで戻った。

飲んだ後に歩いて自宅に帰れるのは幸せなことだ。


■2010-08-23-Monday カンボジア

21日土曜日の読売新聞の1面に、

上智大学の調査団が20日に新たに首と胴体が切断された仏像6体をカンボジアのシュムリアップにあるバンティアイ・クデイという寺院で発見したという記事が載っていた。

この調査団は2001年にも、同じ寺院から274体もの仏像を発見して、それまでの学説を覆す大発見をしている。

この上智大学アンコール遺跡国際調査団の団長は、帯広市出身の石澤良昭上智大学学長である。

1995年に帯広市の大学設置推進委員会でご一緒させていただき、そのご縁で、2000年7月21日の十勝環境ラボラトリーの国際環境大学公開講座の講師としてお招きをした。

その時に、隣のビルの社長で、帯広青年会議所の先輩でもあり、ゴルフ仲間でもある、浅野祐一さんが、石澤先生と同じ帯広三条高校・上智大学の出身であることから、懇親会に参加して、酔っ払った勢いで、自動車とクレーン車を調査団に寄付すると言い出したのである。その縁を作った者として私が一切の手続きをやらされたのだが、そのお陰で、カンボジアに3回も行くことが出来た。

2007年には先に発見された274体の仏像を展示する「シハヌーク・イオン博物館」の開館式にご招待を受け、カンボジアの国王にも会うことができたのだから、人生というのは正に縁である。

今回の発見も素晴らしい成果を生み出すことになるだろうと思う。

そうしたら、またご招待してくれないかなぁ〜。


■2010-08-24-Tuesday マイヒストリー19

保健所の職員は「ま〜た、来たのか〜、しつこい奴だなぁ〜」

というような顔をして私を迎えたが、この時は、私の説明を聞く内に段々と顔色が変わってきたのだ。そして何度も上司の所に行ってはヒソヒソと話をしてはまた確認の為に私のところに戻ってくるということを繰り返すのである。

その内に保健所の職員から決定的な一言が発せられた「どうやら飲食店としての許可を出さざるを得ないようですなぁ〜」と。

つまり、私が考え出した現在の「北の屋台」の方法は法律上は「露店」ではなく「飲食店」の扱いになるというのである。

食品衛生法上は「屋根・三方を囲う壁・上下水道・ガス・電気・冷蔵庫・扉の付いた戸棚等など」の細かい規定はあるが、面積の規定が載っていないのである。つまり、上記の設備等をした施設を作って、人間が料理できる十分な場所が確保されていれば、大きさの規定が無い以上は、それは飲食店の扱いにせざるを得ないというのである。

遂にやったぁ〜!遂に保健所にウンと言わせたのだ!

最初の福岡視察から1ヶ月間毎日毎日、朝から晩まで屋台のことばかり考え続けて、遂に完全遵法の21世紀型屋台を創り出すことに成功したのだ(詳しくは拙著「北の屋台読本」&「北の屋台繁盛記」をお読みください)。

しかも、この発明にはすごいオマケが付いて来たのだ。

何がスゴイかっていうと、「北の屋台」は露店ではなく、飲食店だから「メニューに制約が無い」ということだ。

福岡博多の屋台は、既得権で営業が出来てるが、法律上の扱いはあくまでも「露店」である。だからメニューには厳しい制約があって「生モノ・冷たいモノは出してはいけない」のである。

「お客さんの口に入る直前に熱処理した温かいモノしか提供してはいけない」のだ。判り易く例を取れば「蕎麦なら、かけ蕎麦は温かいからOKだが、もり蕎麦は冷たいからダメ」「ご飯の保温もダメだから、ご飯もので許可されるのはチャーハンだけ」「野菜サラダはダメで、野菜炒めはOK」という世界なのだ。だから博多の屋台の四大メニューは「ラーメン・おでん・焼き鳥・てんぷら」なのである。

「北の屋台」は飲食店の許可をもらうから「刺身・寿司・サラダ」となんでもござれなのだ。これは画期的なことであった。

かつて終戦直後に日本中に広まった屋台の半分以上が「江戸前の寿司の屋台」であったことがある(この理由を詳しく知りたいかたは拙著「北の屋台読本」を読んで下さい)。この寿司の屋台が現在は日本中どこにも存在していない。昭和23年に発令された食品衛生法によって生モノを屋台では扱えなくなったからだ。寿司屋のカウンターは屋台の名残りなのである。

これを「北の屋台」で復活させれば日本中のメディアが注目するだろうと考えた。

よ〜し、これで「北の屋台」を現実化できるぞ!話題も作れるぞ!と思って商店街事務所に報告しに行ったら・・・。

「お前たちはバカじゃないのか?帯広に今、屋台があるか?」「帯広に屋台が無くて、博多に屋台があるのは、気温のせいだ」「−20℃にもなる帯広で屋台なんぞが出来る訳がない」「せいぜい6〜9月くらいの3カ月程度しか営業できないだろう」「お客さんだって、寒い時に屋台になんか行くもんか」「屋台は南の国のもんだ」というのである。

そこで、ネットで調べてみたら、仙台に既得権でやっている屋台があって、真冬でも営業しているという。「百聞は一見に如かず」さっそく仲間4人で2月の仙台に飛んで確認しに行った。(つづく)


■2010-08-25-Wednesday ものすごい雷雨

24日の早朝にものすごい雷雨があった。

(この文章は24日午前に書いている)

24日の早朝5:50頃に屋根を激しく叩く雨の音で目が覚めた。ゲリラ豪雨の様な激しい雨だ。目が覚めたついでに雨漏りしていないか点検をして、トイレに立って再びベッドに戻りウトウトしていたら、今度は突然ピカッ、ドッカーンと閃光と地響きが間髪入れずに襲ってきて、驚いて飛び起きた瞬間に、ベッドの枕元のコンセントから火花が飛び出た。

おそらく自宅のかなり近くに雷が落ちたのだろうと思う。

玄関のチャイムが誤作動して鳴ったり、あちこちの機械からピ〜だのビ〜だのという音が出ているし、何だか焦げ臭い匂いがする。時計を見たら6:40頃であった。

数十秒後に再びピカッ、ドカーンと雷が落ちて今度はコンピュータのコンセントから火花が散った。

しばらくすると、自宅裏に住んでいる母が傘を差して私の家までやってきて、「電話が通じないから歩いて来た。家の電気が点かないから見て欲しい」と言う。行ってみると、異常電圧用のブレーカーだけが落ちていて、他のブレーカーはそのままである。恐らく雷などの異常な電圧が掛かった時に落ちるブレーカーなのだろう。このブレーカーを戻したら電気が回復した。

我が家に戻って、自宅のブレーカーBOXを開けてみたら、我が家のブレーカーにはこの異常電圧用のブレーカーというのが付いていない。我が家は昭和42年に建てた古い家だからだろうか、雷用の新しいブレーカーが付いていなかったのだ。

急に不安になって家中のテレビをつけたが案の定3台とも映らない。コンピュータもダメだ。温水ボイラーのスイッチも入らない。

温水ボイラーのスイッチが入らないと、このクソ暑いのにシャワーが浴びれなくなってしまうではないか。

テレビだってこの間地デジ対応のに買い替えたばかりだぞ!コンピュータのデータはどうしてくれる!

そうこうしている内に我が家から50mしか離れていない所に住んでいる妻の両親の家はどうなっているのか?と心配になって電話したが繋がらない。停電すると置電話は繋がらないのだなぁ。携帯に電話してやっと繋がったら停電しているというのですぐにパジャマ姿のまま駆け付けてブレーカーを戻してあげた。母の家と同じに異常電圧用のブレーカーが落ちていたのだ。

母の家も、妻の両親の家も被害はまったく無かったが、我が家の方は被害が甚大であったわけだ。

雷の音が聞こえたら、コンセントを抜いた方が良いと聞いてはいたが、コンセントを抜くと、時刻表示などの設定をやり直さなければならないから、とても面倒臭くてやったことがなかったのだ。

まさか、こんなに近くに雷が落ちるとは思ってもいなかった。

日本中でゲリラ豪雨だの雷だのが異常に発生しているから、我が家もそれに備える必要があるだろうなぁ〜。

今日の一件は火事にならずに良かったと考えるべきなのかもしれない。


■2010-08-26-Thursday マイヒストリー20

2000年2月初旬に仙台に行ってみると、

終戦直後は400軒ほどの屋台がひしめいていたと云われているのに、今ではたった4軒しか屋台が残っていないのだ。

仙台でも「屋台」を使ったまちづくりをしようとしたグループがかつてあったが、法律の壁を崩せなくて断念したという話を聞いた。

行政に「法律上出来ないんだよ!」と言われて簡単に諦めてしまったようだ。仙台の人には「マジック的思考法」をする人間が居なかったのだろう。私の様にしつこく何度も何度もあらゆる角度から研究し挑戦しなければ、そう簡単に壁というのは崩せない。

コロンブスの卵と同じで、誰かが実際にやって見せたら「何だ〜そんな簡単なこと」とアッサリ言う人が多いのが一般人の反応だ。だが、最初に思い付いて、そしてそれを実行することはとても難しいことなのだ。

仙台の屋台は博多の屋台よりも一回り小さいサイズであった。この小さい屋台を戸板で作った壁で囲っている。寒さというのは風速1mで体感温度が1度下がると云うから、風を防ぐことで寒さを幾分は回避できそうだ。屋台の中に入ってみると、意外と暖かい。屋台では温かいモノしか出してはいけないという決まりがあるから、当然中で火を使っている。中の空間も狭いから人間の体温と使用している火とのお陰で中の温度は23℃ほどであった。屋台店主に聞くと屋台では冬はコートなどを着たまま食べるのが普通なのだそうだ。少し寒いくらいに居心地が悪い方が、熱燗が売れるし、客の回転が速くなって良いとも言っていた。

宮城県の仙台市と北海道の帯広市とでは冬の気温は10℃ほども違うから、完全な参考になったと云う訳ではないが、少なくとも東北地方でも真冬に屋台が営業出来ているという事実は心強かった。ましてや「北の屋台」の厨房部分は固定化するのであるから、仙台の屋台よりは温度が逃げないだろうと考えた。

早速、帯広に戻ってから、実物大の模型を製作して、坂本ビル東側の駐車場で「寒さ体感実験」なるものを行ってメディアに公開した。

当日は外気温が−7℃という寒さであったが、厨房内の温度は30℃以上になった。囲いを付けなかった客席部分はさすがに寒かったが、客席も仙台のように壁で囲えば何とかなるだろうという目途がついたのだ。

帯広でかつてラーメンの屋台を引っ張っていた方で今はラーメン店の店主になっている方にもインタヴューしたが「昔は真冬の2月でも営業していた。当時は壁なんて作れ無かったから−20℃の寒空に、お湯を沸かす為の七輪2個とコンロ1個だけが暖を取れるものだった。それでも客が、お風呂などの帰りや飲んだ帰りに立ち寄ってラーメンを注文し、出来るまでの間に熱燗を飲んでいったものだ。寒いと思ったら客は来ないだろうと思うよ。寒かったのは客ではなく私らの方だったのさ。だから私らは服を何重にも一杯に着込んで立っていたものさ。」と言っていたのだ。

この時点では屋台店主の暖房に関しては全く問題が無いとの結論を得たのである。

「北の屋台」方式に自信を深めた私は、商店街の人たちの「屋台は南の国のモノ」という考え方は間違っていると思ったのである。

二度目に博多を訪れた際に博多の屋台店主にインタヴューした時には「博多の屋台は冬の風物詩さ」「屋台の売り上げのピークは10〜2月の冬の間なんだ」という話も聞いていたからだ。

むしろ「屋台」の敵は「雨」と「暑さ」だということが判ったのである。(つづく)


■2010-08-27-Friday マイヒストリー21

仙台から戻った2000年2月21日夜に、

坂本ビルの東側駐車場で「第一回寒さ体感実験」を行い、寒さ対策に自信を持った私は早速次の考動に移った。一般市民の側からの期待感を高める戦略を練ったのである。

帯広のお偉方には私たちのやろうとしていることは到底理解できないということが身に浸みたからだ。

ここで練った戦略を一言で表現すると「三日に一度は新聞に載るゾ!」ということである。メディアを活用して、私たちの活動内容を常に市民に公開していく作戦なのだ。その為に頻繁にイベントを繰り出す計画を練った。

私のまちづくりの最終目標は1999年4月に「十勝環境ラボラトリー」で作成した「TMO提言書」に書いた「帯広の中心街にコミュニケーション豊かな場所を構築し、市民の心の拠り所を創り出すこと」である。

郊外型のショッピングセンター(SC)は効率化を図る為に、人員を極限まで少なくしているから、そこで働く人も、買い物に来る客にもセルフ化を強要させて、人を人とも思っていないかのような扱いをしている。

中心街が大資本の郊外店と同じ土俵で戦うのは愚の骨頂、中心街は郊外型SCが不得手なコミュニケーションを武器に戦うべきであるというのが、私の持論なのだ。

そのコミュニケーションを発生させる装置として「屋台」というのは最適な空間なのだである。「北の屋台」を中心街に造って、コミュニケーション豊かな場所がいかに心地良い場所なのかを実証するのが一番の目的なのである。

まちづくりに限らず「目的と手段を混同する人が多い」。

「コミュニケーション豊かな場所を創り出す」ことが目的であって、行うイベントはその目的を達成する為の手段にしか過ぎないのだ。

目的も無く、手段であるイベントだけを繰り返しても、何も得るものはない。ここが肝要なのだ。

何のために行うイベントなのか目的がハッキリしないものは、成果が見えてこないから、やがて張り切って参加している人たちから徒労感が生まれ、組織が空中分解する基となる。

綿密なイベント計画を練り、実際に三日に一度の頻度で新聞に載ったのである。

この2000年2月の時点で「北の屋台」事業に自信を持っていたのは、私一人だけであったろう。

中小企業団体中央会からの補助金の受け皿として組合を設立することを勧められていた私は発起人になれる資格(法人の代表権を持つ人)のある8人に出資をお願いして組合を設立した。

出資には協力してくれたものの、代表理事を誰にするかの件では皆、腰が引けていたのである。お願いしに行った人たち皆が断るのだ。

最終的には私がやるしかないかと考えていたところだったが、最後の1人になった人がやってもいいというのである。

私は、以前にこのブログにも書いたが、父が存命の頃、父が社長で私が専務という立場にあった時に一番仕事がはかどった経験がある。

名目上のトップがいて、私が実務を行うスタイルが、この新事業をやるには最適な方法だと思っていたのだ。

実務をやっている時には即断即決をしなければならない場面が多々出てくる。その時に名目上であっても二番手の位置に居る時には「トップに相談しなければならない」という時間稼ぎができるのだ。これが実際にはとても有効な方法だったのだ。

私は父が死んだ直後に色々な人から「貴方がトップなんだから、今すぐ決めなさい」と迫られ、苦い思いや痛い思いを数々したことがあるので、北の屋台でナンバー2の立場にいて実務を取ることが一番スムーズに事が進むと考えていたのである。

ところが、この方法はヤッパリ誤りであった。少なくともトップに立つ人間は誰でも良いという訳ではなかったのだ。やはりそれなりの見識を持った人間がトップに立たなければ組織というものは上手くいかないものだということは後に身を持って知ることになる。(つづく)


■2010-08-28-Saturday マイヒストリー22

北の屋台の成功を確信していた私は、

この2000年2月段階で、この年1年間を掛けてPR活動に務めることにした。まずは組合を設立し、HPを開設、世界の屋台の写真や日本の屋台の写真を60枚ほどのパネルにして市役所・デパート・駅などで「世界の屋台パネル展示会」を開催していった。

全国にもPRする為に、「北の屋台 アイデア・デザインコンペティション」を開催して、寒さ対策のアイデアや新しい屋台のデザインを募集した。

私は、学究肌のところがあるので、馴染みの神田の古本屋に依頼して屋台に関する文献を購入し読み漁って個人的に屋台を研究した(この研究は2001年7月29日の北の屋台のオープンの日に「北の屋台読本」として出版することになる)。

その他のイベントとしては、全国各地の青年会議所の協力を得て1万人アンケート調査を実施した。全ての都道府県に1万部のアンケート用紙を配布して4300部を回収するという高率回収のアンケートで、この内容を綿密に分析して報告書を作成した。

帯広市内では、新聞で一般市民に呼び掛けて、「屋台に最適な場所を探そう!ナイトツアー」を実施、話題を作るとともに、いかに多くの人を巻き込むかに腐心した。

私は、このナイトツアーには別の思惑があったのだ。私の職業柄、現在の北の屋台を営業している場所が当初から最適地だろうと考えていたのだが、いきなり地主さんに貸して欲しいと交渉しても上手くいかないだろうなと考えていたのである。そこで一計を案じたのだ。

一般市民が夜の帯広市を散策して選んだ候補地の一つがこの場所になったんだと云う風に仕向けたかったのである。案の定、4つのグループが選んだ候補地の一つにこの場所が入った。

翌日の午前中にすぐに地主さんの店に行き「貴方が所有している隣の駐車場が、昨晩のナイトツアーで市民から北の屋台の候補地の一つとして選ばれた。この場所で屋台をやることを検討してみても構わないだろうか?・・・・」と報告しに行ったのだ。地主に無断で我々が勝手に検討作業をやったら不快感を持たれてしまう。そうなったらお終いである。こじれた感情を戻すのは至難の業だからだ。だから、事前に「市民が選んだ一等地の所有者」というクスグリを入れて自尊心を煽ることにしたのである。地主さんからは「検討することは構わないよ」という返事をいただいた。「では、この駐車場に立ち入って、地面にチョークなどで屋台の大きさを書いたりしても構いませんか?」と尋ねたら、事前に了解さえ求めてくれるなら良いとの返事を貰ったのだ。

この返事さえ貰ったら、もうこっちのものだ。

早速、新聞記者を呼んで、この駐車場で検討作業に入った写真を取らせて記事として掲載してもらった。もうこうなるとこの場所でやることが既成事実化してしまう。

しかし、この地主さんとの交渉はこの後とても難しい局面を迎えることになる(この部分だけでかなりな長文になるので後日じっくり書くことにする)。

イベントばかりを続けるのはお金も人員も体力も必要だ。だから一回のイベントで3回新聞に載るようにしたのである。まず1回目は「こう云うイベントを開催しますよ〜」という告知の記事、2回目は「実際にそのイベントをやっている写真付きの紹介記事」、3回目は「そのイベントをやった後の成果などを話合う会議の内容の記事」の3回である。

これは新聞記者との良好な信頼関係があって初めてできる戦術なのだ。

アイデア・デザインコンペで面白いデザインの屋台が出てきたので、実物大の模型を造って藤丸デパート前に展示した、その屋台を使った販売イベントも行った。極め付けは2001年2月に開催した「第2回寒さ体感実験」である。これは現在の北の屋台とほぼ同じ大きさ、方法で組み立てた実物大屋台を2台、坂本ビル東側駐車場に設置して、一般のお客さんに飲食をしてもらうというものである。1台は囲いをビニール、もう1台はアルミサッシなど2台の違いを際立たせて、関心を高め、更に綿密なデータを取ったのである。(つづく)


■2010-08-29-Sunday この暑さは・・・

この暑さは一体どうしたっていうんだ!

お盆を過ぎてから2週間以上も30℃を超える日が続くなんて生まれてこのかた経験したことがない。

しかも、この暑さの中でゴルフをやるのだから、汗をかき過ぎて身体の調子が何だスッキリしない。

27日は法人会のゴルフコンペが国際カントリークラブで開催された。午前9:00のスタート、朝方は霧がかかっていたが、その霧が晴れてきたら気温がグングン上がってきてあっという間に30℃になった。

汗がとめどなく出てくる。熱中症にならないようにスポーツドリンクを飲みながらプレーするが、タオルもグチョグチョ、服も背中からパンツまでビチョビチョで、しゃがむ度にズボンが引っ掛かる。

どうにも集中力が出なくてチョンボばかりしてしまう。

そんな中で、同伴競技者が東7番のショートホールでホールインワンを達成した。距離は160ヤード、6番アイアンで打ったボールがワンバンドでカップに入った。前の組の人が達成したのは以前にあったが、同伴競技者が達成したのは初めてのことである。100万円の保険に入っているというから、記念品が送られてくるのが楽しみだ。私も一度は経験してみたいものだ。

この日は東42打、中43打、ダブルペリア方式で10位であった。

28日(土)は6:30から大学の同窓会の役員会と懇親会があった。この日は北海道新聞社の花火大会があったので街には人が多く出ていて、どの店も混んでいた。

坂本ビルの甘太郎に入って大いに飲んで食べた。

今日は朝6:30集合のゴルフコンペ「ガバナーカップ」が帯広カントリー嵐山コースで開催された。90名の参加があった大きなコンペだ。このコースは帯広から車で40分と遠いところ(東京の人からフザケルナと言われそう)にある。朝早かったので食事をしないで自宅を出た。クラブハウスにおにぎりくらい売っていると思ったのであるが・・・。

残念ながら食べ物が売っていなかったので、空腹のままプレーした。今朝も霧が深かったが、スタートするころにはスッカリ晴れて、気温が上昇してきた。今日も30℃超えの気温だ。

インスタート、グリーンがとても速くてしかも難しい場所にカップが切ってある。昨日、選手権大会があったとかで難しい状態のままなのだ。イン5番はカップのやや左上5メートルにパーオンしたが、このグリーンは異常に早い。同伴競技者が打ったパットが皆、カップを通り越してから加速してグリーンから出てしまう。

私はカップの方には身体を向けずに、カップの上3メートルくらい上を狙ってパットを打ったが、さすがに上過ぎて、カップの上30センチで止まってしまった。このカップ真上30センチのボールに触っただけのパーパットがコロコロと5メートルほど転がってグリーンから出てしまった。この返しの5メートルを入れてボギーである。結局インコースはボギーとパーが交互に来て41打。

アウトに行く前におにぎりを注文して食べてからスタート。空腹がまぎれたから調子が良くなったのか、速くて難しいグリーンで苦労したが3パットのボギーを打ったのが5番と9番だけで後は全部パーで38打。

参加者数が多くてしかもダブルペリア方式だから、表彰式はやらずに、後日、商品券を送るとのこと順位はまだ判らないままだ。

自宅に戻ってから、庭で焼肉をやりながらビールを飲んだ。食べ終わってから温泉に行った。これぞまさしく北海道の休日である。北海道に生まれて本当に良かった!。


■2010-08-30-Monday マイヒストリー23

1999年は北の屋台のことばかりをやっていたわけではない。この年はやたらと忙しい年だった。

十勝環境ラボラトリー(TKL)の活動としては

環境童話絵本の第一作目「おおかみのこがはしってきて(文:寮美千子・絵:小林敏也)(パロル舎刊)」の発刊を3月22日におこなったが、前後して3月4・5日は童話プロジェクトのシンポジュームの開催、16日には市役所記者クラブで会見、19日に出版元のパロル舎の社員が来帯して十勝支庁などを一緒に回り、22日は出版に合わせてフォーラムを開催した。

環境大学公開講座では(肩書は当時)1月:森山正与志(一級建築士)・2月:橘川幸夫(デジタルメディア研究所代表)・3月:片岡勝(市民バンク代表)・5月:斎藤聖美(エースジャパン)・6月:延藤安弘(千葉大学教授)・7月:寺島善一(明治大学教授)・8月:宮嶋望(新得共働学舎代表)・9月:渡辺洋子(カラーアナリスト)・10月:貫成人(埼玉大学助教授)・11月:小松光一(グローバル地域研究所)と4月と12月は飛ばしてしまったが10回開催している。

食文化環境プロジェクトでは、天婦羅職人の久松正さんを浜松から迎えて、十勝の食材で天婦羅料理の講習会を開催した。

1995年にTKLの前身である「国際環境大学構想プロジェクト」で視察に訪れたアメリカのコロラド州ボウルダー市からは秋間美江子さんらが、私の話に興味を持って、帯広市を是非とも見てみたいと友人を伴って5月2・3日と来帯された。

また駒澤大学の同窓会の十勝支部を設立しようという話が持ち上がってきて、こちらの方もやたらと忙しくなってきた。TKLと北の屋台の仕事をやりながら、その暇を縫って同窓生を集めて会議を何度も開催したのである。その甲斐あって10月3日(日)に帯広グランドホテルで「駒澤大学同窓会十勝支部」の設立総会を開催することができ、私は幹事長を務めることになった。

帯広市役所の「都市デザイン委員会」という部局の一員にもなっており、この視察旅行が11月9〜11日まであって金沢市と長浜市を訪れた。

これ以外にも11月18日に「環境を考える経済人会議」が東京の虎の門で開催され、この会議にもスピーカーとして招聘された。この年は何度も東京に出向いているし、屋台の視察でアメリカ・シンガポール・台湾と行っている、夏休みには家族旅行でアメリカに行っているから、何だかやたらと旅行ばかりしていて、ほとんど帯広に居なかったような気がする。

この私的な旅行のほとんどを北の屋台で一緒に活動していたKの旅行会社に依頼していたのだが・・・。まぁその対応があまりにもひどいこと、ひどいこと。

この後すぐにこの旅行会社が破綻するのだが、そうなるとKは北の屋台から給料が欲しいと言い出すのである。(つづく)


■2010-08-31-Tuesday 妻の・・・

昨日は妻の、

53回目の誕生日だった。

朝、起きて新聞を読んでいたら、妻が「今日は、ナ〜ンの日だ?」と普段と違うトーンの声で聞くので、咄嗟に考えを巡らし、直後に妻の誕生日であることを思い出して「そりゃ〜君の誕生日だよ」と瞬間的に答えることができた。ここで時間が掛かるとエライ事になる。

「何かプレゼントがあるの?」と聞くので、プレゼントなど用意していないから「形ではなく愛情で示すよ!どこかに夕食でも食べに行こうか?」と答えた。

すると「競馬場に出来たとかちむらで食事をして、馬券を買ってみたい」と言う。

私はギャンブルが嫌いだから、競馬はやったことがない。ばんえい競馬も、去年、東京から来たお客さんを連れて行った際に、付き合いで初めて買っただけなのだ。買い方も予想の仕方も全く判らないが、まぁ、行けばなんとかなるだろうと息子と三人で自宅から歩いて行った。競馬場は自宅から徒歩20分程度で到着する距離だ。

競馬場に入るには一人100円の入場料が掛かる。手前のとかちむらで買い物や食事をしたら招待券をくれるというので、先にピザぐらい食べて招待券をもらおうかと提案したのだが、妻は、まだお腹がすいていないから、先に馬券を買おうと言う。自分でお金を出す時なら、100円でも惜しむくせに・・・。

300円を私が支払って入場し、馬券販売所に行ったら、第8レースの締切り5分前だというので、買い方が判らないから、口頭の販売所でおばちゃんの説明を聞きながら「馬連」というのを適当に200円ずつ4つ買った。妻と息子は200円ずつ、3つずつ買った。馬券は自分のお金で賭けなければ悔しさも嬉しさもないと思ったから、自分のお金で買わせた。

レースが始まる前に、入口付近で「ビアガーデン」をやっていたので、ビール3杯を買って、飲みながら応援した。

妻が買った馬券が1,020円ついて2,040円になった。600円の投資が2,040円になったと大喜びである。1000円賭けていたら10,200円になっていたと、レバ、タラの話をする。

そんなことを言っていたら、誰でも億万長者になれるってもんだ。

まずは、妻が良い気分になってくれたのは良かった。

このビアガーデンだが、今日が最終日だという。客は市役所の職員や、市議会議員の所属する会社の社員や、青年会議所のOB会の連中など、見知った顔ばかりである。身内にしか券が売れなかったのだろうか?

でも、「とかちむら」という飲食店街が出来たのだから、このビアガーデンは営業妨害になるのではないのかしら?とフッと思ったのだった。

その後、妻はこの第8レースで稼いだお金を増やそうと思ったらしいが・・・、そんなに簡単なものではなかった。

第10レースまで競馬場でビールだけで過ごしたが、お腹がすいてきたのでとかちむらに入って食事をした。

とかちむらは競馬場内の施設なのに、馬券を買う場所もないし、テレビの中継や放送もない。

運営者のポリシーなのだろうが、競馬場の施設なのだから、せめてテレビの2〜3台位は客の見えるところに設置しておかないと、いちいち競馬場まで確認しに行かなければならず。まことに不便である。

結局第11レースまでやって妻は0円、私は4000円、息子は1000円のマイナスで、競馬場に貢献してきたのだった。